第十八章 産屋に火を放つ
目が覚めた。
隣にコノハナがいなかった。
手を伸ばした。布団が冷たかった。しばらく前にいなくなっている。
起き上がった。家の中を見た。暗かった。夜明け前。
枕元に——花びらが一枚あった。
薄い桃色の花びら。何日も見ていなかった花びら。散らなくなっていた花びらが——一枚だけ、枕元に置いてあった。
置いてあった。落ちたのではない。置いた。コノハナが。
——書き置きだ。
外に出た。裸足で。草薙剣を掴んで。
暗かった。星が残っていた。東の空がわずかに白い。
走った。丘に。あの木の方に。
丘を越えた。反対側に——
——建物があった。
昨日まではなかった。丘の裏側の草原に。小さな建物。木で組まれている。壁がある。屋根がある。
しかし——入口がなかった。
扉がない。窓がない。隙間がない。完全に塞がれた箱。中が見えない。
産屋だった。
子を産むための小屋。しかし——入口のない産屋。出られない産屋。入れない産屋。
「コノハナ!」
叫んだ。壁に手をついた。
「中にいるのか!」
「…………」
「コノハナ!」
「——います」
声がした。壁の向こうから。静かだった。
「何をしている——なぜ入口がない——出ろ!」
「出ません」
「…………」
「ニニギさま。——聞いてください」
「出ろ。話は出てからだ」
「出てからでは遅いのです。——聞いてください」
声が——落ち着いていた。覚悟がある声だった。結婚を決めたときの声に似ていた。しかしもっと——深かった。
「あなたは——信じられなかった。一夜で宿った子が、自分の子だと」
「…………」
「口にはしなかった。でも——分かっていました。最初の朝から。あなたの目が変わったのが」
「コノハナ——俺は——」
「言わなくていいです。——言わなかったことは分かっています。嘘をつきたくなかったから。それは——あなたの誠実です」
「…………」
「でも——誠実な疑いでも、疑いは疑いです。私の花が枯れました。あなたの剣が暴れました。このままでは——二人とも壊れる」
壁に額をつけた。冷たかった。木の壁。薄い。しかし——破れなかった。
「だから——証明します」
「証明」
「この子があなたの子であることを。天孫の子であることを。——誰にも疑えない方法で」
「岩長比売が言っていた——代償が重いと——」
「姉が——来たのですか」
「来た。——証明をさせるなと言っていた。やめろ。出ろ」
「姉は——優しい方です。でも——もう決めました」
声が変わった。静けさの中に——熱があった。
「この産屋に——火をつけます」
「——何だと」
「火をつけます。——天孫の子であれば、天の火に焼かれない。焼かれずに生まれたなら——誰にも疑えない。あなたにも」
「火を——お前は何を言っている。中にいるんだぞ。お前が。子が。火をつけたら——」
「天孫の子ならば——燃えません」
「天孫の子でなかったら——」
「天孫の子です。——あなたの子です。だから燃えない」
「コノハナ——」
「信じてくださいと——一度だけ言いました。信じてもらえなかった。だから——もう言葉では言いません。火で証明します」
壁を叩いた。拳で。
「やめろ! 出ろ! 信じる——信じるから——」
「今さら言っても——嘘になります。あなたは嘘がつけない人です。今の『信じる』は——本当の『信じる』ではない。怖いから言っているだけです」
「…………」
「本当に信じるなら——見ていてください。火の中を。燃えない子を。そうすれば——疑いが消える。言葉ではなく——目で見て、消える」
壁の向こうで——音がした。
火打ち石の音。
「やめろ!」
壁を殴った。剣を抜いた。斬ろうとした。壁を。入口を作ろうと。
——斬れなかった。
草薙剣が動かなかった。刃が壁に当たって——止まった。木の壁を斬れない。刃が通らない。
コノハナの力だった。花の神の力で——この産屋は守られている。外から壊せない。中にいる者の意志で建てられた産屋。中にいる者の意志でしか開かない。
「コノハナ!!」
——燃えた。
壁の隙間から——光が漏れた。橙色。炎の色。
熱が来た。壁が熱くなった。手が離れた。熱すぎて触れなくなった。
後ろに下がった。産屋が——燃えていた。全体が。木の壁が。屋根が。炎に包まれていた。
中にコノハナがいる。
子供と一緒に。
「コノハナ——」
声が出なかった。叫ぼうとして——声が枯れた。
炎が——高く上がった。丘の裏側が明るくなった。夜明け前の暗闇が——炎に照らされて昼のようになった。
集落から人が走ってきた。老人が。侍女が。
「何が——何が起きた——」
「コノハナが——中に——」
「なんじゃと——」
老人が産屋に近づこうとした。熱で退いた。近づけない。
草薙剣を握った。もう一度。斬れ。斬って入口を作れ。コノハナを出せ。
——動かなかった。
剣が。俺の手の中で。雲模様が止まっている。光がない。力がない。
——なぜだ。
なぜ応えない。守りたい。コノハナを守りたい。出したい。火から。
——お前が入れたのだ。
声が——聞こえた。
足の裏からではなかった。頭の中に。直接。
——お前の疑いが、あの女を火に入れた。
大国主の声だった。
断片ではなかった。初めて——意味のある言葉として届いた。
——疑う者は根を張れない。根を張れない者の剣は——守れない。
「…………」
——お前が信じていれば、あの女は火に入らなかった。
膝をついた。
炎の前に。産屋の前に。燃え盛る木の壁の前に。
草薙剣が手の中にあった。動かない。光らない。応えない。
俺の疑いが——コノハナを火に入れた。
岩長比売が言った。「証明をさせないでください」と。信じてくれれば使わなくて済むと。
信じなかった。信じられなかった。だからコノハナは——自分の体を燃やして証明しようとしている。
——俺のせいだ。
炎が燃えていた。
丘の裏側で。夜明け前の暗闇の中で。
俺は——何もできなかった。




