第8話 その病、ただの病じゃない
その夜。
恒一郎は、店の二階にある空き部屋を借りることになった。
「本当にいいのか?」
「行くところ、ないんでしょう?」
朱莉が当然のように言う。
「ない」
「お金も?」
「ない」
「知り合いも?」
「いない」
「よくそれで、あんなに堂々としてられるわね」
「どうにかなる気がしてるからな」
「その自信、どこから来るの?」
「今日一日で、だいぶ鍛えられた」
朱莉が呆れたように笑った。
「おかみさんにも話は通してあるわ。何日もとはいかないけど、今夜くらいなら構わないって」
「助かる」
「命の恩人だもの。それくらいはね」
「じゃあ遠慮なく」
「あら。そこは遠慮するところじゃない?」
「前は遠慮しすぎたからな」
「また、それ」
「気にするな」
朱莉は何か言いたそうにしたが、結局それ以上は聞かなかった。
「じゃあ私は仕事に戻るわ」
「頑張って」
「軽いわね」
「他に何て言えばいいんだ?」
「さあ?」
朱莉が笑う。
今度は、さっき蔵前屋の使いを相手にしていた時の笑みではなかった。
ほんの少しだけ。
恒一郎に見せる方の顔だった。
「おやすみ、恒一郎」
「ああ」
朱莉が襖を閉める。
一人になる。
恒一郎は布団の上に転がった。
「……濃い一日だったな」
目が覚めたら、知らない世界。
野盗。
朱莉。
妙な見え方。
言葉にしたことが、現実になる。
血まで止まった。
そして今は、花街の一室。
普通なら、頭が追いつかなくても不思議じゃない。
それでも。
不思議と気分は悪くなかった。
少なくとも、前の人生で残業していた夜よりはずっとましだ。
恒一郎は目を閉じた。
廊下の向こう。
三味線の音。
笑い声。
誰かが歩く音。
花街の夜は、まだ続いている。
やがて。
その音を聞きながら、恒一郎は眠りに落ちた。
◇
「――恒一郎さん!」
どれくらい眠っただろう。
襖を叩く音で目を覚ました。
「ん……?」
「恒一郎さん!」
千代の声。
ただ事ではない。
恒一郎は起き上がり、襖を開ける。
千代が立っていた。
顔が青い。
「どうした?」
「お梅ちゃんが……!」
「誰?」
「この店の子です!」
恒一郎はすぐに立ち上がった。
「案内して」
千代が駆け出す。
廊下を進み、階段を下りる。
店の奥。
女たちが休むらしい小さな部屋に、人が集まっていた。
「どいて」
千代が声を上げる。
人垣の向こう。
一人の少女が布団に横たわっていた。
年は十六、七くらいだろうか。
頬が赤い。
額には汗。
身体が細かく震えている。
「お梅!」
朱莉もいた。
仕事着のまま。
だが、さっきまでの艶やかな雰囲気は消えている。
「恒一郎」
朱莉が振り返った。
「急に倒れたの」
「医者は?」
「さっきの医者を呼びに走ってる。でも――」
朱莉が言葉を切る。
「少し前から、こういう子が増えてるの」
「こういう?」
恒一郎は少女を見る。
瞬間。
視界が変わった。
まただ。
ただ見ているだけなのに、身体の状態が妙にはっきり分かる。
熱。
脈。
呼吸。
身体のどこが弱っているか。
それだけじゃない。
何か。
黒い。
糸のようなもの。
少女の胸元から腹へ。
そして、もっと奥へ。
身体の中に絡みついている。
「……なんだ、これ」
「何か分かるの?」
朱莉がすぐに聞く。
「分からない」
「でも、何か見えてる」
「ああ」
恒一郎はお梅のそばに膝をつく。
ただの風邪や熱には見えない。
身体そのものより、別の何かに削られているようだった。
「いつから?」
「夕方くらいから、少し気分が悪いって」
千代が答える。
「その前は?」
「普通でした」
「食べたものは?」
「みんなと同じです」
「他にも同じ症状の子がいるって言ったな」
朱莉が頷く。
「ここ一月くらいで、何人か」
「全員、この店?」
「ううん。近くの店でも」
恒一郎の目が細くなる。
