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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第一章 花街で始める二度目の人生

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第6話 夜の町には、美人が多すぎる

 店の中へ入ると、外から見た以上に広かった。


 正面には磨き上げられた板の間。


 奥へ続く廊下。


 二階へ上がる階段。


 柱や欄間には細かな細工が施され、恒一郎には値段の見当もつかない調度品が、さも当然のように置かれている。


「……ずいぶん立派な店だな」


「そう?」


 朱莉は何でもないことのように答えた。


「これが普通なら、俺の普通がおかしいらしい」


「それは前から分かってるでしょう?」


「否定できないのが悔しいな」


 奥から女たちが次々と顔を出した。


「朱莉姐さん、おかえりなさい」


「ご無事でしたか?」


「そのお方は?」


 若い女もいれば、朱莉と同じくらいの年頃の女もいる。


 そして。


 恒一郎は思わず黙った。


「……何?」


 朱莉が横から覗き込んでくる。


「いや」


「何よ」


「美人、多いなと思って」


 一瞬。


 周囲が静かになった。


 しまった。


 また口に出した。


 だが次の瞬間、女たちから笑い声が上がった。


「あらまあ」


「朱莉姐さん、ずいぶん正直な方を連れて帰ってきましたねえ」


「そういうつもりで言ったんじゃない」


「でも、美人だとは思ったんでしょう?」


「それは否定しない」


 また笑い声が上がる。


 朱莉だけが半ば呆れた顔をしていた。


「あなた、本当に思ったことをすぐ口にするのね」


「前は、思ったことを飲み込んでばっかりだったからな」


「あら。今は違うの?」


「もうやめた」


「そう」


 朱莉は少しだけ目を細めた。


「それは悪くないかもね」


 そこへ、先ほど医者を呼びに行った少女が戻ってきた。


「朱莉姐さん! お医者様、すぐ来てくれるって!」


「ありがとう、千代」


 少女――千代は大きく頷く。


 そして、初めて恒一郎をまじまじと見た。


「この人が?」


「そう。この人が助けてくれたの」


「一人で?」


「まあ……だいたい」


 朱莉が恒一郎を見る。


「だいたいって何だ」


「説明すると長くなるでしょう?」


「それはそうだけど」


 千代は目を丸くした。


「すごい……」


「いや。大したことはしてない」


「七人もいたんでしょう?」


「……もう知ってるのか?」


「さっき、みんなが話してた!」


 どうやら負傷者を運び込む間に、話はすでに広まっているらしい。


 恒一郎は少し嫌な予感がした。


「まさか、もう店中に?」


「たぶん」


 朱莉が答える。


「早くないか?」


「花街で話が広まる速さを甘く見ない方がいいわよ」


「そういうものなのか」


「そういうものよ」


 そこへ、年嵩の女が廊下の奥から姿を現した。


 四十を少し過ぎたくらいだろうか。


 派手さはない。


 だが、歩いてくるだけで周囲の女たちが自然と道を開ける。


「朱莉」


「おかみさん」


 朱莉の表情が少しだけ改まった。


 女はまず朱莉を上から下まで眺めた。


「怪我は?」


「私はないわ」


「そう」


 それだけ答えると、今度は恒一郎を見る。


 視線が鋭い。


 恒一郎が相手を見るより先に、値踏みされている気がした。


「この人が?」


「ええ。志堂恒一郎」


「志堂……」


 女は一度、その名を口の中で転がした。


「聞かない名だね」


「この辺りに来るのは初めてだからな」


「でしょうね」


 即答だった。


「分かるのか?」


「分かるよ」


 女は恒一郎の着物、刀、立ち方を一通り見る。


「その辺の男とは、少し違う」


「褒められてる?」


「まだ決めてないよ」


「厳しいな」


「朱莉を連れて帰ってきた男だからね」


「それだけで?」


「それだけで十分だよ」


 どういう意味だ。


 恒一郎が朱莉を見る。


 朱莉は知らん顔をしていた。


「おかみさん」


「何だい?」


