第二十八章 桜散る
花びらが——減っていた。
天降の後。日が経つごとに。コノハナの周りの花びらが——一枚ずつ、少なくなっていった。
十枚舞っていたのが八枚になり、五枚になり、三枚になった。
コノハナは笑っていた。
咳が増えた。立てなくなった。歩けなくなった。それでも——笑っていた。子供たちの前では。
長男が魚を持ってきた。浜で釣った魚。
「母上。これ食え。うまいぞ」
「ありがとう。——大きいですね」
「俺が釣った中で一番でかい」
次男が籠を編んできた。花を入れる籠。
「……母上に。花を入れてください」
「きれい。——上手ですね」
「…………」
末の子が——山から石を持ってきた。丸い石。
「おかあさん。これ、やまでひろった」
「まあ。——きれいな石ですね」
「つめたくて、きもちいいから。おかあさんのてが、あついから」
手が熱い。コノハナの手が——熱くなっていた。花の神の命が燃え尽きようとしている。産屋の火の残りが——体の中でまだ燃えている。
冷たい石を握らせた。末の子が拾ってきた石を。
「……ありがとう。——冷たい」
「いたくない?」
「痛くない。——気持ちいい」
末の子が笑った。コノハナも笑った。
ある夕方。
コノハナが言った。
「……あの木の下に——連れていってください」
「動けるのか」
「動けません。——だから連れていってください」
背負った。軽かった。初めて背負ったときより軽い。花びらの分だけ軽くなっている。
丘を登った。あの木の下に。
花は——まだ咲いていた。しかし少なかった。枝の花が減っていた。コノハナの命が減るのと同じ速さで。
木の根元に座らせた。コノハナが木に背を預けた。
夕焼けだった。赤い空。
「……ここで——目が合いましたね」
「ああ」
「あなたは——何も言えなかった」
「……ああ」
「今は——言えますか」
「言える」
「では——聞かせてください」
聞かせてください。
何を言えばいい。
好きだと言えばいいのか。ありがとうと言えばいいのか。行くなと言えばいいのか。
——全部違う。
全部正しいが——全部違う。好きだと言っても止められない。ありがとうと言っても足りない。行くなと言っても花は散る。
一つだけ。一番正確な一つだけ。
「——コノハナ」
「はい」
「ここにいてくれて——よかった」
「…………」
「地上に降りた。何も分からなかった。水が重くて。土が重くて。飯がうまくて。夕焼けが毎日違って。——全部、お前がいたから分かった」
「…………」
「花の名前を覚えた。山吹。椿。藤。梅。——全部お前が教えてくれた。花の名前で口説いていたのがばれていたのも——お前のおかげだ」
「……ばれてましたよ。最初から」
「知ってる」
「…………」
「根を張るとは何か——ずっと分からなかった。大国主に教わった。失うと分かっていても、ここにいると決めること」
「…………」
「お前が散ると——分かっている。分かっていて——ここにいる。それが根だと。あの男が教えてくれた」
「……足の裏の方が」
「ああ」
「……いい方ですね。——会ってみたかった」
「会えない。——目に見えない世界にいるから」
「そうですか。——でも、足の裏にいるなら。私が散った後も——あなたの足の裏にいてくれますね」
「…………ああ。いてくれる」
夕焼けが深くなっていた。赤から紫に変わっていく。
コノハナが——俺の手を取った。熱い手。産屋の火が残った手。
「ニニギさま。——最後に一つ」
「何だ」
「私——後悔してないですよ」
「…………」
「あなたが天から降りてきて。鼻の光の人に弾かれて。花の名前で口説いてきて。姉を断って。私を疑って。——全部」
「全部か」
「全部。——全部あって、今ここにいる。全部なかったら——ここにいない」
「…………」
「産屋の火も。——後悔してない。あの火の中で、三人が生まれた。あなたの子が。火の中で泣いた。生きていた。——あれを聞いたとき、私は——」
「…………」
「——咲いたと思いました。一番きれいに」
花びらが——舞った。
最後の花びらだった。
コノハナの周りに残っていた最後の三枚が——枝から離れた。風がなかった。しかし離れた。
一枚が俺の手に落ちた。
一枚が空に舞い上がった。高く。夕焼けの空に。
一枚がコノハナの頬に触れて——止まった。
「……きれいですね。——夕焼け」
「ああ」
「明日は——どんな色でしょう」
「分からない。——明日にならないと」
「そうですね。——分からないのが——」
——いいですね。
最後の一語が声にならなかった。口が動いた。音にならなかった。
しかし——聞こえた。
コノハナの目が——閉じた。
黒い目が。金色の点が。
頬の花びらが——離れなかった。頬に触れたまま。
手が——冷たくなっていった。熱かった手が。産屋の火が残った手が。
冷たくなった。
風が吹いた。
木の花が——全て散った。
枝に残っていた花が。一斉に。空に向かって。夕焼けの空に向かって。桃色の花びらが空を覆った。
散った。
花のように。
大山津見が言った通りに。——見事に。
丘の上に——花びらが降っていた。空から。
コノハナの体から花びらが溢れるように。最後の力が。花の神の最後の力が。散ることで——咲いている。散り方そのものが——花だった。
抱いていた。
冷たくなっていく体を。花びらが降る中で。夕焼けの中で。
泣かなかった。
——泣けなかった。
きれいすぎて。散り方がきれいすぎて。泣くのが失礼だと思った。
この人は——最後まで咲いていた。燃え尽きるまで。散るまで。散り方さえ花だった。
泣くのは——後でいい。
今は——見ていよう。
この花びらが全部地面に落ちるまで。




