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第十二章 岩長比売(いわながひめ)


 山を登った。二度目。

 前回より速く登れた。足が土を覚えてきている。体が重さに慣れてきている。

 しかし心臓は前回より重かった。

 屋敷の門の前に立った。深く息を吸った。地上の重い空気が肺に入った。吐いた。

「——大山津見(おおやまつみ)。話がある」

 門が開いた。前回のように案内はなかった。門だけが開いて、奥が見えた。

 歩いた。一人で。

 奥の間に着いた。大山津見(おおやまつみ)が座っていた。前回と同じ場所に。山そのものが座っているような体。

「来たか。——用件は分かっている。」

「…………」

「佐久夜(さくや)のことだろう。」

「ああ。——お前の娘をくれ」

 言った。コノハナに教わった通りの言葉で。

 大山津見(おおやまつみ)が——俺を見ていた。穏やかな目。しかし穏やかさの奥に——重いものがある。

「……天孫。お前は佐久夜(さくや)を知って半月だ。」

「ああ」

「半月で——娘をくれと言うのか。」

「半月で分かることもある」

「何が分かった。」

「分からないことが分かった。——分かりたいから、そばにいたいと思った」

「…………」

 大山津見(おおやまつみ)の目が——細くなった。笑っているように見えた。しかし——笑っていなかった。考えていた。

「佐久夜(さくや)は何と言っている。」

「…………」

「言え。——聞いている。あの子が先に返事をしたことも」

 知っていた。コノハナが俺に「はい」と言ったことを。

「……はい、と言った」

「そうか。——あの子らしい。父より先に答えを出す」

 大山津見(おおやまつみ)が——立ち上がった。山が動くような音がした。床が軋んだ。

「いいだろう。——やる」

「…………」

「ただし——」

「ただし」

「二人ともやる。」

「…………二人?」

「俺の娘は二人いる。佐久夜(さくや)だけではない。——二人とも、お前にやる」

 二人。もう一人。あの——黒い衣の女。灰色の目の。前回の訪問で門を開けて、案内して、一言も名前を名乗らなかった女。

「……なぜ二人なんだ」

「来い。——見せる」

 大山津見(おおやまつみ)が歩き出した。屋敷の奥に。俺は後を追った。

 庭に出た。前回の庭とは違う庭。屋敷の裏手。

 木が一本立っていた。

 ——あの木ではなかった。コノハナがいるあの花の木とは全く違う木。

 岩だった。

 岩から木が生えていた。巨大な岩の割れ目から、幹がまっすぐに伸びていた。葉はない。花もない。枯れているのかと思った——しかし幹に触れると、硬くて、冷たくて、生きていた。石のように硬い木。

