第二十七章 大国主の声が届く
夜が来た。
天降の後。浜は静かだった。波が低く戻っていた。星が出ていた。
家族は丘の上にいた。コノハナと子供たちと侍女。戻れと言ったが——もう少しここにいると言った。浜で。一人で。
疲れていた。体の芯が空になっている。大地の力を剣に通した代償。力を使い切った後の空洞。
浜に座っていた。波の音だけが聞こえた。
足の裏を砂の下の岩盤につけていた。さっき剣を突き刺した岩。
——温かかった。
いつもの温かさだった。しかし——今夜は違った。温かさの中に——輪郭があった。形があった。
声になろうとしていた。
今までの温かさは——声になる前の振動だった。気配だった。断片だった。産屋の夜に一度だけ声として届いた。天降の直前に途切れた指示として届いた。
今——声が来ようとしていた。全部が。
目を閉じた。足の裏に意識を向けた。
——来た。
「——聞こえるか。」
声だった。
低い声。穏やかな声。遠い声。しかし——はっきりと聞こえた。足の裏からではなかった。体の中から。大地を通じて体に入った声が——頭の中で言葉になっていた。
「……聞こえる」
「やっと届いた。——長かった」
「…………」
「お前が天から降りたときから——声を送っていた。届かなかった。遠すぎた」
「足の裏が温かかった。——あれが、あんたの声だったのか」
「声にならない声だった。——通り道が狭かった。あの子供が広げてくれて、やっと届くようになった」
あの子供。ヒサメ。
「あんたは——誰だ」
「お前より先に——この地にいた者だ」
「大国主」
「…………」
「集落の老人に聞いた。道を作り、田を耕し、国を渡した神がいると。目に見えない世界に行った神がいると」
「……そうだ。——俺がその男だ」
「なぜ——俺に声を送っていた」
「お前が降りてきたからだ。——俺が作った大地の上に。俺が繋いだ道の上に。お前が立っていた」
「…………」
「俺は目に見えない世界にいる。しかし大地の下にいる。大地を踏む者の足の裏は——感じられる。お前が降りてきたとき、足の裏が軽かった。何も知らない足だった」
「……天の者だったから」
「ああ。——しかし歩いた。土を掘った。田を直した。木を起こした。子を抱いた。疑った。間違えた。信じ直した。剣を地に突き刺した。——足の裏が変わっていった。重くなっていった」
「…………」
「今日——お前の足の裏は、俺の足の裏と同じ重さになった」
「同じ——」
「地に根を張った者の重さだ」
——お前は、地に根を張った。
「根を張るとは何かと——ずっと聞かれていた。建御雷神にも。サルタビコにも。——答えを持っていなかった」
「…………」
「お前を見ていて——分かった。答えが」
「俺を見ていて——」
「根を張るとは——失うと分かっていても、ここにいると決めることだ」
失うと分かっていても。ここにいると決める。
「お前は——花が散ると知っている。妻が短命だと知っている。それでもここにいると決めた。剣を地に突き刺して、家族を守った。——それが根だ」
「…………」
「俺も——同じだった。国を壊されると分かっていても。渡さなければならないと分かっていても。——ここにいた。ここにいることしかできなかった。しかしそれが——根だった」
ここにいることが根。
失うと分かっていても。散ると分かっていても。壊されると分かっていても。
——それでもここにいる。
「……ありがとう」
「何がだ」
「声を——送り続けてくれたことが。届かなくても。届くかどうか分からなくても。——ずっと」
「…………」
「あんたも——ここにいたんだな。ずっと。足の裏の下に」
「……ああ。——ここにいた」
声が——遠くなった。
消えるのではなかった。遠くなった。戻っていく。大地の奥に。深い場所に。
「……もう聞こえなくなるのか」
「聞こえなくなる。——通り道が、そう長くは持たない。しかし」
「しかし」
「温かさは——残る。声は届かなくても。足の裏の温かさは——消えない」
「…………」
「天孫。——いや」
「ニニギだ」
「……ニニギ。——いい名前だ」
「あんたの名前は——聞いていいか」
「大国主。——大穴牟遅とも呼ばれていた。昔は」
「大穴牟遅。——どういう意味だ」
「大した意味はない。——荷物持ちの名前だ」
「荷物持ち」
「ああ。——荷物を持って歩いていた。それだけの男だ」
声が——消えた。
遠くなって、薄くなって、消えた。
足の裏は——温かかった。声は消えたが。温かさは残っていた。
浜に座っていた。波の音が聞こえた。星が出ていた。
荷物持ち。
大国主。この大地を作った神。道を繋ぎ、田を耕し、国を渡した神。——荷物持ちだったのか。
俺は天孫だ。天の血を引く者だ。三種の神器を持つ者だ。
あの男は——荷物持ちだった。
しかし足の裏の重さは——同じだと言った。
同じ重さ。天孫と荷物持ち。降りた者と、ここにいた者。
——同じだ。
根を張った者は——出自が関係ない。天でも地でも。ここにいると決めた者は——同じ重さになる。
立ち上がった。丘を見上げた。
コノハナが——丘の上から手を振っていた。子供たちが走り回っていた。
帰ろう。あの丘に。あの木の下に。
足の裏が温かかった。——ずっと温かかった。




