第7話 朱莉という女
「蔵前屋の使いだそうです!」
朱莉の笑みが。
消えた。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、もう元に戻っている。
さっきまで恒一郎に見せていた笑い方ではない。
花街の女としての、完璧な笑み。
「分かったわ。すぐ行く」
廊下の向こうから、「はい!」と返事が聞こえた。
朱莉は何事もなかったように襟元を整える。
「……行くのか?」
「仕事だもの」
「嫌そうだったけど」
朱莉の手が止まった。
「そんな顔してた?」
「一瞬だけ」
「本当に嫌な目をしてるわね、あなた」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてないわよ」
そう言って笑う。
だが、その笑顔もどこか薄い。
「蔵前屋本人じゃないんだろ?」
「ええ。使いよ」
「なら断ればいいんじゃないのか?」
「そう簡単でもないの」
朱莉は立ち上がった。
「少し待っていて」
「俺はここにいればいい?」
「できれば」
「できれば?」
朱莉は恒一郎を見た。
「余計なことをしないで、という意味」
「俺、そんなに信用ない?」
「今日会ったばかりの人を、どこまで信用しろっていうの?」
「もっともだ」
「素直ね」
「筋が通ってればな」
朱莉は一瞬だけ目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「そういうところは嫌いじゃないわ」
そう言い残し、部屋を出ていった。
襖が閉まる。
恒一郎は一人、膳の残りを眺めた。
「……さて」
待っていろと言われた。
なら、今は待つ。
頼まれてもいないことまで背負い込むのは、もうやめた。
ただ。
朱莉が蔵前屋を嫌っている。
それだけは、もう分かっていた。
しばらくすると、廊下を足音が近づいてきた。
「失礼します」
襖が開き、千代が顔を出した。
「お茶、お持ちしました」
「ありがとう」
千代が盆を置く。
そのまま帰るのかと思ったが、なぜか恒一郎の向かいにちょこんと座った。
「……何?」
「いえ」
「何か聞きたい顔してるけど」
「分かります?」
「かなり」
千代は少し迷ったあと、身を乗り出した。
「恒一郎さんって、朱莉姐さんとどういうご関係なんですか?」
「今日会った」
「えっ?」
「昼前くらい」
「ええっ!?」
声が大きい。
「そんなに驚くことか?」
「だって、姐さんが男の人を連れて帰ってきたから」
「それ、さっきのおかみさんも似たようなこと言ってたな」
「でしょう?」
「普段はないの?」
「ないです」
即答だった。
恒一郎は少し考える。
「客は別なんだよな?」
「もちろんです」
「じゃあ、朱莉はここで客の相手をしてるのか?」
千代は少し不思議そうに首を傾げた。
「本当に花街のこと、何も知らないんですね」
「ほとんどな」
「朱莉姐さんは、この店でも一番と言っていいくらいのお人なんです」
千代の声が、急に誇らしげになる。
「お酒のお席に出れば、お話も上手だし、三味線も歌も踊りも、何をやっても上手で。姐さん目当てで遠くから来るお客さんだっているんですよ」
「なるほどな」
町であれだけ声をかけられていた理由が、少し分かった。
「でも」
千代が声を落とす。
「姐さんは、誰でもいいって人じゃありません」
「客を選ぶってことか?」
「はい」
「金を払えば、何でも言うことを聞くわけじゃない」
「そうです」
千代は強く頷いた。
「お酒を飲んで、お話をして、芸を見せて。それから先のことだって、女の人とお客さん次第です。お金を持ってるからって、何でも好きにできるわけじゃありません」
「当たり前だろ」
恒一郎がそう言うと、千代が少し驚いた顔をした。
「……そう思います?」
「思うけど」
「そうですか」
なぜか嬉しそうだった。
「朱莉姐さんも、嫌な相手には嫌って言います」
「言いそうだ」
「だから、困る人もいるんです」
「金を払えば言うことを聞くと思ってる奴?」
千代が黙った。
それが答えだった。
「蔵前屋か」
「……はい」
「何を求めてる?」
「姐さんを、この店から出して自分のところへ来いって。何度も」
「朱莉は?」
「ずっと断ってます」
「何度言われても?」
「何度言われても」
恒一郎は湯呑みに口をつけた。
昼間、朱莉が言っていた。
金で買えないものはないと思っている男。
なるほど。
だいぶ輪郭が見えてきた。
