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第十五章 結婚——しかし


 田を直した。手で。

 三日かかった。潰れた田の泥をかき出して、畦道を積み直して、水路を繋ぎ直した。老人が横で指示を出した。

「そこはもっと深く掘れ。——水が流れんだろう」

「深さはこのくらいでいいのか」

「もうちょい。——天から来た人は、土の触り方を知らんな」

「知らない。——教えてくれ」

「素直じゃな。——よし。こうだ」

 老人が鍬の使い方を教えてくれた。柄の持ち方。振り下ろす角度。土の硬さの見分け方。

 屋根も直した。穴が開いた家の屋根。藁を運んで、重ねて、縛って。高天原(たかまがはら)では何も作ったことがなかった。全てが最初からそこにあった。地上では——壊れるし、直すし、作る。

 七日目に全部直し終わった。

 老人が握り飯をくれた。

「よくやった。——天孫とは思えんほど、手が汚れとる」

「天孫でも泥はつく」

「そうだな。——泥がつく天孫は、信用できる」

 結婚した。

 地上の形式で。集落の者たちが立ち会った。老人が祝詞を唱えた。コノハナが白い衣を着ていた。花びらが集落中に舞った。コノハナが笑うと花が咲くのか、花が咲くからコノハナが笑うのか——分からなかったが、集落が花で埋まった。

 侍女は一人残った。残りは山に帰った。大山津見(おおやまつみ)からの祝いの言葉は——なかった。

 丘の下の小さな家に入った。老人が用意してくれた。二間しかないが十分だった。天の宮殿は広かったが中身がなかった。この家は狭いが——全部がある。

 夕方。コノハナと丘に登った。あの木の下に。並んで座った。結婚した日の夕焼けを見た。

「今日はいつもより赤いですね」

「ああ」

「……夫婦になりましたね」

「……ああ」

「……また『ああ』ですか」

「……ああ、以外に何を言えばいい」

 コノハナが笑った。目と口で。花びらが頬を過ぎた。

「何も言わなくていいです。——隣にいてくれれば」

 ——幸福だった。

 名前をつけても消えない幸福。丘の上で花びらが舞って、隣に人がいて、空が赤くて。

 夜が来た。

 初めての夜だった。侍女が離れの小屋に移った。家の中に——二人きり。

 あれほど二人きりになりたかったのに。侍女の壁を越えて、大山津見(おおやまつみ)の壁を越えて。ようやく二人きりになったのに——何を言えばいいか分からなかった。

 サルタビコに向かって剣を振れた男が。大山津見(おおやまつみ)に「娘をくれ」と言えた男が。

 暗い部屋で隣にいる妻に——声がかけられない。

「……ニニギさま」

「何だ」

「緊張していますか」

「していない」

「嘘ですね。——手が震えている」

「……震えてない」

「震えてます。——私も震えてます」

「…………」

「一緒に震えましょう」

 冗談なのか本気なのか分からなかった。しかし——笑ってしまった。コノハナも笑った。暗い部屋で、二人で笑った。

 笑ったら——震えが止まった。

 朝。

 目が覚めた。隣にコノハナがいた。眠っていた。

 ——匂いがしなかった。

 コノハナはいつも朝起きて飯を炊く。まだ一緒に暮らし始めて一日だが——結婚前にも朝の支度を手伝いに来てくれていた。匂いで分かる。今日はしていない。

 顔を見た。白い。いつも白いが——今日は別の白さだった。

「……コノハナ」

「…………」

「起きているか」

「……起きています」

「顔色が悪い」

「少し——気分が」

「具合が悪いのか」

「悪いのとは——違います」

 コノハナが——目を開けた。俺を見た。俺の手を取った。自分の腹に当てた。

「…………」

「ここに——います」

「…………いる?」

「赤ちゃんが」

 ——何だ。

「……赤ちゃん」

「はい」

「子供——か」

「はい。——あなたの子です」

 手の下にコノハナの腹があった。まだ膨らんではいない。しかし——温かかった。コノハナの体の温度とは別の温かさ。

「…………」

「嬉しく——ないですか」

「嬉しい。——嬉しいが」

「が?」

「……昨夜が——初めてだ。初めての夜の翌朝に——もう子が」

 コノハナの目が——わずかに曇った。

「……早い——ですか」

「早い。——早すぎないか。一夜で」

「…………」

「集落の者に聞いた。地上では子が生まれるまで長い月がかかると。種を蒔いてから稲が実るように——時間がいると。なら一夜では——」

「…………」

「おかしくないか」

 コノハナが俺の手を握った。強く。

「私は花の神です。花は——種が落ちて一晩で芽を出す。朝には咲く花もある。一夜で命が宿るのは——花の神にとっては、おかしなことではないのです」

「……しかし、集落の者は——」

「集落の者は——人間です。人間の時間と、花の神の時間は違います」

「…………」

「信じて——ください」

 信じてください。

 そう言われた。信じればいい。コノハナが言っている。花の神だから一夜で宿る。信じればいい。

 ——信じた。

 信じたはずだった。

 その日は一日、コノハナのそばにいた。水を汲んで、飯を炊いて、果物を取ってきて。コノハナは昼頃には起き上がれた。「大丈夫です」と笑った。

 ——しかし。

 夜。コノハナが眠った後。天井を見ていた。

 一夜。

 たった一夜だ。昨日の夜が初めてで、今朝にはもう子がいると言われた。

 花の神だから。一晩で芽が出る。朝には咲く。——コノハナはそう言った。

 しかし——喉の奥に何かが引っかかっている。

 結婚する前。あの丘の上で。コノハナの周りにはいつも人がいた。侍女。大山津見(おおやまつみ)。集落の者。俺が来る前から——地上にいた者たち。

 地上には——地上の神がいる。国つ神。大山津見(おおやまつみ)の屋敷にも、集落にも。コノハナのそばにも。俺が来るずっと前から。

 ——何を考えている。

 やめろ。コノハナを疑うな。あの目を疑うな。「信じてください」と言った目を。

 しかし——一度浮かんだ問いは消えなかった。

 本当に——俺の子か。

 浮かんだ瞬間に殴りたくなった。自分の頭を。こんなことを考える自分を。

 コノハナは何も悪くない。花の神だから一夜で宿る。それだけだ。それだけのはずだ。

 ——はずだ。

「はずだ」が消えない。「はずだ」は確信ではない。「そうだ」ではない。

 眠れなかった。

 コノハナが隣で静かに寝息を立てていた。花びらが窓の隙間から一枚入ってきて、コノハナの頬に触れた。

 きれいだった。

 きれいだったのに——見ていられなかった。

 外に出た。丘に登った。一人で。夜の丘。星が出ていた。

 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持ってきていた。無意識に。壁から外して、腰に帯びて、外に出ていた。

 抜いた。星明りの下で。雲模様を見た。

 動いていなかった。

 岩を受け止めたとき動いた雲が——今は動いていない。

 心が定まっていないからだ。疑っているからだ。

 ——疑うな。

 ——しかし。

 足の裏が——冷たかった。

 冷たかった。あの温かさが——消えていた。大地の奥からの温度が。ずっとあった温かさが——今夜はなかった。

 何かが——遠ざかっている。

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