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第十三章 花が欲しい——石は要らない


 三日、考えた。

 丘に行かなかった。コノハナに会わなかった。考えるために。一人で。

 花と石。コノハナと岩長比売(いわながひめ)。二人とも受け取れ。大山津見(おおやまつみ)の条件。

 花だけを見ていた俺に、石も見ろと言っている。

 岩長比売(いわながひめ)の顔を思い出した。灰色の目。黒い衣。岩から生えた木の下に立っていた姿。「石は置かれた場所にある。それだけです」と言った声。

 格好よかった。認める。あの女は強い。

 しかし——

 目を閉じると浮かぶのはコノハナだった。黒い目の中の金色の点。花びらが頬を過ぎる瞬間。「私の返事は『はい』です」と言った声。

 両方を同時に見ることができなかった。

 花を見ると石が消える。石を見ると花が消える。二つを同時に持つことが——できない。

 二人の妻を持つことは——天の決まりでは禁じられていない。地上の決まりも知らない。しかし問題はそこではなかった。

 コノハナのそばにいたい。花の話をして、飯を食って、夕焼けを見て。それだけでいい——と言った。あの言葉に嘘はなかった。

 「それだけでいい」の中に——岩長比売(いわながひめ)はいなかった。

 花のそばにいたい。石のそばにもいたい——とは思えなかった。

 三日目の夕方。山に登った。

 大山津見(おおやまつみ)の屋敷。奥の間。

 大山津見(おおやまつみ)が座っていた。

 その横に——岩長比売(いわながひめ)が座っていた。黒い衣。灰色の目。微動だにしない。

 コノハナはいなかった。

「答えを持ってきたか。」

「持ってきた」

「言え。」

「——コノハナだけをもらいたい」

 部屋が——静まった。

 大山津見(おおやまつみ)の目が動かなかった。穏やかなままだった。しかし——穏やかさの質が変わった。温かさがなくなった。

「理由を聞こう。」

「俺は——花を見て降りてきた。花のそばにいたいと思った。石は——見ていなかった」

「見ていなかった。——見ようとしなかったのか」

「…………」

「岩長比売(いわながひめ)は——目の前にいた。二度目の訪問で。お前の前に立って案内した。三度目の訪問で、俺の横に座っていた。見えていたはずだ」

「見えていた。——しかし、見ていなかった」

「……同じことだ。見えていて見ないのは——見えないより悪い」

 正しかった。大山津見(おおやまつみ)の言葉は正しかった。

 しかし——正しいからといって、気持ちは変わらない。コノハナのそばにいたい。岩長比売(いわながひめ)のそばに「も」いたい——とは、嘘でも言えなかった。

「嘘をつくよりはいいと思っている。——石をもらって、花だけを見ているよりは。石に嘘をつくよりは」

「…………」

 大山津見(おおやまつみ)が——黙った。長い沈黙だった。

 岩長比売(いわながひめ)が——動かなかった。灰色の目が俺を見ていた。怒りがあるかと思った。悲しみがあるかと思った。

 ——なかった。

 どちらもなかった。予想通りだ、という目だった。

「……分かっていました。」

 岩長比売(いわながひめ)が口を開いた。低い声。静かな声。

「あなたが——佐久夜(さくや)だけを選ぶことは」

「…………」

「花を見る者は石を見ない。——いつもそうです。昔から」

「……昔から?」

「父が私と佐久夜(さくや)を並べるたび——選ばれるのは佐久夜(さくや)でした。花は目を引く。石は目に入らない。——慣れています」

 慣れています。その一言が——重かった。慣れているということは、何度もあったということだ。選ばれなかったことが。

「……すまない」

「謝らないでください。——謝られる方が重い。選ばなかったことは仕方がない。謝られると、選ばなかったことが罪になる。罪にしないでください」

「…………」

「私は石です。罪を乗せられると——沈む。沈んだら浮かばない」

 岩長比売(いわながひめ)が——立ち上がった。

 大山津見(おおやまつみ)が手を伸ばしかけた。娘を。しかし——止めた。手を下ろした。

「天孫。——一つだけ」

「……何だ」

