第二十六章 天降(あもり)
伊勢から戻って三日目の夜。
海が荒れた。
日向の海は穏やかだった。ずっと。五年間。波は低く、風は緩やかで、浜は静かだった。
——変わった。
波が高くなった。風が唸った。空が暗くなった。雲が渦を巻いた。
長男が浜から走って帰ってきた。
「父上——海がおかしい。波が——今まで見たことがない大きさだ」
「…………」
「それと——海の中に何かいる。光っている。金色に」
金色。
浜に出た。
見えた。海の沖に——光が並んでいた。金色の光。一つではない。幾つも。波の間に。
目だった。
金色の目が——海の底からこちらを見ていた。
ワニだ。
鰐鮫。海の底にいる者たち。アメノウズメの問いに答えなかった者たち。
サルタビコが沈んだ。境界の神がいなくなった。天と地の境界を守る者がいなくなったように——地と海の境界も、守る者がいない。
守る者がいない境界から——はみ出してくる。
波が——浜に叩きつけた。集落の端が浸った。水が道を走った。
子供が泣いた。老人が叫んだ。
「天から来た人——これは何だ——」
「海の底から——来ている。境界がなくなったから」
ワニの目が——近づいてきた。沖から浜に向かって。金色の目が水面下を滑ってくる。
大きい。
波の間に背中が見えた。鱗が見えた。巨大だった。サルタビコほどではないが——それが何体もいる。五体。十体。それ以上。
「コノハナ。子供たちを連れて丘に上がれ」
「はい」
コノハナが動いた。弱っている体で。三人の子供を連れて。侍女が支えた。
俺は——浜に残った。
草薙剣を抜いた。
雲模様が——動いていた。嵐の前のように。渦を巻いている。速い。今までで一番速い。
波が来た。大波。浜を覆う波。集落に向かって。
——斬った。
波を。剣で。横に。
斬れた。
波が左右に割れた。集落の手前で。金色の光が刃に走って、水を裂いた。
しかし次の波が来た。もっと大きい。
ワニが跳ねた。水面から。巨大な顎が開いた。歯が並んでいた。
——避けた。横に。顎が浜に突き刺さった。砂が飛んだ。
もう一体。背後から。
振り返って——斬った。鱗に刃が当たった。弾かれた。硬い。剣が通らない。
三体目。横から。尾が来た。
吹き飛ばされた。浜を転がった。起き上がった。
——多い。
一体なら斬れる。二体なら避けられる。しかし——十体以上が同時に来る。一人では捌ききれない。
波がまた来た。集落に向かって。
斬った。割った。しかし次が来る。次の次が来る。
足が沈んだ。砂が崩れた。踏ん張れない。浜の砂では——土のように足を掴めない。
——根を張れない。
砂の上では。
ワニの顎が迫った。避けた。避けきれなかった。腕を掠めた。血が出た。
「父上!」
長男の声が丘から聞こえた。
「来るな!」
「でも——」
「来るな! お前たちは丘にいろ!」
守る。ここで。一人で。サルタビコがいない。アメノウズメがいない。誰もいない。俺一人で——この浜を守る。
——しかし守れていない。
ワニの数が多すぎる。波が止まらない。剣は光っているが——全力ではない。制御はできている。暴発はしない。しかし——足りない。
膝をついた。波を被った。冷たかった。海水が目に入った。
——足りない。
力が足りない。一人では。
足の裏が——
——熱くなった。
砂の下から。浜の砂の下にある岩盤から。大地の奥から。
声が——来た。
——剣を——地に——
断片ではなかった。声だった。しかし途切れていた。
——剣を地に突き刺せ。
地に。砂ではなく——地に。
見た。浜の端に。砂が途切れる場所。岩がむき出しになっている場所。大地が直接見えている場所。
走った。波の間を。ワニの顎を躱して。浜の端まで。岩場まで。
草薙剣を——岩に突き刺した。
あの日と同じだ。サルタビコの前で木を起こした日と。剣を地に突き刺して——大地と繋がった日と。
しかし今度は——
——全部繋がった。
足の裏の温かさが——爆発した。
温かさではなかった。力だった。大地の力が足の裏から体を駆け上がった。腰を通り、胸を通り、腕を通り、手を通り——剣に入った。
雲模様が——嵐になった。
渦ではなかった。嵐。本物の嵐。刃の中に閉じ込められていたスサノオの嵐が——解放された。
剣が——叫んだ。
金色の光ではなかった。くすんだ金色。枯れかけた金色。嵐の色。根の堅洲国で枯れた嵐の色が——地上の力を吸って、蘇った。
光が——剣から空に向かって伸びた。
天に向かって。地から天に。
天降。
天から降りた者が、地に根を張って、地から天に向かって振る剣。降りることの逆。しかし降りたからこそ振れる。根があるからこそ届く。
光が——空を裂いた。雲を裂いた。暗かった空が割れて——青空が見えた。
光が——海に落ちた。
嵐が海面を薙いだ。波が砕けた。ワニたちが——吹き飛んだ。海の底に。押し戻された。金色の目が——沈んでいった。深いところに。暗いところに。
波が——鎮まった。
風が——止まった。
海が——静かになった。
剣を——引き抜いた。岩から。
刃を見た。雲模様が——動いていた。嵐の後のように。ゆっくりと。鎮まりながら。
光っていた。まだ。くすんだ金色の光が——刃の表面に残っていた。
——光った。
初めて握ったとき光らなかった剣が。建御雷神に「早い」と言われた剣が。サルタビコに弾かれた剣が。暴発した剣が。木を起こした剣が。岩を受け止めた剣が。疑いで沈黙した剣が。
——光った。全力で。
足の裏が温かかった。大地と繋がっていた。根が——ある。この足の下に。
丘の上から——声が聞こえた。
「父上——」
長男の声だった。
「すげえ——」
末の子の声が聞こえた。
「おとうさん——かっこいい」
コノハナの声が聞こえた。
「……きれいでした」
また——きれいと言った。岩を受け止めたときと同じことを。
草薙剣を鞘に収めた。光が消えた。雲模様が鎮まった。
しかし——冷たくなかった。もう冷たくならない。最初に握ったときの冷たさは——もうない。
浜に立っていた。波が引いた浜に。海が静かになった浜に。
天から降りた。地を踏んだ。根を張った。
——剣が、応えた。




