第十七章 疑う者は根を張れない
草薙剣が——震えていた。
壁にかけてあるだけなのに。触っていないのに。鞘の中で——刃が鳴っていた。
夜中に目が覚めた。音がしていた。金属が擦れる音。細い、高い音。
鞘から抜いた。
雲模様が——荒れていた。
動いていた。しかし岩を受け止めたときのような穏やかな動きではなかった。渦を巻いている。速い。乱れている。雲の中に——金色の光が走っていた。稲妻のように。不規則に。
暴発の前兆だった。
あの夜——サルタビコの前で暴発したときと同じ兆候。力が溢れようとしている。しかし方向がない。制御がない。出口を探して刃の中を暴れている。
「——鎮まれ」
念じた。握った。
鎮まらなかった。
手が痺れた。刃から力が逆流してきた。腕が震えた。握っていられなくなった。手を離した。剣が床に落ちた。
落ちた衝撃で——光が漏れた。一筋。金色の光が床を走って——壁に当たった。壁に焦げ跡ができた。
コノハナが目を覚ました。
「……何の音ですか」
「何でもない。——寝ていろ」
「壁が——焦げて」
「何でもない」
嘘だった。何でもなくなかった。剣が暴れている。俺に。持ち主に。
サルタビコの言葉。「守ると決めた者に応える。振り回す者には暴れる」。
暴れている。——俺が振り回しているからだ。心が。疑いが。
剣を鞘に戻した。壁にかけた。手が震えていた。
コノハナが——俺を見ていた。暗い部屋の中で。黒い目が。
何かを言おうとしていた。口が動きかけた。——止まった。閉じた。
何も言わずに横になった。背中を向けて。
背中が小さかった。出会った頃より——小さく見えた。花びらのない背中が。
朝。外に出た。
畑に行こうとした。しかし足が動かなかった。畑の方角ではなく——山の方角を見ていた。大山津見の山を。
足の裏が——何かを感じた。
温かさではなかった。冷たさでもなかった。
——声だった。
声が——来た。
足の裏を通じて。大地の奥から。今まで温かさだったもの。気配だったもの。それが——初めて声の形になった。
——うたが——ものは——
途切れた。聞き取れなかった。声ではなかった。声の欠片だった。水底から泡が上がってきて、水面に出る前に割れたような。意味になる前に消えた。
しかし——一つだけ聞こえた。
——うたがう——
疑う。
疑う——何だ。その先が聞こえなかった。
疑う者は——何だ。
分からなかった。声はもう来なかった。足の裏は冷たいままだった。
「……何を——言おうとしている」
独り言だった。大地に向かって。
答えはなかった。
昼。
丘に登った。一人で。コノハナは家にいた。誘わなかった。誘えなかった。
あの木の下に座った。花は咲いている。散らない。
——誰かが来た。
丘の下から。足音がした。重い足音。しかし大山津見ではなかった。もっと静かな重さ。
黒い衣が見えた。
岩長比売。
丘を登ってきた。黒い衣。黒い髪。灰色の目。風に髪が動かない。
——なぜここに。
「……岩長比売」
「…………」
「なぜ——ここにいる」
「花が散らなくなったから。」
花が散らなくなったから。それだけの理由で、山の屋敷から——ここまで降りてきたのか。
「私は石です。——花が散らないのは分かる。散るべきものが散らないとき——何かが止まっている」
「…………」
「何を止めているのですか。——天孫」
「……俺は何も」
「佐久夜の花を止めているのは——あなたです」
言い切られた。
「佐久夜の花は、佐久夜が止めているのではない。あなたが——佐久夜を見る目が変わったから。花は見る者の目に応える。疑う目で見られた花は——咲けない」
「…………」
「疑っているのですね。——あの子の子が、自分の子かどうか」
——なぜ分かる。
「顔に出ています。——石は長く待つ者です。人の顔を読むのは得意です。長く見ていれば分かる」
「…………」
「あなたに一つ——聞いてもいいですか」
「……聞け」
「あなたは——佐久夜を選んだ。私を退けて。花が欲しいと。石は要らないと」
「…………」
「花を選んだのに——花を疑うのですか」
——刺さった。
岩長比売の言葉は石だった。硬くて、冷たくて、正確に刺さった。
「選ぶことと信じることは——同じはずです。選んだなら信じる。信じないなら選ばなかった方がよかった」
「…………」
「私を選んでいれば——疑う必要はなかった。石は裏切らない。石は変わらない。永遠にそこにある。——しかしあなたは花を選んだ。花は変わる。散る。揺れる。その揺れを信じられないなら——」
「信じている」
「嘘です。」
「…………」
「信じている者の目ではない。——佐久夜はそれに気づいている。気づいているから花が止まった」
黙った。何も言い返せなかった。
岩長比売が——俺の正面に立った。灰色の目が俺を見下ろしていた。座っている俺を。
「天孫。——私は恨んでいない。選ばれなかったことを。しかし」
「…………」
「選んだ者を——傷つけるな。選ばなかった者が見ている前で」
選ばなかった者が見ている前で。
——岩長比売はコノハナの姉だ。妹が傷ついているのを見ている。自分を退けた男が、自分の代わりに選んだ妹を——今度は疑いで傷つけている。
「…………すまない」
「謝るな——と言ったはずです」
「…………」
「謝る相手が違います。——私にではなく。佐久夜に」
岩長比売が——背を向けた。
「一つだけ教えます」
「何だ」
「佐久夜は——方法を知っています」
「方法?」
「あなたに信じてもらうための方法を。——あの子は知っている。花の神だけが知っている証明の仕方を」
「証明——」
「しかしその方法は——」
岩長比売が止まった。初めて——声が揺れた。石の声が。
「——重い。代償が重い。だからあの子は使いたくない。あなたが信じてくれれば——使わなくて済む」
「…………」
「信じてください。——私からも言います。姉として。佐久夜を信じてください。あの子に——証明をさせないでください」
岩長比売の声が——震えていた。
石が震えていた。
この女は——妹のために来たのだ。自分を退けた男のところに。退けられた痛みを抱えたまま。妹が傷つくのを止めるために。
「……岩長比売」
「…………」
「お前は——格好いい女だ」
「…………」
「退けたことを——後悔はしない。しかしお前を見なかったことは——間違いだった」
岩長比売が——振り返らなかった。黒い衣の背中が見えた。動かなかった。
「……間違いだったと分かるなら——次は間違えないでください。佐久夜のことを」
丘を降りていった。黒い衣が。重い足取りで。しかし——来たときより少しだけ軽く見えた。
一人残された。
花の木の下に。散らない花の下に。
疑う者は——。
朝の声の欠片が頭に残っていた。
——疑う者は根を張れない。
繋がった。声の欠片が。意味が。大地の奥から届いた言葉が。
疑う者は根を張れない。根を張れない者に剣は応えない。剣が応えない者は——守れない。
守りたいのに——守れない。疑っているから。
堂々巡りだ。サルタビコの境界と同じだ。降りなければ根を張れない。根を張らなければ降りられない。
しかしあのときは——「頼む」と言って雲が動いた。
今度は——何と言えばいい。
コノハナに。
「信じている」と——言えばいいのか。
言えない。「はずだ」が消えていないのに「信じている」と言ったら——嘘になる。コノハナに嘘をつくくらいなら黙っている方がましだ。
——しかし黙っていたら花は散らないまま。
どうすればいい。
答えが出なかった。