「あなたは——花を選んだ。石を退けた。それは——あなたの答えです。間違っているとは言わない」

「…………」

「しかし——覚えておいてください。花は散る。散ったとき——石がなければ、何も残りません」

「…………」

「私は——ここにいます。山に。父の屋敷に。あの岩の木の下に。永遠に」

 永遠に。

「永遠とは——待つことです。待つことしかできないのが永遠です。——私は待てる。石ですから」

 岩長比売(いわながひめ)が——部屋を出ていった。

 足音がなかった。黒い衣が暗闇に溶けていった。重い存在感だけが——部屋に残った。

 格好よかった。

 最後まで格好よかった。泣かなかった。怒らなかった。石のまま——立ち去った。

「……大山津見(おおやまつみ)」

「…………」

「コノハナだけを——」

「やる。」

 短かった。さっきまで理由を聞き、沈黙し、考えていた男が。一言だった。

「やる。——佐久夜(さくや)を。お前に。」

「…………」

「しかし——」

 大山津見(おおやまつみ)の声が——変わった。穏やかさが消えていた。山の底から来る声。地鳴りに似ていた。

「お前は——花を選んだ。花だけを。ならば花のように生きろ。花のように——散れ」

「…………」

「岩長比売(いわながひめ)を退けた。石を退けた。ならばお前の命は——石のようには続かない。花のように短い。お前も。お前の子も。その先の全ても。——花のように咲いて、花のように散る」

 呪い——ではなかった。

 宣告だった。

 選んだ結果の宣告。石を退けたから永遠を失った。花だけを選んだから花の命になった。

「それでも——佐久夜(さくや)をもらうのか」

「もらう」

「迷わないのか」

「迷わない。——短くても」

 大山津見(おおやまつみ)の目が——俺を見ていた。怒りがあった。しかし怒りの奥に——別のものがあった。

「……馬鹿な男だ。」

「ああ」

「馬鹿な男に——娘をやる。馬鹿同士だ。佐久夜(さくや)もお前を選んだのだから」

 立ち上がった。大山津見(おおやまつみ)が。

「連れていけ。——しかし傷つけたら、山ごと潰す」

 傷つけたら山ごと潰す。冗談ではなかった。この男は——山そのものだ。潰すと言ったら潰す。

 屋敷を出た。

 門の前に——コノハナが立っていた。

 待っていた。結果を。

「……どうでしたか」

「もらった。——お前だけを」

「お前だけ——」

「岩長比売(いわながひめ)は——断った」

 コノハナの目が——揺れた。嬉しさと、痛みが、同時に。

「……姉を——」

「断った。——嘘をつけなかった。お前だけを見ている。それしかできなかった」

「…………」

「コノハナ。——お前の父に言われた。花のように散れ、と。石を退けたから。俺の命は——花のように短くなると」

「…………」

「構わない。——お前のそばにいられるなら」

 コノハナが——泣いた。

 泣いた。花びらが舞った。涙が頬を伝った。花びらが涙に触れて——散った。

「……泣くな。——泣くことじゃない」

「泣きます。——嬉しくて。悲しくて。同時に。姉に申し訳なくて。あなたが短くなることが怖くて。でも——嬉しい」

 全部同時に。花びらのように。一枚ずつ違う感情が舞っている。

 手を伸ばした。コノハナの手を取った。

 ——温かかった。

 冷たくなかった。須勢理毘売(すせりびめ)は冷たい手をしていたと——

 ——何だ。今の。

 知らない名前が浮かんだ。須勢理毘売。誰だ。聞いたことがない。

 足の裏が——熱かった。温かさではなかった。熱。大地の奥から。強い。今までで一番強い。

 ——声が聞こえた。

 聞こえた——気がした。声ではなかった。声の欠片だった。音にならない音。意味にならない意味。

 ——を——え——

 消えた。

 手の中にコノハナの手があった。温かかった。花びらが二人の周りを舞っていた。

 足の裏の熱が——引いていった。

 何だったのか。分からない。知らない名前が浮かんで、声の欠片が聞こえて、消えた。

 ——後で考える。

 今は——この手が温かい。それだけでいい。

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