「死んだ人は?」
一瞬。
空気が止まった。
朱莉がゆっくり答える。
「……一人」
「いつ?」
「五日前」
「病名は?」
「医者には、熱がひどくなったんだろうって」
「他に変なところは?」
「変なところ?」
「倒れる前に、何か共通してたとか」
朱莉と千代が顔を見合わせる。
「分からない」
朱莉が言う。
「みんな急だったから」
お梅が苦しそうに息をする。
「……っ」
「お梅!」
千代がその手を握る。
恒一郎はもう一度見る。
黒い糸。
やはりある。
心臓でも。
肺でもない。
病気そのものとは違う何かが、身体の奥に絡みついている。
「朱莉」
「何?」
「これ、普通の病気じゃないかもしれない」
部屋の空気が変わった。
「どういう意味?」
「俺にもまだ分からない。ただ――」
恒一郎はお梅の胸元を見る。
「身体の中に、変なものがある」
「何が?」
「黒い……糸みたいな」
千代の顔色がさらに変わった。
「まさか……呪い?」
その反応に、今度は恒一郎が振り返る。
「呪いって、本当にあるのか?」
朱莉が怪訝そうに恒一郎を見る。
「あるわよ。妖怪だっているでしょう」
「俺はまだ見たことない」
「……本当にどこから来たの、あなた」
「それはまた今度」
「便利ね、それ」
「で、呪いならどうする?」
朱莉はお梅へ視線を戻した。
「熱が出れば、まず医者よ」
「まず?」
「ええ。それで治らなかったり、同じようなことが続いたり、妙な兆しがあれば祓い屋を呼ぶ」
「それでも駄目なら?」
「神社の神職に頼るわ」
「ちゃんと順番があるんだな」
「順番っていうほどのものでもないわよ。昔から、みんなそうしてるだけ」
恒一郎は少しだけ感心した。
呪いや妖怪がいる。
そして、この国の人間は、それを特別な話としてではなく、暮らしの一部として扱っているらしい。
「でもね」
朱莉が続ける。
「一番厄介なのは、病なのか呪いなのか分からない時よ」
「今みたいな?」
「そう」
朱莉の表情が曇る。
「医者に見せても治らない。祓い屋を呼んでも何も出ない。そうしてるうちに悪くなることだってある」
「なるほどな」
だからこそ。
目の前のお梅に絡みつく黒い糸が、不気味だった。
「少なくとも、普通じゃないものは見えてる」
朱莉が黙る。
恒一郎も黙った。
見えている。
だが。
それが何なのかまでは、分からない。
朱莉がお梅を見つめたまま、低く言った。
「……あの時みたいに、止めることはできないの?」
「分からない」
「血は止まったでしょう」
「あれは血だった。これは何なのかも分かってない」
朱莉は黙る。
恒一郎は黒い糸から目を離さなかった。
「だから、今は試さない」
「……そうね」
「前にお前が言っただろ。人の身体で、次々試すものじゃないって」
朱莉の目が少し柔らかくなる。
「覚えてたのね」
「正論だったからな」
千代は何も言わず、お梅の手を握りしめている。
「お梅ちゃん……」
恒一郎はその横顔を見てから、お梅へ視線を戻した。
「まずは医者を待とう」
黒い糸は。
さっきより少し濃くなっている気がした。
嫌な感じがする。
このまま放っておけば。
何かが進む。
そんな気がする。
その時。
恒一郎の目に。
もう一つ。
奇妙なものが見えた。
「……ん?」
黒い糸。
それが。
お梅の身体の中だけでは終わっていない。
胸元から。
一本。
細く。
見失いそうなほど細いまま。
身体の外へ伸びている。
部屋を出て。
廊下の先へ。
その先は。
恒一郎にも、まだ見えない。
「恒一郎?」
朱莉が声をかける。
恒一郎は答えず、糸の消えていく廊下の先を見つめた。
「これ……」
「何?」
「お梅の中だけで終わってない」
朱莉の顔が強張る。
「どういう意味?」
「分からない」
恒一郎は、細い黒い糸の先を見た。
「ただ――」
その先に。
何かがある。




