第二十五章 伊勢の海
報せが来た。
集落の若者が走ってきた。息を切らして。
「天孫さま——伊勢から——」
「伊勢」
「鼻の光の方が——海で——」
走った。
草薙剣を掴んで走った。コノハナに「行ってくる」とだけ言って。コノハナは何も聞かなかった。俺の顔を見て分かったのだろう。
伊勢まで——走り通した。休まなかった。足の裏が大地を掴んで走った。昼も夜も。
海が見えた。
伊勢の海。広い浜。波が穏やかだった。穏やかすぎた。
浜に——人がいた。
アメノウズメが——座っていた。波打ち際に。
子供を抱えていた。
小さな子。二歳くらいか。赤い肌。サルタビコと同じ赤。そして——鼻が光っていた。微かに。蝋燭の炎ほどの光が——小さな鼻の先に。
「アメノウズメ」
「あ。——ニニギさま」
振り返った。笑っていた。——笑っていた。
「お久しぶりです」
「……サルタビコは」
「海です」
海を指差した。浜の先。波の向こう。
光が見えた。
海の底に——白い光が。鼻の光が。水面の下で——まだ光っていた。
「何があった」
「貝です」
「貝」
「比良夫貝。——大きな貝がいて。サルタビコさんが海で魚を獲っていたら、手を挟まれて。引き込まれて」
「……引き込まれた」
「沈みました」
沈んだ。
あのサルタビコが。息で天孫を吹き飛ばした男が。手のひらで剣を止めた男が。天と地の境界を一柱で守っていた男が。
——貝に。
「……貝に挟まれて沈んだのか。あの男が」
「ええ」
「……間抜けではないか」
「間抜けです」
アメノウズメが——笑った。笑いながら——目が赤かった。
「間抜けですよね。——あんなに大きくて、あんなに強くて。貝ですよ。貝に負けたんです」
「…………」
「私が来たときには——もう沈んでいました。手だけ見えていて。手を掴もうとして——届かなくて」
「…………」
「光だけ残りました。——鼻の光だけ。沈んでもまだ光ってる。消えないんです。消し方を知らないのかもしれない」
海の底で——鼻の光が揺れていた。波に合わせて。暗い海の底で白い点が揺れていた。
「……助けられないのか」
「潜りました。——でも深すぎて。息が続かなくて」
アメノウズメが子供を抱き直した。赤い肌の子供。小さな鼻が——微かに光っている。
「この子がいなかったら——もっと潜れたかもしれない。でもこの子を置いていけなかった」
「…………」
「サルタビコさんも——そう言うと思います。子供を置いて潜るなって。鼻が明るくなって怒ると思います」
怒る。照れると明るくなる鼻が。怒っても明るくなるのか。
「……その子は」
「サルタビコさんの子です。——伊勢で生まれました。地上を歩いている間に」
「…………」
「鼻が光るんですよ。——父親と同じで。小さいけど。かわいいでしょう」
かわいかった。赤い肌の小さな子供が。光る鼻で。父の沈んだ海を見ている。
アメノウズメが立ち上がった。子供を片腕に抱えて。
海に向かって歩いた。波打ち際に立った。
歌った。
——いや、歌ではなかった。呼びかけだった。
「天孫に仕える者は——集まりなさい」
声が海に飛んだ。アメノウズメの声は明るい。明るい声が——海面を走っていった。
魚が来た。
浅瀬の魚が。波の間から顔を出した。鯛。鰹。鰤。小さな魚。大きな魚。浅い海にいる魚たちが——浜辺に集まってきた。
「天孫に仕えますか」
鯛が口を開いた。閉じた。
「仕えます——と、言っていると思います。魚語は分かりませんが」
「…………」
鰹が跳ねた。鰤が尾を振った。鮎が群れで円を描いた。
「仕えるそうです。——浅い海の魚は」
アメノウズメが——海の奥を見た。
「深い方。——聞こえましたか」
沈黙。
浅瀬の魚が集まっているのに——海の奥から何も来ない。深い場所。暗い場所。
「ワニ。——聞こえましたか」
沈黙。
「綿津見さま。——聞こえましたか」
沈黙。海の底が——黙っていた。
波が来た。引いた。それだけだった。
「……答えない」
「答えませんね。——底の方は」
アメノウズメが振り返った。俺を見た。
「天孫を知らないんですよ。——会ったことがないから。サルタビコさんもそうでした。会うまでは通さなかった。会ってから——変わった」
「…………」
「海の底にも——会いに行く人がいるんでしょうね。いつか」
海の底に。会いに行く者が。
長男の顔が浮かんだ。海が好きで浜に出て釣りをしている。あの子がいつか——底まで行くのだろうか。
「……アメノウズメ。お前はどうする」
「ここにいます」
「伊勢に」
「ええ。——この海のそばに。鼻の光が見える場所に」
海の底で——光が揺れていた。サルタビコの鼻の光。沈んでもまだ。
「この子に——名前をつけます」
「何と」
「猿女」
「猿」
「サルタビコさんの猿です。——この子が大きくなったら、踊りを教えます。私の踊り。型のない踊り」
「……サルタビコの前で踊ったあの踊りか」
「ええ。——あのとき鼻が一番明るくなったんです。照れて。嬉しくて。だからこの子にも踊らせます。海の上で。あの光に向かって」
「…………」
「踊れば——海の底でも見えるでしょう。光ってるんだから。消えないんだから。——見えますよね」
見える。
見えるだろう。消えない光は——海の底からでも見える。
「……また目に何か入りましたか、とは聞かないでくださいね」
「聞かない」
「入ってないですから。——涙じゃないですから」
「……ああ」
「ただの潮風です。——伊勢は潮風が強いんです」
潮風が強い。確かに風が吹いていた。目に染みる風だった。俺の目にも。
子供が——海を見ていた。小さな手を海に向かって伸ばしていた。届かなかった。父の光に。
しかし——手を伸ばしていた。
帰った。日向に。
行きより遅かった。足が重かった。
コノハナが丘の上で待っていた。
「……おかえりなさい」
「……ただいま」
「サルタビコさんは——」
「沈んだ。——海に」
「…………」
「アメノウズメは——伊勢にいる。子供と一緒に」
「子供——」
「サルタビコの子だ。——鼻が光る」
コノハナが——笑った。小さく。
「光るんですね。——子供にも」
「ああ。——光る」
「残るものがあるんですね。——沈んでも」
「…………」
「花びらも——残りますか。私が散っても」
「散る話はするな」
「……すみません」
並んで座った。あの木の下に。夕焼けが来ていた。
足の裏が——温かかった。
サルタビコが沈んだ。鼻の光が残った。子供が残った。名前が残った。
コノハナが散ったら——何が残る。花びらが残る。子供が残る。
——俺が残る。
残る側は——重い。




