第十六章 花びらが来なくなった
翌朝。
コノハナが飯を炊いていた。昨日は寝ていたが——今日は起きていた。湯気の匂いがした。
「……体は大丈夫か」
「大丈夫です」
短かった。いつものコノハナは「大丈夫です」の後に何か続ける。「心配してくださるんですね」とか。「あなたこそ顔色が悪いですよ」とか。
今日は——「大丈夫です」で終わった。
飯を食った。向かい合って。握り飯。いつもと同じ味のはずだった。しかし——何かが違った。
何が違うのか。分からなかった。分からないまま食い終わった。
昼。畑に出た。老人の畑。コノハナは家に残った。体を休めると言った。
畑を耕しながら——気づいた。
花びらがない。
コノハナのそばには常に花びらが舞っていた。家の中にも。外にも。彼女が歩けば花びらが追い、笑えば花が咲き、座れば花びらが膝に積もった。
今朝——なかった。
一枚も。
家の中に花びらがなかった。コノハナの肩に花びらが乗っていなかった。風は吹いていたのに——花びらが来なかった。
気のせいか。
——気のせいではなかった。
夕方。丘に登った。あの木の下に。コノハナを誘った。
「……行きましょうか」
行った。並んで歩いた。しかし——間が空いていた。手一つ分だった距離が——三歩分になっていた。
コノハナが離れたのか。俺が離れたのか。分からなかった。
木の下に着いた。座った。
花が咲いていた。いつもと同じ薄い桃色の花。しかし——花びらが散らなかった。風が吹いているのに。枝が揺れているのに。花びらが落ちない。
コノハナのそばでは花びらが舞うはずだ。この木の下では特に。初めて目が合った日から——ずっと。
舞わない。
「……花びらが——」
「…………」
「散らないな」
「……ええ」
「なぜだ」
「…………分かりません」
嘘だった。
コノハナが嘘をついたのは初めてだった。「分かりません」は嘘だ。分かっている。分かっていて——言わない。
俺も聞けなかった。「俺を疑っているのか」とは聞けなかった。疑っているのは俺の方だからだ。
夕焼けを見た。並んで。三歩分の距離で。
きれいだった。昨日の夕焼けと色が違った。毎日違うはずだった。しかし——昨日と今日では違い方が違った。色ではなく、見ている俺が違った。
「……コノハナ」
「はい」
「昨日——言ってくれたことを、もう一度聞いていいか」
「何を」
「花の神だから——一夜で宿ると」
「…………」
「もう一度——聞かせてくれ」
コノハナが——俺を見た。
黒い目の中の金色の点が——揺れなかった。いつもは揺れる。笑うとき。怒るとき。俺を見るとき。金色が揺れる。
揺れなかった。
「……何度言えば——信じてくださるのですか」
「…………」
「一度言いました。——花の神だと。一夜で芽が出ると。あなたの子だと」
「……ああ」
「二度目が要るのですか」
「…………」
「三度目も? 四度目も?」
声が——震えていなかった。怒ってもいなかった。泣いてもいなかった。
——静かだった。
静かなのが一番怖かった。
「……信じてほしいと言いました。それは——お願いでした。お願いは一度しかしません」
「…………」
「信じるかどうかは——あなたが決めることです。私が何度言っても——あなたの中の問いは消えない。私の言葉では消せない」
正しかった。
コノハナの言葉は正しかった。何度聞いても——消えない。「はずだ」が消えない。コノハナがどれだけ説明しても。花の神だと言っても。俺の子だと言っても。
——俺の中にある問いは、俺にしか消せない。
「……すまない」
「謝らないでください」
「…………」
「岩長比売の姉にも——同じことを言いました。謝られると重くなると」
「…………」
「私にも——謝らないでください。疑っているなら疑っていると言ってください。その方が——まだ、楽です」
——言えなかった。
「疑っている」と。口にしたら——終わる気がした。言葉にしたら本当になる気がした。
黙った。コノハナも黙った。
夕焼けが沈んでいった。花びらは舞わなかった。
日が経った。
三日。五日。七日。
コノハナは家にいた。飯を炊いた。洗い物をした。普通に暮らしていた。
しかし——三歩の距離は縮まらなかった。
会話が減った。「おはよう」「おやすみ」「飯ができました」。必要な言葉だけになった。花の名前を教えてくれた声が。「分からないのがいいですね」と言った声が。——事務的になっていた。
花びらは——一枚も舞わなかった。
コノハナの周りだけではなく——丘の木からも散らなくなった。花は咲いている。しかし散らない。枝にしがみついているように。
集落の老人が言った。
「花が散らなくなった。——おかしいな。あの木はいつでも花びらを散らしていたのに」
「…………」
「天から来た人。——嫁さんと何かあったか」
「……何もない」
「何もない顔じゃないがな。——花は正直だ。持ち主の心が曇れば、花も曇る」
持ち主の心が曇れば。
曇っているのはコノハナの心か。——いや。
曇らせたのは俺だ。
分かっていた。分かっていて——疑いが消えない。
草薙剣を抜いた。夜。一人で。丘の上で。
雲模様は動かなかった。沈黙していた。大山津見の岩を受け止めたときに動いた雲が。コノハナを守ろうとしたときに光った剣が。
今は——何も応えない。
サルタビコの言葉が頭に浮かんだ。「守ると決めた者に応える。振り回す者には暴れる」。
守ると決めたはずだ。コノハナを。あの岩を受け止めたとき——決めたはずだ。
しかし今——守るべき相手を疑っている。守ると決めた者を疑う剣は——応えない。
足の裏は——冷たいままだった。
あの温かさが戻らなかった。大地の奥からの温度が。ずっとあったもの。橋の上から。地上に降りてから。コノハナに出会ってから。ずっとあった温かさが——消えていた。
何かが——離れていっている。




