第6話 夜の町には、美人が多すぎる
店の中へ入ると、外から見た以上に広かった。
正面には磨き上げられた板の間。
奥へ続く廊下。
二階へ上がる階段。
柱や欄間には細かな細工が施され、恒一郎には値段の見当もつかない調度品が、さも当然のように置かれている。
「……ずいぶん立派な店だな」
「そう?」
朱莉は何でもないことのように答えた。
「これが普通なら、俺の普通がおかしいらしい」
「それは前から分かってるでしょう?」
「否定できないのが悔しいな」
奥から女たちが次々と顔を出した。
「朱莉姐さん、おかえりなさい」
「ご無事でしたか?」
「そのお方は?」
若い女もいれば、朱莉と同じくらいの年頃の女もいる。
そして。
恒一郎は思わず黙った。
「……何?」
朱莉が横から覗き込んでくる。
「いや」
「何よ」
「美人、多いなと思って」
一瞬。
周囲が静かになった。
しまった。
また口に出した。
だが次の瞬間、女たちから笑い声が上がった。
「あらまあ」
「朱莉姐さん、ずいぶん正直な方を連れて帰ってきましたねえ」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
「でも、美人だとは思ったんでしょう?」
「それは否定しない」
また笑い声が上がる。
朱莉だけが半ば呆れた顔をしていた。
「あなた、本当に思ったことをすぐ口にするのね」
「前は、思ったことを飲み込んでばっかりだったからな」
「あら。今は違うの?」
「もうやめた」
「そう」
朱莉は少しだけ目を細めた。
「それは悪くないかもね」
そこへ、先ほど医者を呼びに行った少女が戻ってきた。
「朱莉姐さん! お医者様、すぐ来てくれるって!」
「ありがとう、千代」
少女――千代は大きく頷く。
そして、初めて恒一郎をまじまじと見た。
「この人が?」
「そう。この人が助けてくれたの」
「一人で?」
「まあ……だいたい」
朱莉が恒一郎を見る。
「だいたいって何だ」
「説明すると長くなるでしょう?」
「それはそうだけど」
千代は目を丸くした。
「すごい……」
「いや。大したことはしてない」
「七人もいたんでしょう?」
「……もう知ってるのか?」
「さっき、みんなが話してた!」
どうやら負傷者を運び込む間に、話はすでに広まっているらしい。
恒一郎は少し嫌な予感がした。
「まさか、もう店中に?」
「たぶん」
朱莉が答える。
「早くないか?」
「花街で話が広まる速さを甘く見ない方がいいわよ」
「そういうものなのか」
「そういうものよ」
そこへ、年嵩の女が廊下の奥から姿を現した。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。
派手さはない。
だが、歩いてくるだけで周囲の女たちが自然と道を開ける。
「朱莉」
「おかみさん」
朱莉の表情が少しだけ改まった。
女はまず朱莉を上から下まで眺めた。
「怪我は?」
「私はないわ」
「そう」
それだけ答えると、今度は恒一郎を見る。
視線が鋭い。
恒一郎が相手を見るより先に、値踏みされている気がした。
「この人が?」
「ええ。志堂恒一郎」
「志堂……」
女は一度、その名を口の中で転がした。
「聞かない名だね」
「この辺りに来るのは初めてだからな」
「でしょうね」
即答だった。
「分かるのか?」
「分かるよ」
女は恒一郎の着物、刀、立ち方を一通り見る。
「その辺の男とは、少し違う」
「褒められてる?」
「まだ決めてないよ」
「厳しいな」
「朱莉を連れて帰ってきた男だからね」
「それだけで?」
「それだけで十分だよ」
どういう意味だ。
恒一郎が朱莉を見る。
朱莉は知らん顔をしていた。
「おかみさん」
