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第二十一章 花びらが満ちた集落


 集落が——変わっていた。

 花びらが満ちていた。道に。屋根に。田の畦道に。井戸の縁に。薄い桃色の花びらが——集落の隅々まで舞っていた。

 コノハナが笑うと花が咲く。三人の子供が走り回ると花びらが追いかける。産屋の後——コノハナの花の力は戻っただけではなく、前より強くなっていた。火の中で咲いた花は——強い。

 産屋から五年が経っていた。

 三人の息子が育った。

 長男。火照命(ほでり)。一番最初に火の中で生まれた子。声が大きい。体が大きい。力が強い。——そして海が好きだった。

「父上! 今日は浜に行きたい!」

「昨日も行っただろう」

「昨日は東の浜だ。今日は西だ」

「…………同じ海だ。方角が違うだけで」

「違う! 東には鯛がいて西には鰤がいる!」

 釣りが好きだった。海の魚を追うのが好きだった。朝から浜に出て、夕方まで糸を垂らしている。事代主(ことしろぬし)か——と思ったが、その名前はニニギには意味がなかった。

 次男。火須勢理命(ほすせり)。真ん中の子。静かだった。あまり喋らない。しかし——手先が器用だった。木を削って道具を作る。籠を編む。黙々と。

「何を作っているんだ」

「……釣針」

「兄に頼まれたのか」

「……兄がうるさいから。作ってやれば静かになる」

 長男がうるさいから道具を作ってやる次男。優しいのか面倒くさがりなのか分からない。

 末の子。火遠理命(ほおり)。後に山幸彦と呼ばれる子。

 この子は——山を見ていた。

 五歳。まだ小さい。しかし集落の裏手から——大山津見(おおやまつみ)の山が見える場所に登って、ずっと見ている。

「何を見ているんだ」

「やま」

「山に何がいる」

「わかんない。——だからみてる」

 分からないから見ている。俺がかつて高天原(たかまがはら)から地上を覗いていたのと同じことを言った。この子は——俺に似ている。コノハナの穏やかさと、俺の「知りたい」を持っている。

「山に行きたいか」

「いきたい」

「まだ早い。——もう少し大きくなったら」

「いつ」

「……分からない」

「おとうさんも、わかんないんだ」

「ああ。——分からないことが多い。地上は」

 末の子が笑った。コノハナと同じ笑い方だった。目が先に動く。

 昼。

 畑を耕していた。老人の畑ではない。自分の畑。五年かけて作った。土を掘って、石を退けて、水路を引いて、種を蒔いて。

 手が変わっていた。

 天から降りたときは柔らかい手だった。今は——硬い。豆ができている。爪の間に泥が残っている。洗っても取れない。天孫の手に泥が染みついている。

 悪くなかった。

 草薙剣(くさなぎのつるぎ)は家の壁にかけてある。雲模様が穏やかに動いている。嵐ではない。そよ風。安定している。俺の心が安定しているから——剣も安定している。

 足の裏は——いつも温かかった。大地の奥からの温度。大国主(おおくにぬし)の温かさ。もう数えていない。ずっとある。歩くたびにある。

 夕方。

 丘に登った。あの木の下に。コノハナと並んで座った。子供たちが丘の下で走り回っている。長男が次男を追いかけている。末の子は座って海を見ている。

「……静かですね」

「長男が叫んでいるが」

「長男の声は風景です。——静かなのは、ここです」

 胸を指した。自分の。

「静かですか。——あなたも」

「ああ」

「…………よかった」

 コノハナが笑った。目と口で。花びらが舞った。

 ——幸福だった。

 五年前も幸福だった。しかしあのときは——幸福の中に不安があった。疑いがあった。今は——ない。不安がない。疑いがない。静かだ。

 コノハナが——咳をした。

 小さな咳。一度だけ。

「……風邪か」

「いいえ。——大丈夫です」

 花びらが——一瞬、止まった。

 コノハナの周りを舞っていた花びらが。咳をした瞬間に——一拍だけ止まって、すぐに戻った。

 気のせいか。

「……コノハナ」

「はい」

「体は——大丈夫か」

「大丈夫です。——心配しすぎです」

「心配しすぎるくらいがちょうどいい。——もう見落とさない」

 コノハナが俺を見た。黒い目。金色の点。五年経っても変わらない目。

「……見落とさないでください。——ここにいますから」

 ここにいる。

 ここにいると言った。信じる。疑わない。

 しかし——咳が気になった。花びらが止まったのが気になった。

 気のせいだと思った。

 夜。子供たちが眠った後。

 コノハナが縁側に座っていた。月を見ていた。

「眠らないのか」

「少し——涼んでいます」

 隣に座った。月が白かった。

「ニニギさま」

「何だ」

「子供たちは——元気に育っていますね」

「ああ。元気すぎるくらいだ。長男が」

「火照(ほでり)は——あなたに似ています」

「俺にか。——お前に似ていると思っていたが」

「いいえ。真っすぐで、考える前に動いて、声が大きい。——あなたです」

「……そこまで声は大きくない」

「サルタビコさんに向かって叫んでいたと——アメノウズメさんから聞きましたよ」

「…………」

「火遠理(ほおり)は——私に似ていますね」

「ああ。山を見ている」

「私も——ここに来る前は、山の中から外を見ていました。見えない場所を見たかった。あの子も——同じかもしれません」

「…………」

「あの子は——いつか山の奥に行くかもしれませんね」

「……まだ五歳だ」

「五歳でも、見ているものは分かります。——あなたも分かるでしょう。見ているだけでは満足できない目を」

 分かった。あの目は俺の目だった。高天原(たかまがはら)から地上を覗いていた目。降りたくて降りた目。

「行かせるのか。——山の奥に。いつか」

「行きたいと言ったら——止められますか」

「……止められない。たぶん」

「でしょうね」

 コノハナが笑った。月の光で——顔が白く見えた。いつもの白さか。月の光のせいか。

 ——少し、痩せた気がした。

 五年前より。産屋の前より。頬の肉が減っている。手が細くなっている。

 気のせいだと思いたかった。

 コノハナが——また咳をした。小さく。一度だけ。

 花びらが——止まった。今度は一拍ではなかった。二拍。止まって——戻った。

「……本当に大丈夫か」

「大丈夫です」

「…………」

「大丈夫です。——今は」

 ——今は。

 「今は」と言った。「大丈夫です」ではなく「今は大丈夫です」と。

 「今は」の先に——何がある。

 聞けなかった。

 聞くのが怖かった。二度と疑わないと決めた。信じると決めた。コノハナが「大丈夫です」と言うなら大丈夫だ。

 ——しかし。

 「今は」が——頭に残った。


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