第二十九章 根
花が散った後——木は残った。
枝だけの木。花がない。花びらが舞わない。——しかし根はあった。大地に深く張った根が。
季節が変わった。冬が来た。春が来た。
木に——花が咲いた。
コノハナがいなくても。花が。薄い桃色の花が。枝に。
少しだけ。前より少ない。しかし——咲いた。
コノハナが言った。風を止めたら次の花が咲かない、と。散ることを止めなかったから——次の花が咲いた。
正しかった。最後まで。
三人の子供が育った。
長男の火照は海幸彦と呼ばれて、毎日浜に出ていた。声が大きく、腕が太く、浜の漁師たちの頭になっていた。
次男の火須勢理は相変わらず静かに道具を作り、集落の暮らしを支えていた。
末の子の火遠理は山幸彦と呼ばれて、山で狩りをしていた。弓が得意だった。コノハナに似ていた。穏やかで、笑うと目が先に動く。
三人とも——花のように短い命を持っている。俺が石を退けたから。コノハナが火の中で散らしたから。
しかし——生きていた。元気に。うるさく。
それでいい。
ある日。丘に登った。あの木の下に。一人で。
座った。根元に。コノハナが座っていた場所に。
花びらが一枚——手のひらに落ちた。風が運んできた。枝から散ったのか。どこかから飛んできたのか。
懐からもう一枚出した。コノハナの最後の花びら。あの夕暮れに俺の手に落ちた一枚。二枚の花びらを並べた。
同じ色だった。新しい花びらも、コノハナの花びらも。
散っても——同じ花が咲く。同じ色で。根が同じだから。
「……お前が残したものは——咲いてるぞ」
独り言だった。誰に言っているのか。コノハナに。大地に。足の裏の下にいる誰かに。
足の裏が——温かかった。声は聞こえない。もう聞こえない。しかし温かさは——ある。ずっとある。
集落から声が聞こえた。長男が叫んでいた。何か怒っている。末の子が何かやらかしたらしい。次男が間に入っている。いつもの朝。
老人が畑に出ていた。あの老人。まだ生きていた。鍬を持って。
「天から来た人。——畑を手伝えんか。腰が痛くてな」
「行く」
立ち上がった。丘を降りた。
畑に行った。鍬を持った。土を掘った。硬い土。重い土。手に豆ができる土。
天孫が畑を耕している。高天原が見たら笑うだろう。
——笑えばいい。
ここにいる。この土の上に。この大地の上に。
降りてきたときは——何も分からなかった。水が重いことも知らなかった。飯がうまいことも知らなかった。夕焼けが毎日違うことも知らなかった。
今は——分かる。全部ではないが。少しずつ。土の硬さが。水の冷たさが。飯の温かさが。
分からないこともまだある。海の底のこと。子供たちのこれからのこと。コノハナが残した花びらがいつまで咲くのか。
分からないから——ここにいる。
ここにいて——見ている。見て、触って、掘って、食って、笑って。
それが——地に根を張るということだ。
夕方。畑を終えて丘に登った。あの木の下に。
花が咲いていた。少しだけ。来年はもう少し咲くだろう。
海を見た。遠くに光っていた。海の底に。白い光。
消えていなかった。サルタビコの鼻の光が。沈んでもまだ。
伊勢の方角から——風に乗って何か聞こえた。歌だった。子守唄。アメノウズメが子供に歌っている。サルタビコの子供に。鼻が微かに光る子供に。
聞こえた気がしただけかもしれない。伊勢は遠い。しかし——アメノウズメの声は明るいから。風に乗れば届く気がした。
足の裏が温かかった。
コノハナの花びらが懐にあった。サルタビコの光が海にあった。岩長比売の石が山にあった。大国主の温かさが足の裏にあった。アメノウズメの歌が風にあった。
散っても残る。沈んでも残る。
残るものがある限り——根は枯れない。
丘の上に風が吹いた。花びらが一枚舞った。
天から降りた。地を踏んだ。根を張った。
——ここにいる。
天孫降臨——完
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