「蔵前屋って、そんなに力があるのか?」
「怖い人です」
千代の声が小さくなる。
「お金をたくさん持ってて、お役人とも仲がいいって。商いをしてる人で、逆らえる人はあんまりいないって聞きました」
「金と役人か」
金や立場を盾にして、自分より弱い相手に無理を押しつける。
そういう人間なら、前の人生でも嫌というほど見てきた。
その時。
廊下の向こうから低い男の声が聞こえた。
「そこを何とか、もう一度お考えいただけませんか」
千代の顔が強張る。
「使いの人……」
声の方角は階下らしい。
「聞こえるな」
「ここ、声が響くんです」
恒一郎は立ち上がらなかった。
待っていろと言われている。
だから待つ。
「旦那様は、朱莉様を大層お気に召しております」
「何度言われても同じです」
朱莉の声。
冷たい。
「お気持ちはありがたく頂戴いたします。でも、お受けするつもりはありません」
「条件なら、いくらでも」
「条件の話ではないの」
「しかし――」
「嫌なものは嫌よ」
恒一郎は思わず笑った。
「本当に言うんだな」
「何がです?」
「いや」
千代が首を傾げる。
下では、男の声が少し強くなった。
「旦那様ほどのお方からお声を掛けていただける女は、そうおりますまい」
「そうでしょうね」
「ならば」
「だから何?」
朱莉の声は変わらない。
「私が喜ばなくちゃいけないの?」
沈黙。
「旦那様は、あなたのためを思って――」
「私のため?」
そこで。
ほんの少しだけ。
朱莉の声が低くなった。
「私が何を望んでいるかも聞かずに?」
恒一郎の目が細くなる。
その言葉が。
妙に胸に引っかかった。
私のため。
何度聞いたか分からない。
会社のため。
お前の成長のため。
みんな助かるから。
都合のいい言葉を並べて。
結局は、人の人生を勝手に使う。
「……似てるな」
恒一郎が呟く。
「何がです?」
「何でもない」
下で、人が立ち上がる気配がした。
「本日はこれで失礼いたします」
使いの男の声が、急に丁寧になる。
その代わり。
最後の一言だけが妙に冷たかった。
「ただ、旦那様もいつまでもお待ちにはなれないでしょう」
足音が遠ざかっていく。
千代が不安そうに恒一郎を見る。
「……大丈夫でしょうか」
「さあな」
「さあなって」
「俺はまだ、この町のことをほとんど知らない」
恒一郎は立ち上がった。
「だから勝手なことは言えない」
「でも」
「ただ」
襖を開く。
「本人が嫌だって言ってることだけは分かった」
階段を下りる。
朱莉は一階の座敷に一人で立っていた。
さっきまでの完璧な笑みは消えている。
恒一郎を見るなり、眉を上げた。
「待っていてって言ったでしょう?」
「待ってたよ」
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「終わったみたいだから」
「……聞いてた?」
「少し」
朱莉がため息をつく。
「盗み聞きは趣味が悪いわよ」
「聞こえたんだから仕方ない」
「言い訳になってない」
「それは悪かった」
素直に謝ると、朱莉が少し意外そうな顔をした。
「で?」
「何が?」
「何か言いたそうな顔してる」
「見れば分かる?」
「あなたほどじゃないけど」
恒一郎は笑った。
それから、朱莉を見る。
「一つだけ」
「何?」
「蔵前屋のところには行きたくないんだな?」
朱莉の顔から笑みが消える。
「……ええ」
「この店を出たいわけでもない?」
「それは」
一瞬。
朱莉が言葉に詰まる。
「今は、聞かなくていい」
「え?」
「俺が知りたいのは、お前がどうしたいかだけだ」
朱莉が恒一郎を見る。
じっと。
何かを探るように。
「普通はね」
やがて朱莉が口を開いた。
「こういう時、男は言うのよ」
「何て?」
「俺ならもっと大事にする、とか」
「へえ」
「俺のものになれ、とか」
「そうなんだ」
「……あなたは言わないのね」
「何で?」
朱莉が呆れたように笑った。
「本当に変な人」
「今日それ何回目?」
「数えてないわ」
「俺は、お前を買いに来たわけじゃないからな」
朱莉の表情が止まった。
ほんの一瞬。
いつもの余裕が消える。
「……そう」
それだけ答えて。
朱莉は視線を逸らした。
窓の外では、花街の灯りが夜の闇を鮮やかに染めている。
笑い声。
三味線。
男と女の声。
華やかな夜は、これから始まる。
花街の灯りは、どこまでも華やかだった。
その奥に。
朱莉を縛る、目には見えない何かがある。
――そんな気がした。




