第三章 剣を抜く
翌朝。橋に戻った。
サルタビコが立っていた。昨日と同じ場所に。霧の中に。鼻の光が白く浮かんでいた。
アメノウズメが後ろからついてきた。
「おはようございます、鼻の光の人!」
「……その呼び方はやめろ。」
「じゃあ何て呼べば」
「猿田毘古神だ。」
「長い。——猿さんでいいですか」
「……短くしすぎだ。」
「じゃあサルタビコさん」
「…………好きにしろ。」
好きにしろ、と言った。昨日は「通さない」しか言わなかった男が。名前を聞かれて、好きにしろと言った。
「天孫。——剣を抜け。」
「ああ」
草薙剣を抜いた。雲模様の刃。光っていない。昨日と同じだ。
構えた。
昨日と同じことをしても同じ結果になる。分かっている。しかし——他にやり方を知らない。
踏み込んだ。
振った。今度は——斬るのではなく、突いた。刃の先端をサルタビコの胸に向けて。
手のひらが出てきた。刃先を二本の指で挟まれた。止まった。
指二本。
昨日は手のひらだった。今日は指二本。省力化されている。舐められている。
「……力がない。——剣に力が乗っていない。」
「力を込めている」
「お前の力は込まっている。しかし剣の力が乗っていない。——お前と剣が繋がっていない。」
「繋がっていない」
「お前は握っているだけだ。剣は応えていない。」
指が弾いた。剣が跳ね返された。手が痺れた。
もう一度。
振った。今度は全力で。体重を乗せて。足を踏み込んで。高天原で習った技の中で一番速い型で。
——風が来た。
昨日と同じ息。しかし今度は横に吹かれた。転がらなかった。足を踏ん張った。踏ん張れた。昨日より——ほんの少しだけ。
「……踏ん張れたか。」
「ああ」
「しかし剣は光っていない。——光らない限り、俺は動かない」
光らない。
何度抜いても。何度振っても。雲模様は静かなまま。嵐の記憶は握ったときに走ったきり、二度目はなかった。
座り込んだ。橋の上に。
草薙剣を膝の上に置いた。刃を見た。雲の模様。刃の中に閉じ込められた雲。
「……なぜ光らない」
独り言だった。サルタビコに聞いたのではない。剣に聞いた。
答えはなかった。
「地に根を張った者にしか応えない——と建御雷神は言った。根を張るとは何だ。俺はまだ地上に降りてもいない。降りてもいない者に応えないのは当然か」
「…………」
「しかし降りるためにはお前を通す必要がある。通すためには剣が光る必要がある。剣が光るには根を張る必要がある。根を張るには降りる必要がある。——堂々巡りだ」
「堂々巡りだ。——その通り。」
サルタビコが言った。初めて——俺の言葉に同意した。
「俺もそう思っている。」
「……思っているのか。自分で」
「この境界は理不尽にできている。——天の者が地に降りるには地の力がいる。地の力を得るには地に降りなければならない。矛盾だ」
「矛盾なら——なぜ塞いでいる」
「それが俺の役目だからだ。」
「役目と矛盾は別の話だ」
「…………」
サルタビコが——黙った。
初めて、黙り方が変わった。昨日の沈黙は「答える必要がない」という沈黙だった。今の沈黙は——考えている沈黙だった。
「おじゃまします」
アメノウズメが割り込んできた。考えている沈黙を——明るい声で破った。
「あの。ニニギさまと鼻——サルタビコさんが難しい話をしているところ悪いんですが」
「悪いと思うなら黙っていてくれ」
「無理です。——踊っていいですか」
「は?」
「踊りたいんです。じっとしていると足がむずむずする」
「踊る場合か」
「踊る場合です。——だって二人とも怖い顔してるから。怖い顔を見ていると踊りたくなるんです」
何を言っているのか分からなかった。
アメノウズメが——橋の上で踊り始めた。
止める間がなかった。言い終わる前にもう動いていた。足が鳴った。手が揺れた。体が回った。
踊りだった。しかし——型がなかった。高天原の踊りには型がある。どの足をどこに置いて、どの手をどこに伸ばすか決まっている。アメノウズメの踊りには——何もなかった。好きに動いている。足が動きたい方に動いている。手が行きたい方に行っている。
