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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第一章 花街で始める二度目の人生

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第9話 花街では、娘が消える

 その先に。


 何かがある。


 恒一郎は、廊下の奥へ消えていく黒い糸を見つめた。


「追えるの?」


 朱莉が聞く。


「途中までは」


「途中まで?」


「先までは見えない。でも、どっちへ伸びてるかくらいなら分かる」


 朱莉が廊下を見る。


 もちろん、彼女には何も見えていない。


「行くつもり?」


「まだ」


「意外ね」


「お梅を置いていけないだろ」


 その時。


 廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。


「先生が来ました!」


 声とともに、年配の医者が部屋へ入ってくる。


 医者は余計なことは聞かず、お梅のそばへ膝をついた。


「急に倒れたの」


 朱莉が場所を空ける。


 医者はお梅の手首を取り、額へ触れた。


 目を開かせ。


 舌を見て。


 呼吸を確かめる。


「いつからだ」


「夕方から少し具合が悪かったみたいです」


 千代が答えた。


「吐いたか?」


「いえ」


「腹は?」


「痛いとは言ってませんでした」


 医者は黙って診察を続ける。


 恒一郎も横から見ていた。


 黒い糸は消えていない。


 医者が触れても。


 脈を診ても。


 何も変わらない。


「……先生」


 朱莉が不安そうに声をかける。


「前の子と同じ?」


 医者の手が止まった。


「似てる」


「やっぱり……」


 恒一郎が聞く。


「同じような娘を、他にも診てるのか?」


「ああ」


 医者はお梅へ視線を戻した。


「ここ一月で六人だ。どの娘も最初は急な熱と震え。息が苦しくなる。だが、胸を診ても腹を診ても、これといった病の形が見えん」


「薬は効いた?」


「一度は熱が引く娘もいる」


「一度は?」


「数日して、また倒れる」


 千代がお梅の手を強く握った。


「死んだ娘も?」


 恒一郎が聞く。


 医者が低く答える。


「一人な」


 部屋が静かになった。


 医者は薬包を取り出した。


「まずは熱を鎮める薬を飲ませる。今できるのはそれくらいだ」


「先生」


 朱莉が問う。


「病じゃない可能性は?」


 医者が眉を寄せる。


「呪いか、ってことか」


「ええ」


「分からん」


 否定はしなかった。


「病なら俺の仕事だ。だが、呪いなら祓い屋か神職の領分になる」


「見分けはつかない?」


「簡単につくなら苦労はせん」


 医者はため息をついた。


「病に見える呪いもあれば、呪いに見える病もある。下手に決めつければ、それだけ手当てが遅れる」


 恒一郎は黒い糸を見る。


「先生には、何か変なものは見えない?」


「変なもの?」


「例えば、黒い糸みたいな」


 医者が怪訝そうに恒一郎を見る。


「見えん」


「そうか」


 やはり。


 これは普通に見えるものではないらしい。


 医者は薬を千代へ渡した。


「少しずつ飲ませろ。今夜は目を離すな。息が急に弱くなったら、すぐ呼べ」


「はい」


 医者が立ち上がる。


 その時。


「もう一つ聞いていいか」


 恒一郎が言った。


「何だ」


「同じ症状の娘。その後は?」


 医者の表情が少し曇る。


「治った娘もいる」


「他は?」


「二人は、あとで診に行ったらいなくなっていた」


「いなくなった?」


「ああ。店を出たと聞いた」


「逃げたとか?」


「そこまでは知らん」


 医者は首を振った。


「俺が知ってるのは、診ていた娘が二人、途中から診られなくなったってことだけだ」


 朱莉が黙っていた。


 恒一郎がそちらを見る。


「朱莉?」


「……それだけじゃないわ」


 声が低い。


「何が?」


 朱莉は一瞬迷ったあと、口を開いた。


「最近、花街では娘が消えてるの」


 千代が顔を上げる。


 医者も何も言わなかった。


「消えるって?」


「店を出たきり戻らない子。朝になったら部屋からいなくなってた子。何人かいる」


「逃げた可能性は?」


「もちろんあるわ」


「全部が?」


 朱莉は答えなかった。


 その沈黙で十分だった。


「知ってたんだな」


「……ええ」


「どうして今まで言わなかった?」


 責めるつもりはなかった。


 ただ、確認しただけだった。


 朱莉は恒一郎から目を逸らさない。


「あなたに関係ないと思ったから」


「それはそうだな」


 恒一郎はあっさり頷いた。


 朱莉が少し戸惑う。


「怒らないの?」


「何で?」


「隠してたのに」


「今日会ったばかりの男に、花街の事情を全部話す必要ないだろ」


「……そうね」


「ただ」


 恒一郎はお梅を見る。


 黒い糸。


 身体の外へ続いている。


「今は、関係あるかもしれない」


 朱莉も、糸の見えない廊下へ視線を向けた。


「そう思う?」


「まだ分からない」


「またそれね」


「分からないものを分かったって言う方が危ないだろ」


「それはそうだけど」


 医者が鼻を鳴らした。


「妙な男だな、お前さん」


「よく言われる」


「余計なことはするなよ」


