第二十四章 ヒサメ
ある夜。眠れなかった。
コノハナは眠っていた。子供たちも。静かな夜だった。
外に出た。丘に登った。あの木の下に。
星が出ていた。月はなかった。暗い夜。
——黒い炎が揺れていた。
木の根元に。小さな炎。蝋燭ほどの大きさ。しかし——黒い。暗闇の中で黒い炎は見えないはずだ。しかし見えた。暗闇より暗い黒が——揺れていた。
炎のそばに——子供が座っていた。
小さかった。五歳くらいか。末の子と同じくらい。
灰白色の肌。白でも灰色でもない色。目が——なかった。目があるべき場所に何もなかった。のっぺりとした肌。しかし——笑っていた。口元が。目がないのに、笑顔が分かった。
「——お久しぶりです。——いいえ。初めまして、ですね。ニニギさま」
声が高かった。子供の声。しかし——古かった。声の奥に長い時間が積もっていた。
「……お前は誰だ」
「ヒサメ、と言います」
「ヒサメ。——何者だ」
「何者でしょう。——それは、後でわかります」
「後でわかる? 今教えろ」
「教えられません。——後でわかります」
「…………」
苛立った。「後でわかります」と言って答えない。質問に質問で返すのではなく——答えを先延ばしにする。
「お前は——どこから来た」
「下から」
「下。——地の下か」
「ええ。——暗いところから」
「暗いところ。——幽冥か」
「…………」
ヒサメの笑顔が——変わらなかった。肯定も否定もしなかった。
「……足の裏が温かいことがある。大地の奥から何かが来ている。——お前がやっているのか」
「私ではありません。——私は通り道を広げているだけです」
「通り道」
「声が通る道です。——下にいる方の声が、あなたに届くように」
「下にいる方。——大国主か」
「…………」
また沈黙。この子供は——聞いたことに直接答えない。
「産屋の火の前に——声が聞こえた。『疑う者は根を張れない』と。あれは大国主の声だったのか」
「声が届いたなら——届いたのでしょう」
「質問に答えろ」
「答えています。——届いたなら届いた。それ以上のことは、私には分かりません」
「…………」
この子供と話していると——頭が痛くなる。全ての返答が霧の中を歩いているようだ。サルタビコの霧と似ている。しかしサルタビコは力で塞いでいた。この子供は——言葉で塞いでいる。
「……お前は何をしに来た」
「伝えに来ました」
「何を」
「あなたはまだ——知らないことがある」
「知らないことだらけだ。——地上に来てからずっと」
「ええ。——でも、もう少しで分かります」
「何が分かる」
「地に根を張るとは何か」
建御雷神が言った。サルタビコが言った。大国主の声が言った。——全員が「根を張れ」と言った。
「……俺は根を張っていないのか。ここで五年暮らした。田を耕した。子を育てた。——それでも足りないのか」
「足りています。——でも、まだ分かっていない」
「やっていることと分かることは違うのか」
「違います。——根を張ることはできる。でも根を張るとは何かを分かるのは、別のことです」
「…………」
「分かるのは——失ってからです」
失ってから。
「……何を失う」
「…………」
ヒサメの笑顔が——変わらなかった。答えなかった。
しかし——分かった。何を言おうとしているのか。
コノハナのことだ。
「……コノハナが——散るということか」
「…………」
「散った後に——分かるのか。根を張るとは何かが」
「後でわかります」
「その『後で』は——コノハナがいなくなった後か」
「…………」
ヒサメの笑顔が——初めて、わずかに動いた。笑顔の奥にあるものが。
「……ニニギさま。一つだけ」
「何だ」
「覚えておいてください。——今の時間を」
「今の時間」
「花が咲いている時間を。子供が笑っている時間を。隣に人がいる時間を。——覚えておけば、後で支えになります」
覚えておけ。今の時間を。
「……お前は——こういうことを、前にも誰かに言ったのか」
「…………」
「誰かに——同じ言葉を伝えたことがあるのか。覚えておけ、と」
ヒサメが——立ち上がった。黒い炎が揺れた。
「ありますよ。——一度だけ」
「誰に」
「……後でわかります」
「…………」
ヒサメが——薄くなった。暗闇に溶け始めた。
「また来ます。——もう少しだけ、通り道を広げなければ」
「通り道」
「声が届くように。——あなたに。もうすぐ届きます。全部」
消えた。黒い炎が消えた。暗闇に溶けた。
丘の上に一人残った。
星が出ていた。月はない。暗い夜。
足の裏が——温かかった。いつもの温かさ。しかし今夜は——少しだけ強かった。通り道が広がったから——なのか。
ヒサメ。あの子供は——何者だ。
分からない。「後でわかります」としか言わない。
しかし——一つだけ分かった。
あの子供は——俺を心配して来たのではない。俺の向こう側にいる誰かのために——通り道を作りに来ている。
俺の足の裏にいる誰かの声を——届けるために。




