第二章 境界の神
降りる道は——一本しかなかった。
高天原と地上の間に、光の柱がある。天浮橋と呼ばれている。光でできた橋。幅は広いが、両側に何もない。踏み外したら——どこに落ちるか分からない。
橋の入口に立った。下を見た。
遠い。地上が遠い。毎日宮殿の縁から覗いていたが、実際に橋の上に立つと——遠さの質が違った。「見ている遠さ」と「行く遠さ」は別だ。
足を踏み出した。
橋は光でできているのに——足の裏に感触があった。高天原にはなかった感触。硬い。冷たい。橋を降りるだけで、もう何かが変わり始めている。
下に向かって歩いた。光が薄くなっていった。高天原の白い光が、一歩ごとに減っていく。代わりに——色が見え始めた。
青が見えた。空の色だ。上から見ると空は白い。下から見ると青い。なぜだ。分からない。しかし——きれいだった。
歩いた。もっと降りた。光がさらに薄くなった。橋の先が——見えなくなっていた。
霧だった。
白い霧が橋の先を覆っていた。光を遮っている。高天原の光が届かない場所。
その霧の中に——何かが立っていた。
大きかった。
建御雷神より大きかった。建御雷神は岩を積んだような体だったが、こちらは——山だった。山が立っている。橋の幅いっぱいに、一柱の神が立って道を塞いでいた。
顔が見えない。霧の中に体の輪郭だけが見える。巨大な肩。太い腕。
そして——鼻。
鼻だけが光っていた。
白い光。顔のどの部分よりも長い鼻が、その先端だけ白く光っている。霧の中で鼻の光だけが浮かんでいた。
何だ。
何だこれは。鼻が光っている。なぜ鼻だけ光る。どういう仕組みだ。
「——天孫。」
声が来た。低かった。山が喋ったらこうなるだろうという声。地面が揺れた。橋が揺れた。
「ここから先は——通さない。」
「……お前は何だ」
「猿田毘古神。——境界を守る者だ。」
サルタビコ。名前だけは聞いたことがある。天と地の境界にいる神。どちらにも属さない神。高天原の者でも地上の者でもない。
「道を塞ぐな。——俺はアマテラスの命で地上に降りる」
「知っている。——しかし通さない。」
「なぜだ」
「お前に——地上を踏む資格があるか、確かめる。」
「資格。——俺は天孫だ。アマテラスの孫だ。三種の神器を持っている。資格がないとでも」
「ない。」
短かった。断定だった。鬼のような建御雷神ですらもう少し言葉を重ねた。この男は——一言で斬った。
「神器を持っていることと、使えることは違う。——剣を抜け。」
「…………」
「抜いて、俺を斬ってみろ。斬れたら通す。」
腰の草薙剣に手をかけた。雲の模様が浮かんだ刃。握ったとき嵐の記憶が走った剣。
抜いた。
構えた。——構え方は知っている。高天原で教わった。剣の振り方。足の運び。全て習った。しかし——実戦は初めてだった。
踏み込んだ。
振った。
——何も感じなかった。
手応えがなかった。斬れていない。剣が触れた感触すらない。サルタビコの体に届く前に——風が来た。
正確には風ではなかった。サルタビコが息を吐いただけだった。息が風になった。風が——俺の体を吹き飛ばした。
橋の上を転がった。十歩分。二十歩分。草薙剣が手から離れかけた。握り直した。
起き上がった。
サルタビコは動いていなかった。腕も上げていない。足も動いていない。息を吐いただけだ。
「……今のは——」
「息だ。——剣を抜いて斬りかかって、息で吹き飛ぶ奴を通すわけにはいかない。」
息。息で吹き飛ばされた。天孫が。三種の神器を持った天孫が。
もう一度走った。
今度は低く。足を使って。橋の端を蹴って横から——
——壁だった。
サルタビコの手のひらが前に出ていた。壁と同じだ。手のひらに突っ込んで、止まった。走った勢いが全部止まった。手のひら一枚で。
「……何だお前は」
「境界を守る者だ。——天と地の間にいる。お前は天の側から来た。天の力しか持っていない。天の力だけでは——この境界は越えられない」
手のひらが押した。吹き飛んだ。また転がった。
三度目。走ろうとした。
「やめておけ。——同じだ。何度来ても。」
「…………」
「お前の剣は光っていない。光らない剣で俺は斬れない。」
光っていない。
分かっていた。第一章で——いや、さっき奥の間で抜いたときから分かっていた。この剣は光らない。力を込めても。念じても。雲模様は動かない。
「……どうすれば光る」
「教えない。——自分で見つけろ。」
また「自分で」だ。アマテラスも建御雷神もサルタビコも——誰も教えない。
橋の上に座り込んだ。悔しかった。三度突っ込んで三度弾かれた。息で。手のひらで。最後は言葉で。
サルタビコが——立っていた。霧の中に。鼻だけが光って。動かなかった。
——足音がした。
後ろから。橋の上を。軽い足音。
「ニニギさまー! 先に行かないでくださいー!」
声がした。明るかった。場の空気に全く合っていなかった。
振り返った。