「恒一郎、お腹空いてるみたいなの」


「そうかい」


 女はようやく少し笑った。


「命の恩人を空腹のまま立たせておくわけにもいかないね。何か出してやんな」


「はーい!」


 千代が元気よく返事をする。


「私が頼んだんだけど」


「この店にいる以上、私の客でもあるよ」


「相変わらずね」


「お前に言われたくない」


 朱莉とおかみのやり取りを聞きながら、恒一郎は少し肩の力を抜いた。


 ほどなくして医者も到着した。


 しばらくして、傷は深いものの命に別状はないと聞かされる。


「よかった」


 朱莉が小さく息を吐いた。


 恒一郎も、ようやく安心した。


 血が止まったからといって、あのまま無事だという保証はなかった。


 これでようやく、一つ片づいた。


 案内された部屋は二階にあった。


 座敷に腰を下ろすと、恒一郎は大きく息を吐いた。


「……生き返る」


「まだ食べてもいないのに?」


「座れるだけでだいぶ違う」


「駕籠って重いのね」


「お前、今さら言うのか」


「私は担がないもの」


「正論だけど腹立つな」


 ほどなくして、膳が運ばれてきた。


 白い飯。


 焼き魚。


 煮物。


 味噌汁らしき汁物。


 見慣れたようでいて、少しずつ違う。


 恒一郎は箸を手に取った。


「いただきます」


 朱莉が少し首を傾げる。


「食べる前に、そう言うのね」


「ああ。俺のいたところではな」


「へえ」


 一口食べる。


「……うまい」


「よかった」


 空腹だったこともあって、箸が止まらない。


 腹が満たされてくると、ようやく周囲を見る余裕が出てきた。


 窓の外。


 さっきまで明るかった空が、少しずつ茜色に変わっている。


 そして。


 花街も変わり始めていた。


 軒先に灯りがともる。


 格子の向こうで女たちが髪を整える。


 どこかから三味線の音。


 笑い声。


 通りを歩く男たちも増えている。


「……夜になると、ずいぶん変わるな」


「これからよ」


 朱莉が窓辺に座った。


「花街は、日が落ちてからが本番だから」


「なるほど」


 恒一郎も外を見る。


 赤。


 橙。


 金。


 いくつもの灯りが、通りを染めていく。


 華やかだ。


 だが。


 よく見ると、その華やかさの裏側も少しずつ見えてくる。


 笑って客を迎える女。


 その後ろで忙しく動く下働き。


 客の懐具合を見ている男。


 入口で揉めている酔客。


 金。


 欲。


 見栄。


 色。


 そんなものまで、灯りの下に浮かんで見える気がした。


「面白い?」


 朱莉が聞いた。


「面白い」


「即答ね」


「前にいたところより、ずっと人間らしい」


「褒めてるの、それ」


「たぶん」


「またそれね」


 朱莉は窓の外へ視線を戻した。


 やがて、通りに灯りが増えていく。


 女たちの声も。


 三味線の音も。


 男たちの笑い声も。


 少しずつ大きくなる。


 花街が、目を覚ましていく。


「恒一郎」


「ん?」


「今日は、もう面倒ごとに首を突っ込まないでね」


「俺から突っ込んだ覚えはないけど」


「そういう人ほど言うのよ」


「偏見だ」


「経験よ」


 朱莉が立ち上がった。


「さて」


「どこ行くんだ?」


「仕事」


 そう言って。


 朱莉は恒一郎の前で、髪に手を添えた。


 表情が変わる。


 目元。


 口元。


 立ち方。


 さっき門をくぐった時よりも、さらに一段。


 朱莉という女が、別の何かへ変わっていく。


 艶やかで。


 近寄りがたく。


 それでも目を離せない。


「……なるほど」


「何?」


「やっぱり、少し名が知られてるだけじゃなさそうだ」


 朱莉は笑った。


 今まで見せていた笑い方とは違う。


 花街の女としての、完璧な笑みだった。


「今さら気づいたの?」


 その時。


 廊下の向こうから声が飛んできた。


「朱莉姐さん! お客様です!」


「誰?」


 返事はすぐに来た。


「蔵前屋の使いだそうです!」


 朱莉の笑みが。


 消えた。

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