「善処する」


「それは、する奴の返事だ」


 医者はそう言い残し、部屋を出ていった。


 しばらく。


 誰も口を開かなかった。


 最初に沈黙を破ったのは千代だった。


「朱莉姐さん……」


「何?」


「お梅ちゃんも、いなくなったりしないですよね?」


 声が震えている。


 朱莉はすぐに千代のそばへ座った。


「させないわ」


「でも……」


「今夜はみんなで見てる。大丈夫」


 千代は唇を噛んで頷いた。


 恒一郎は、そのやり取りを見ていた。


「いなくなった娘について教えてくれ」


 朱莉が振り返る。


「今?」


「ああ」


「追うの?」


「話を聞くだけ」


「本当に?」


「今のところは」


 朱莉が疑わしそうに見る。


「その言い方、信用できない」


「俺だってまだ何が起きてるか分かってない」


「だったら」


「だから聞くんだよ」


 朱莉は少し考えた。


 やがて。


「分かった」


 立ち上がる。


「場所を変えましょう」


 千代へ向き直った。


「ここにいて。何かあったらすぐ呼んで」


「はい」


 恒一郎と朱莉は部屋を出た。


 廊下へ出ても、黒い糸は見えていた。


 お梅の胸元から細く伸び、床にも壁にも触れないまま、廊下の先へ続いている。


 恒一郎が歩く。


 糸を目で追う。


「……そっちなの?」


「ああ」


 朱莉が隣を歩く。


「どこまで?」


「分からない」


「外へ?」


「たぶん」


 階段へ向かう。


 だが。


 途中で黒い糸が薄くなった。


「……消えた」


「見えなくなった?」


「ああ」


 さっきまであったものが。


 階段の手前で、ふっと途切れている。


 恒一郎は目を凝らす。


 見えない。


「追えないのね」


「今はな」


 朱莉が少し安堵したような、残念そうな顔をする。


「何?」


「あなたなら、そのまま犯人のところまで歩いていくのかと思った」


「俺もそこまで便利なら助かるんだけどな」


「便利って……」


「でも」


 恒一郎は糸が消えた場所を見る。


「何も分からなかったわけじゃない」


「何が?」


「少なくとも、あれはお梅の身体だけで完結してない」


「外から来てるってこと?」


「そこまでは言えない」


 恒一郎は首を振った。


「まだ一人しか見てないからな」


 朱莉が足を止めた。


「……一人しか?」


「ああ」


 恒一郎は彼女を見る。


「同じ症状だった娘に会えるか?」


「今?」


「できれば」


「何をする気?」


「見るだけ」


 朱莉はしばらく恒一郎を見つめる。


「本当に?」


「本当に」


「触らない?」


「必要がなければ」


「変なこと言わない?」


「それは保証できない」


「そこは保証しなさい」


 少しだけ。


 朱莉の顔に笑みが戻った。


「一人、いるわ」


「この店?」


「違う。すぐ近く」


「今も同じ症状?」


「熱は下がってる。でも、寝込んでる」


「会える?」


「私から頼めば、たぶん」


 朱莉はそこで言葉を切った。


「ただし」


「何?」


「今夜は行かない」


「どうして?」


「もう夜も深いし、お梅を置いていけないでしょう?」


 恒一郎は数秒考えた。


「……それもそうだな」


「素直」


「筋が通ってるからな」


「またそれ」


 朱莉が笑う。


「明日の朝、連れていってあげる」


「助かる」


「その代わり」


「まだあるのか?」


「勝手に何でも背負い込まないこと」


 恒一郎が黙る。


「何、その顔」


「いや」


「図星?」


「少し」


 朱莉が呆れたように息を吐いた。


「あなた、もうやめたんじゃなかったの?」


「頼まれてもいないことまで背負うのはな」


「これは?」


 恒一郎はお梅のいる部屋を見る。


 少し考える。


「まだ、背負うって決めてない」


「そう」


「ただ」


 朱莉を見る。


「気にはなる」


「そうでしょうね」


 二人が部屋へ戻ろうとした、その時だった。


 廊下の奥から、慌ただしい声が上がった。


「朱莉姐さん!」


 女の一人が、別の女を肩で支えながらこちらへやってくる。


「この子も急に具合が悪くなって……!」


 支えられている女は二十歳前後だろう。


 顔色が悪い。


 額には汗が滲み、足元も覚束ない。


「ちょっと、気分が……」


「こっちへ」


 朱莉がすぐに反対側から身体を支えた。


 恒一郎も女を見る。


 その瞬間。


 視界の奥に。


 見覚えのあるものが浮かび上がった。


 胸元。


 黒い糸。


 細く。


 身体の奥へ絡みついている。


 恒一郎の表情が変わる。


「朱莉」


「何?」


「この人もだ」


 朱莉の顔が強張った。


「同じものが?」


「ああ」


 同じ症状。


 そして、同じ黒い糸。


 偶然とは考えにくい。


 恒一郎は、女の胸元に絡む黒い糸を見つめる。


 そして。


 ごく細いその先が。


 お梅のものとは違う方向へ伸びていることに気づいた。


「……同じものなのに、向きが違う」


「それって?」


「少なくとも、今見えてる範囲じゃ同じ方向じゃない」


 朱莉が息を呑む。


 恒一郎は、二人目の娘に絡む黒い糸を見つめた。


 その先には。


 まだ、自分には見えていない何かがある。

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