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第一章 高天原

挿絵(By みてみん)

 地上は——暗かった。


 宮殿の縁から覗くと、遥か下に大地が見える。山がある。川がある。森がある。海がある。全部知っている。見たことがある。——しかし触ったことはない。


 高天原(たかまがはら)の光は白い。どこにいても明るい。影ができない。重さがない。空気が薄くて、軽くて、何をしても体が浮くような感覚がずっと続く。


 地上は違う。


 色がある。暗さがある。影がある。上から見ていると——濃い。何もかもが高天原(たかまがはら)より濃い。


 何がそんなに濃いのか。分からない。見ているだけでは分からない。


「ニニギ。——来なさい」


 声がした。振り返った。


 祖母だ。


 正確には、父の父の母だ。ややこしいがそうなる。アマテラスオオミカミ。太陽を司る神。高天原(たかまがはら)の最も高い場所にいる方。


 ——正確に言い直すなら、高天原(たかまがはら)そのものだ。この光はこの方の光で、この世界はこの方の世界で、俺たちはこの方の世界に住んでいる。


「また覗いていたのですか」


「見ていただけです」


「同じことです。——来なさい。渡すものがある」


 渡すもの。何だろう。


 宮殿の奥に向かって歩いた。足が床に触れているが、触れていないような感覚。高天原(たかまがはら)は全てが軽い。足の裏に何の感触もない。


 奥の間に着いた。


 暗かった。


 高天原(たかまがはら)に暗い場所があるのは珍しい。光の世界だから。しかしこの部屋は——暗い。壁が黒い。床が黒い。天井が見えない。


 暗い中に——三つの光が浮かんでいた。


 一つは丸い。鏡だ。光を反射して、しかし光っているのは鏡自身だった。何を映しているのか分からない。覗き込みたかったが——怖かった。覗いたら何かが見える気がした。見たくないものが。


 一つは丸くて小さい。玉だ。曲がった形をしている。石のような、しかし石ではない。温かい光を放っている。触りたかったが——これも怖かった。触ったら手が離せなくなる気がした。


 一つは——長かった。


 剣だ。


 鞘に収まっている。光っていない。鏡と玉が光を放っているのに、剣だけが黙っていた。暗い中に、暗いまま置かれている。


「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」


 声がした。振り返ると——もう一柱いた。


 大きかった。丸太のような腕。岩を積み上げたような肩。体の輪郭から稲妻が漏れている。鬼のような顔。


 建御雷神(たけみかづち)。高天原(たかまがはら)最強の武神。


「……なぜあなたがここに」


「証人として立ち会う。——アマテラスさまの命だ」


 証人。何の証人だ。


 アマテラスが奥の間に入ってきた。光がない部屋に——アマテラス自身が光だった。白い衣。白い肌。白い目。光そのものが形を取った姿。


「ニニギ」


「はい」


「お前に、これを渡す」


 三つの光を示した。鏡と、玉と、剣。


挿絵(By みてみん)


「八咫鏡(やたのかがみ)。八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)。草薙剣(くさなぎのつるぎ)。——三種の神器。天の力の全てが、この三つに宿っている」


「なぜ——俺に」


「地に降りるからだ」


「…………降りる」


「お前が、地に降りて、確かめてこい。地上がどんな場所か。何があるか。何が必要か」


「……見ていれば分かるのでは」


「見ていては分からない。——見ていて分かるなら、お前はとうに覗くのをやめている」


 言い返せなかった。


 毎日覗いていた。宮殿の縁から。飽きずに。地上の色が変わるのを見ていた。山が白くなる季節。川が太くなる季節。森が茶色くなる季節。全部——見た。見て、分からなかった。なぜ色が変わるのか。なぜあんなに濃いのか。