 その木の下に——あの女が立っていた。

 黒い衣。黒い髪。山の影のような存在感。

 灰色の目が——俺を見ていた。

「天孫。——俺の長女だ」

「長女」

「岩長比売(いわながひめ)。——石の神。永遠の命を司る者」

 岩長比売。名前を初めて聞いた。

 岩。長い。姫。石が永く続く。名前そのものが——永遠を意味していた。

「佐久夜(さくや)は花だ。——咲く花。美しい。しかし花は散る」

「…………」

「岩長比売(いわながひめ)は石だ。——永遠の石。美しくはない。しかし石は砕けない」

「…………」

「花だけでは——散る。石だけでは——冷たい。二つ揃って——永遠に咲く花になる。お前に二人ともやるのは、そういう意味だ」

 永遠に咲く花。花の美しさと石の永遠。二つを合わせて——天孫の命を永遠にする。

「岩長比売(いわながひめ)を娶れば——お前の命は尽きない。子も孫も永遠に続く。石のように。娶らなければ——花のように散る。美しいが、短い」

 岩長比売(いわながひめ)が——俺を見ていた。灰色の目で。何も言わなかった。表情がなかった。大山津見(おおやまつみ)の言葉を聞きながら——微動だにしなかった。

 この女は——今の話を知っていたのか。自分が「永遠」として差し出されることを。花に添える石として。

「……岩長比売(いわながひめ)」

 名前を呼んだ。初めて。

 灰色の目が——わずかに動いた。

「お前は——これでいいのか」

「…………」

「父がやると言っている。お前はそれでいいのか」

 岩長比売(いわながひめ)が——口を開いた。初めて。前回は案内の言葉しか発さなかった。今度は——自分の言葉を。

「私に——選ぶ権利があるとお思いですか。」

 低い声だった。静かだった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。

 事実だった。

「父が渡すと言えば——私は渡される。石ですから。石は——置かれた場所にある。それだけです」

「…………」

「あなたが受け取るなら——そこにいます。受け取らないなら——ここにいます。どちらでも——同じことです」

 どちらでも同じ。受け取られても受け取られなくても。石は置かれた場所にある。

 ——格好よかった。

 かわいそうではなかった。怒りも悲しみもなかった。ただ——岩のように立っていた。風が吹いても動かない。花びらが舞っても受け取らない。ここにいる。それだけ。

 しかし——格好よさの奥に、何かがあった。灰色の目の奥に。見えなかった。この女は——全部隠している。石の下に。

「……考えさせてくれ」

 大山津見(おおやまつみ)に言った。

「考える。——二人ともという条件を」

「考えてもいい。——しかし答えは変わらない。二人ともだ。佐久夜(さくや)だけはない」

「…………」

「天孫。——お前は佐久夜(さくや)を見て降りてきた。花を見て降りてきた。しかし花だけを見ている者は——花が散ったとき、何も残らない」

「……散る、とは」

「花は散る。——それが花だ。佐久夜(さくや)は花の神だ。花の神の宿命は——散ること」

「…………」

「岩長比売(いわながひめ)がそばにいれば——散っても、石が残る。石の上にまた花が咲く。永遠に。散と咲を繰り返す。——しかし石がなければ、散ったら終わりだ」

 散ったら終わり。

 何のことを言っているのか——半分しか分からなかった。花が散る。コノハナが散る。どういう意味だ。

 分からなかった。しかし——大山津見(おおやまつみ)の目が、初めて穏やかではなくなっていた。父の目だった。娘を送り出す父の。

「考えろ。——正しく答えろ」

 屋敷を出た。山を降りた。

 頭の中が重かった。体が重いのとは別の重さ。

 花と石。二人の娘。片方だけは許さない。二人とも受け取れ。

 コノハナを見ていた。花を。花だけを。石のことは——考えなかった。

 丘に着いた。あの木の下に。

 コノハナがいた。待っていた。

「……どうでしたか」

「二人とも渡すと言われた」

「…………」

「お前と——岩長比売(いわながひめ)と。二人とも」

 コノハナが——目を伏せた。知っていた顔だった。

「……知っていたのか」

「……はい。——父はそう言うと思っていました」

「なぜ言わなかった」

「……言えませんでした。——姉のことを」

 姉。岩長比売(いわながひめ)はコノハナの姉だった。

「姉は——私の前にここにいた。この木の下にも。この丘にも。——私が花を咲かせる前から」

「…………」

「姉は——花が咲かない。石だから。この丘にいても——何も咲かない。だから山に帰った。父の屋敷に。岩の木の下に」

「…………」

「私は——姉に申し訳ないと思っています。花が咲くだけで、人が来る。花が咲くだけで——目が向く。姉は——誰にも見てもらえなかった」

 コノハナの声が——震えていた。花の話をしているときには聞こえなかった振動。

「……コノハナ」

 初めて名前を呼んだ。二人きりで。

 コノハナが顔を上げた。

「お前が決めることじゃない。——姉のことは、俺と姉の間の話だ」

「…………」

「お前は『はい』と言った。それは変わらないんだろう」

「変わりません」

「なら——俺が考える。岩長比売(いわながひめ)のことは。お前は待っていてくれ」

「…………はい」

 花びらが舞っていた。夕焼けが来ていた。

 丘の上で——二つの顔が浮かんでいた。

 黒い目の中の金色の点。灰色の目の奥の、何も見えない暗さ。

 花と石。

 ——答えが出なかった。

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