第十一章 求婚
アメノウズメがいなくなって——困ったことが一つあった。
話し相手がいない。
コノハナに会えるのは昼の数刻だけだ。侍女がいる。大山津見がいる。二人きりにはなれない。それ以外の時間は——一人だ。
集落の老人が飯をくれる。握り飯。毎日食う。うまい。しかし食いながら喋る相手がいない。アメノウズメがいたときは「うまいですよね」と言ってくれた。今は一人で噛んでいる。
——うまい。
独り言が増えた。
丘に通い始めて——半月が経っていた。
毎日行った。あの木の下に。コノハナがいた。侍女がいた。大山津見は毎日は来なくなった。三日に一度くらい。「まだいるのか」と言われる。まだいる。
侍女は二人に減っていた。三人から二人に。一人は——コノハナが帰した。「花の話をするのに三人も要らない」と。
花の話。半月間ずっと花の話をしていた。
山吹。椿。藤。梅。桜。菫。撫子。芙蓉。
花の名前を覚えすぎた。天孫が花図鑑になりつつある。
しかし——花の話をしている間は、コノハナが笑う。黒い目が細くなる。目の中の金色の点が揺れる。そのために花の名前を百でも二百でも覚える気があった。
ある日——侍女が一人になった。
もう一人がどこに行ったのか分からない。コノハナが何か言ったのかもしれない。大山津見が許したのかもしれない。
残った一人も——木の下ではなく、丘の下で待っていた。
「……今日は——遠いな。侍女が」
「はい。——少し離れていてもらいました」
「なぜ」
「……花の話ではないことを、したかったから」
花の話ではないこと。
心臓が——重くなった。地上の重力とは違う重さ。胸の中だけが重い。
「……俺もだ」
「…………」
「花の話ではないことを——ずっと、言いたかった」
コノハナが——俺を見ていた。木の下に並んで座っている。膝が近い。手を伸ばせば届く距離。半月前は三人分の間があった。今は——手一つ分。
「……ニニギさま」
「何だ」
「天から——なぜ降りてきたのですか」
「見ていて分からなかったからだ。上から。地上が濃かった。色が。匂いが。何もかもが」
「……分かりましたか。降りてきて」
「分かったものもある。水が冷たいこと。土が重いこと。飯がうまいこと。夕焼けが毎日違うこと」
「…………」
「分からないものもある」
「何が——分からないのですか」
「……お前のことが——分からない」
コノハナが——息を止めた。一瞬。すぐに戻した。しかし——止まった。一瞬だけ。
「花の名前は覚えた。山吹。椿。藤。梅。桜。菫。撫子。芙蓉。——お前が教えてくれた全部」
「…………」
「しかしお前のことは分からない。なぜ笑うと目の中の金色が揺れるのか。なぜお前のそばで花びらが舞うのか。なぜお前が帰った後に丘が寂しくなるのか。——全部、分からない」
「…………」
「分からないから——ここに来ている。毎日。分かりたいから」
コノハナが——目を伏せた。睫毛が長かった。影が頬に落ちていた。
「……ニニギさま。それは——」
「分かっている。花の話ではない」
「……はい」
「俺は——お前のそばにいたい」
言った。
口から出た。考えて出した言葉ではなかった。サルタビコに「動いてから分かる」と言われた。動いた。口が動いた。言葉が出た。
「そばに——」
「毎日、花の話をして、飯を食って、夕焼けを見て。——それだけでいい。お前のそばにいたい」
コノハナが——顔を上げた。黒い目が俺を見ていた。潤んでいた。しかし泣いてはいなかった。
「……嬉しい」
「…………」
「嬉しいです。——ずっと、待っていました。花の話の向こうに、何かがあると思っていました」
「……待っていたのか」
「待っていました。——花の名前を八つも覚えてくださる方が、花の話だけで満足するはずがないと」
「……見抜かれていたのか」
「見抜くも何も——目が、言っていました。花を見ていないのに花の話をしている目を」
「…………」
見抜かれていた。半月間。花の名前を覚えるふりをして——コノハナを見ていたことを。全部。
「しかし——」
「しかし?」
「父に——聞いてからにしてください」
「…………」
「父の許しがなければ——私は、ここから出られません」
「出る。——出なくていい。俺がここに来る。毎日——」
「そういうことではないのです。——私の父は山の神です。山の全てを治めている。娘のことも——山の一部として治めている」
「娘は山の一部ではない」
「父にとっては——そうなのです」
コノハナの声が——静かだった。怒ってはいなかった。悲しんでもいなかった。ただ——事実を言っていた。
「……俺が言えばいいのか。大山津見に」
「はい。——正面から。お前の娘をくれ、と」
「くれ。——物みたいだな」
「そう言わなければ——父には通じません」
コノハナが——笑った。困ったような笑い。しかし——初めて見る笑い方だった。花の話をしているときの穏やかな笑いでも、目が合ったときの微笑みでもない。
覚悟を決めた笑い。
「……分かった。——言いに行く」
「…………」
「お前の父に。正面から」
「……ニニギさま」
「何だ」
「父は——怖い方です。サルタビコさまとは違う怖さです。力ではなく——古い神の重みがある。山の全てを背負った方です」
「分かっている。——会ったことがある」
「一度お会いになったのと、正面から向き合うのは——違います」
「……脅しているのか」
「心構えです」
コノハナが——立ち上がった。花びらが舞った。
「一つだけ——」
「何だ」
「私の返事は——『はい』です。父が何と言おうと。——私の返事だけは、先にお伝えしておきます」
「…………」
「父に聞いてから——と言いましたが。私の答えは決まっています」
コノハナが微笑んだ。目と口で。花びらが頬を過ぎた。
丘を降りていった。侍女と一緒に。
一人残された。
返事をもらった。「はい」を。父より先に。
——嬉しかった。
嬉しかったが——次にやるべきことは、山の神の前に座って「お前の娘をくれ」と言うことだ。あの大山津見の前に。山そのもののような男の前に。
サルタビコには剣を振った。大山津見には——言葉を振るしかない。
剣より重い。
足の裏が——温かかった。六度目。もう数えなくていいかもしれない。ずっとある。この温かさは。
草薙剣の雲模様が——微かに動いていた。嵐ではない。そよ風。
守るものが——見え始めている。まだ掴めていない。しかし——見えている。
花びらの形をしている。