 見ていて分からないから、毎日見ていた。


「……降りたら——何をすればいいのですか」


「自分で見つけなさい」


「…………」


「降りて、歩いて、触って、見つけなさい。お前の足で」


 アマテラスの声は穏やかだった。命令ではなかった。しかし——断れないことは分かった。


「三つのうち——剣を最初に持ちなさい」


 剣。光っていない方。暗い中に暗いまま黙っている方。


 手を伸ばした。鞘に触れた。


 ——冷たい。


 高天原(たかまがはら)に冷たいものはない。全てが光で温かい。しかしこの剣は——冷たかった。異質だった。高天原(たかまがはら)のものではない。


 握った。柄を。


 ——何かが走った。


 頭の中に。映像ではない。音ではない。匂いでもない。もっと——直接的な何か。感覚が流れ込んできた。


 嵐。


 嵐の感覚だった。風が吹いていた。暴風だった。その暴風の中心に——誰かが立っていた。大きな影。金色の——いや、くすんだ金色の影。


 影が何かを斬っていた。巨大な——八つの頭を持つ何かを。暗い闇の中で。嵐の中で。剣を振って。一つずつ。


 影の顔は見えなかった。しかし——声が聞こえた。


 叫んでいた。何かの名前を。聞き取れなかった。


 ——消えた。


 手の中に剣があった。冷たかった。しかし——握った後は、少しだけ温かくなっていた。


「……何だ——今の」


「感じたか」


 建御雷神(たけみかづち)が言った。鬼のような顔に——わずかな何かが浮かんでいた。感慨か。


「その剣には、大きな神の記憶が宿っている」


「大きな神」


「嵐の神だ。——かつて地上で八つ首の蛇を斬った者の。その蛇の尾から出てきたのが、その剣だ」


 嵐の神。地上で戦った者。八つ首の蛇。


「……その神は——今は」


「根の堅洲国(ねのかたすくに)にいる。もう力はない。——しかし剣には力が残っている」


 力。


 剣を見た。光っていない。暗いまま。黙っている。


 力が残っていると言われたが——見えなかった。感じられなかった。さっきの嵐の映像だけが頭に残っている。


 抜いてみた。


 鞘から引いた。刃が出た。——変わった剣だった。刃の表面に雲のような模様が浮かんでいる。鍛えた鉄の文様ではない。最初から刃の中に雲が閉じ込められているような、不思議な紋様。しかし——光ってはいない。雲模様があるだけの、沈黙した剣。


 力を込めた。光れ、と念じた。雲が動くか、と見つめた。


 ——出ない。


 何も出ない。普通の剣だった。握って振れば斬れるだろう。しかし——それだけだ。「天の力」が宿っているとは思えなかった。


「……光が出ない」


「出ないだろうな。——お前にはまだ早い」


 建御雷神(たけみかづち)があっさり言った。


「早い?」


「その剣は、地に根を張った者にしか応えない」


「地に根を張る——何だそれは」


「降りれば分かる」


「…………」


 また「分かる」だ。見れば分かる。降りれば分かる。誰も教えてくれない。


「教えてください。地に根を張るとは何ですか」


 建御雷神(たけみかづち)が——俺を見た。鬼のような顔の奥の小さな目が。


「俺は地上に降りたことがある」


「知っています。——地上の国を受け取りに行ったと」


「受け取りに行った。——渡した男がいた」


「大国主(おおくにぬし)」


「あの男は——地に根を張っていた。俺がどれだけ力を見せても、天沼矛(あめのぬぼこ)で国を壊しても——根が残っていた。目に見える世界を渡しても、目に見えない世界を渡さなかった」


「…………」


「根を張るとは何か。——俺にも完全には分からない。しかしあの男を見て思ったのは、お前が地上を覗いている間は分からない、ということだ」


「……覗くだけでは分からない」


「ああ。——降りなければ」


 鏡と玉を受け取った。鏡は懐に。玉は首に。剣は腰に。


 三つを身につけると——体が重くなった。わずかに。高天原(たかまがはら)で「重い」と感じたのは初めてだった。


「ニニギ」


 アマテラスが——俺の前に立った。近かった。光が眩しかった。


「これは武器ではない。——しかし守るためならば、使いなさい」


「守る。——何を」


「それも、自分で見つけなさい」


「…………」


「最後に一つ」


「はい」


「降りる道は——塞がれている」


「塞がれている?」


「境界の神がいる。道を守っている。そこを越えなければ、地上には降りられない」


「越えられなかったら」


「戻ってきなさい。——しかし」


「しかし」


「お前は戻らないだろう。覗き続けていた者は——降りたら戻らない」


 分かっていた。言われなくても。


 覗いていたのは、降りたかったからだ。毎日覗いていたのは、いつか降りるためだった。それを自分で認めていなかっただけだ。


 宮殿の縁に戻った。下を見た。


 地上が見えた。山。川。森。海。色が濃い。重そうだ。暗そうだ。


 ——しかし。


 見ているだけでは、分からなかった。


 ずっと分からなかった。


 なら——降りる。


 剣が腰で揺れた。冷たかった。光らなかった。しかし——握ったとき、あの嵐の男の声が聞こえた。名前は分からない。何を叫んでいたかも分からない。


 分からないことが多すぎる。


 しかし——一つだけ分かることがある。


 見ているだけでは、永遠に分からない。

ご拝読いただきありがとうございました!

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