「何だい?」
「恒一郎、お腹空いてるみたいなの」
「そうかい」
女はようやく少し笑った。
「命の恩人を空腹のまま立たせておくわけにもいかないね。何か出してやんな」
「はーい!」
千代が元気よく返事をする。
「私が頼んだんだけど」
「この店にいる以上、私の客でもあるよ」
「相変わらずね」
「お前に言われたくない」
朱莉とおかみのやり取りを聞きながら、恒一郎は少し肩の力を抜いた。
ほどなくして医者も到着した。
しばらくして、傷は深いものの命に別状はないと聞かされる。
「よかった」
朱莉が小さく息を吐いた。
恒一郎も、ようやく安心した。
血が止まったからといって、あのまま無事だという保証はなかった。
これでようやく、一つ片づいた。
案内された部屋は二階にあった。
座敷に腰を下ろすと、恒一郎は大きく息を吐いた。
「……生き返る」
「まだ食べてもいないのに?」
「座れるだけでだいぶ違う」
「駕籠って重いのね」
「お前、今さら言うのか」
「私は担がないもの」
「正論だけど腹立つな」
ほどなくして、膳が運ばれてきた。
白い飯。
焼き魚。
煮物。
味噌汁らしき汁物。
見慣れたようでいて、少しずつ違う。
恒一郎は箸を手に取った。
「いただきます」
朱莉が少し首を傾げる。
「食べる前に、そう言うのね」
「ああ。俺のいたところではな」
「へえ」
一口食べる。
「……うまい」
「よかった」
空腹だったこともあって、箸が止まらない。
腹が満たされてくると、ようやく周囲を見る余裕が出てきた。
窓の外。
さっきまで明るかった空が、少しずつ茜色に変わっている。
そして。
花街も変わり始めていた。
軒先に灯りがともる。
格子の向こうで女たちが髪を整える。
どこかから三味線の音。
笑い声。
通りを歩く男たちも増えている。
「……夜になると、ずいぶん変わるな」
「これからよ」
朱莉が窓辺に座った。
「花街は、日が落ちてからが本番だから」
「なるほど」
恒一郎も外を見る。
赤。
橙。
金。
いくつもの灯りが、通りを染めていく。
華やかだ。
だが。
よく見ると、その華やかさの裏側も少しずつ見えてくる。
笑って客を迎える女。
その後ろで忙しく動く下働き。
客の懐具合を見ている男。
入口で揉めている酔客。
金。
欲。
見栄。
色。
そんなものまで、灯りの下に浮かんで見える気がした。
「面白い?」
朱莉が聞いた。
「面白い」
「即答ね」
「前にいたところより、ずっと人間らしい」
「褒めてるの、それ」
「たぶん」
「またそれね」
朱莉は窓の外へ視線を戻した。
やがて、通りに灯りが増えていく。
女たちの声も。
三味線の音も。
男たちの笑い声も。
少しずつ大きくなる。
花街が、目を覚ましていく。
「恒一郎」
「ん?」
「今日は、もう面倒ごとに首を突っ込まないでね」
「俺から突っ込んだ覚えはないけど」
「そういう人ほど言うのよ」
「偏見だ」
「経験よ」
朱莉が立ち上がった。
「さて」
「どこ行くんだ?」
「仕事」
そう言って。
朱莉は恒一郎の前で、髪に手を添えた。
表情が変わる。
目元。
口元。
立ち方。
さっき門をくぐった時よりも、さらに一段。
朱莉という女が、別の何かへ変わっていく。
艶やかで。
近寄りがたく。
それでも目を離せない。
「……なるほど」
「何?」
「やっぱり、少し名が知られてるだけじゃなさそうだ」
朱莉は笑った。
今まで見せていた笑い方とは違う。
花街の女としての、完璧な笑みだった。
「今さら気づいたの?」
その時。
廊下の向こうから声が飛んできた。
「朱莉姐さん! お客様です!」
「誰?」
返事はすぐに来た。
「蔵前屋の使いだそうです!」
朱莉の笑みが。
消えた。