女が走ってきた。高天原の衣を着た女。髪が長い。目が大きい。笑っている。
——なぜ笑っている。この状況で。
「アメノウズメ。——お前、なぜここにいる」
「お供です! アマテラスさまに言われました。ニニギさまに付いていけと」
「聞いてない」
「言い忘れたんだと思います。——あっ」
アメノウズメが——サルタビコを見た。霧の中の巨大な影を。鼻の光を。
「…………」
「でかっ」
感想がそれか。
「何ですかあの人。でかいですね。——あれ、鼻が光ってる」
「見れば分かる」
「なんで鼻だけ光ってるんですか」
「知らない」
「変ですよね。体は光ってないのに鼻だけ」
「変だと思うがそれは今の問題ではない」
「いや結構大事じゃないですか? 鼻が光る理由」
「大事じゃない。——道を塞がれている。三度弾かれた。通れない」
「ふーん」
軽かった。天孫が三度弾かれたという報告に対して「ふーん」。
アメノウズメが——サルタビコの方に歩き始めた。
「おい。行くな。危ない」
「大丈夫です。——話してみます」
「話して通れるなら俺が三度弾かれる意味がない」
「ニニギさまは剣で行ったんでしょう? 私は剣を持っていませんから。別のやり方で」
「別のやり方」
「はい」
アメノウズメが——霧の中に入っていった。
サルタビコの前に立った。見上げた。首が折れそうなほど見上げた。サルタビコの顔は霧の上にある。アメノウズメの頭はサルタビコの膝あたり。
「こんにちは!」
沈黙。
「大きいですね!」
沈黙。
「鼻が光ってますね!」
「…………」
サルタビコが——初めて、言葉に詰まった。
俺が三度突っ込んでも微動だにしなかった男が。息一つで天孫を吹き飛ばした男が。——「鼻が光ってますね」に、黙った。
「きれいですね。鼻の光」
「…………きれい、だと。」
「ええ。霧の中で、そこだけ光ってて。星みたい」
「……星。」
「星です。——あ、私、アメノウズメといいます。ニニギさまのお供です。よろしくお願いします」
「…………」
サルタビコが——動いた。初めて。
一歩、後ろに。
退いた。半歩だが。確かに。
退いたのだ。息で天孫を吹き飛ばした神が。手のひらで止めた神が。——「鼻がきれい」と言われて、半歩退いた。
「おい——」
「あ、ニニギさま。この人、照れてますよ」
「照れて——」
「鼻の光がさっきより明るくなった。——照れると明るくなるんだ。かわいい」
「かわいくはない」
「かわいいですよ」
「かわいくは——ない。」
サルタビコの声が——揺れていた。山が揺れていた。怒りではなかった。明らかに——動揺だった。
何だこれは。
高天原最強の剣が通じなかった境界の神が。三種の神器を持つ天孫が弾かれた壁が。
——「かわいい」で揺れている。
アメノウズメが振り返って、俺に向かって笑った。
「ニニギさま。この人、悪い人じゃないと思います」
「……何を根拠に」
「照れる人に悪い人はいません」
根拠がない。完全に根拠がない。しかしアメノウズメは確信していた。この女は——根拠なく人を信じる。
サルタビコが——咳払いをした。山が咳をしたような音がした。
「……天孫。」
「何だ」
「今日は——通さない。しかし」
「しかし」
「明日また来い。——もう一度、剣を見せろ。」
今日は通さない。しかし明日また来い。
さっきまで「何度来ても同じだ」と言っていた男が。明日また来いと言った。
何が変わったのか。俺の剣は変わっていない。光っていない。
変わったのは——アメノウズメが来たことだけだ。
橋を戻った。高天原の方に。
アメノウズメが隣を歩いていた。
「……アメノウズメ」
「はい」
「お前は——何をしたんだ」
「何もしてません。鼻がきれいだと言っただけです」
「それだけであの男が退いた」
「退いたんじゃないと思います。——びっくりしたんです。鼻のことを褒められたことがなかったんじゃないですか」
「…………」
「光ってるのに。きれいなのに。誰も言わなかったんですよ、たぶん。——怖がるだけで」
怖がるだけで。
確かに俺は怖がっていた。鼻の光が変だと思った。何だあれは、と。きれいだとは思わなかった。
「あの人、ずっと一人で橋の上にいるんですよね」
「境界を守る者だから」
「寂しいですよね」
「……寂しいかどうかは知らない」
「寂しいですよ。——ずっと一人で、道を塞いでて、来る人はみんな剣を抜いて向かってくる。鼻がきれいって言う人は一人もいない。——そりゃ照れますよ」
なぜこの女は、会って数瞬の相手の気持ちが分かるのだ。
「……お前の方が剣より怖い」
「褒め言葉ですか?」
「分からない」
アメノウズメが笑った。明るい笑いだった。
霧の向こうで——鼻の光が、まだ見えていた。さっきより少し明るい気がした。
気のせいだろう。
——たぶん。
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