しかし——見ていた。
見てしまっていた。止めようとして口を開いたのに、止まったのは俺の口だった。
何だこの踊りは。型がない。美しくもない。正しくもない。しかし——目が離せない。
「…………」
サルタビコが——見ていた。
鼻の光が——揺れていた。一定だった光が。安定していた光が。アメノウズメの足に合わせて——揺れていた。
踊りが鼻の光を揺らしている。
アメノウズメは気づいていない。自分の足元しか見ていない。いや、足元も見ていない。目を閉じていた。目を閉じて踊っていた。
風が来た。
サルタビコの息ではなかった。アメノウズメの踊りが起こした風だった。橋の上の空気が動いていた。足が鳴るたびに。手が空を切るたびに。
その風が——霧を散らした。
サルタビコの顔が見えた。初めて。
——赤かった。
肌が赤い。日に焼けたような赤さではなく、大地の色だった。山の土の色。鼻が高く、長く、その先端が白く光っている。目は小さい。しかし——開いていた。大きく。アメノウズメを見ていた。
口が——開きかけていた。何か言おうとしていた。しかし言えなかった。
俺は三種の神器で動かせなかった。アメノウズメは踊りで——この男の口を開きかけさせた。
踊りが——止まった。
アメノウズメが止まった。息を切らしていた。目を開けた。
「…………あれ」
霧が晴れていた。サルタビコの顔が見えていた。
「……顔、見えてる。——赤い。お顔、赤いんですね」
「…………」
「赤くてきれいですね」
「——やめろ。」
サルタビコが——一歩退いた。昨日の半歩より大きい一歩。
「踊りを——やめろ。」
「え。なんでですか」
「…………理由はない。やめろ。」
「理由がないならやめません。——楽しかったし」
「…………」
サルタビコの鼻の光が——明るくなっていた。昨日より明るい。踊りの前より明るい。
照れている。また。
俺が剣を振っても微動だにしなかった男が。アメノウズメが踊ると退く。踊りをやめろと言う。そして——鼻が明るくなる。
「……サルタビコ」
「何だ。」
「明日も来る」
「……来い。」
「剣を振る。——お前が動くまで」
「動かない。——しかし来い。」
矛盾していた。動かないと言いながら来いと言う。昨日は「何度来ても同じだ」と言った。今日は「来い」と言った。
何かが変わっている。俺の剣は変わっていない。光っていない。
しかし——何かが動いている。
橋を戻った。アメノウズメが隣を歩いていた。
「ニニギさま」
「何だ」
「あの人の顔、赤くてきれいでしたね」
「……まだ言うか」
「だってきれいでしたもん」
「…………」
「あの人、たぶんずっと霧の中にいたんですよ。誰にも顔を見せずに。鼻の光だけ見せて。——顔が赤いのが恥ずかしかったのかな」
「知らない」
「私は知りたいです」
「…………」
「明日も踊っていいですか」
「止められると思っていない」
「やった」
やった、じゃない。
草薙剣を見た。腰の鞘の中で沈黙している。雲模様は動いていない。光っていない。
しかし——今日、一つだけ分かったことがある。
剣が応えないのは、俺と剣が繋がっていないからだ。握っているだけで、繋がっていない。
繋がるとは何だ。どうすれば繋がる。
鞘から抜いた。もう一度。橋の上で。一人で。
雲模様を見た。動かない。しかし——最初に握ったとき、嵐の男の記憶が走った。あの男は、この剣と繋がっていたのか。
あの男は——何を斬っていた。何のために。
足の裏が——痺れた。
一瞬だった。橋の光の奥から、何かが触れたような感覚。声ではない。振動でもない。もっと——遠い何か。
気のせいか。
——たぶん、気のせいだ。
ご拝読いただきありがとうございました!
作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!
「続きをチェックしたい!」
→ 【ブックマークに追加】をポチッと!
「面白かった!」「続きに期待!」
→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!




