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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第一章 花街で始める二度目の人生

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第5話 江戸みたいな異世界を歩く

 城下へ近づくにつれ、人の往来が増えていった。


 荷車を引く商人。


 笠をかぶった旅人。


 刀を差した武士。


 野菜を背負った女。


 子どもたちが道端を駆け回り、少し離れた茶屋からは威勢のいい呼び込みの声が聞こえてくる。


「……本当に江戸時代みたいだな」


 駕籠の前を担ぎながら、恒一郎が呟く。


「えど?」


 隣を歩いていた朱莉が聞き返した。


「ああ、いや。こっちの話」


「またそれ?」


「便利なんだよ、この言葉」


「聞く方は全然便利じゃないわ」


「そのうち話すよ」


「そのうちねえ」


 朱莉は疑わしそうに恒一郎を見る。


 恒一郎は苦笑しながら、再び前を向いた。


 城下へ続く街道は、思っていた以上に整っている。


 道の両脇には店が並び、紺や茶の暖簾が風に揺れていた。


 焼いた団子に蒸した饅頭。


 干した魚や野菜。


 桶や櫛、色鮮やかな反物まで、軒先という軒先に商品が並んでいる。


 炭火で焼かれた魚の香ばしい匂い。


 醤油に似た甘辛い香り。


 湯気の立つ汁物。


「……腹減ったな」


「今さら?」


「そういえば、こっちに来てから何も食ってない」


「それを今思い出すの?」


「色々ありすぎたんだよ」


 朱莉が呆れたように息を吐く。


「もう少しで着くから、今は我慢しなさい」


「分かってる」


 恒一郎は駕籠の中へちらりと目を向ける。


 血は止まっている。


 だが、傷が治ったわけではない。


 顔色もまだよくない。


「まずは、この人を医者に見せる方が先だな」


「ええ」


「飯はその後だ」


「ちゃんと分かってるのね」


「俺を何だと思ってるんだ」


「食べ物を見た途端、全部忘れる人かと思った」


「そこまでじゃない」


 朱莉が小さく笑った。


 後ろを担ぐ供の男も、足取りはまだ重い。


 恒一郎は男に無理が出ないぎりぎりの速さで先を急いだ。


 急いでいるというのに、目に入るものがいちいち珍しい。


 前の世界なら、時代劇の中でしか見なかったような景色が、当たり前のように目の前を流れていく。


「楽しそうね」


 朱莉が言う。


「顔に出てた?」


「かなり」


「仕方ないだろ。初めて見るものばっかりだからな」


「本当に初めて見るみたいな顔してるもの」


「実際、初めてだからな」


 朱莉が横目で恒一郎を見る。


「……また聞きたいことが増えたわ」


「そのうちな」


「やっぱりそれなのね」


 朱莉は呆れながらも、それ以上は問い詰めなかった。


 城下へ入ると、人の数はさらに増えた。


 反物屋の軒先には鮮やかな布が揺れ。


 桶屋では職人が木槌を振るい。


 魚屋では威勢のいい声が飛ぶ。


「安いよ! 今朝上がったばっかりだ!」


「こっちは大根だよ!」


「甘酒いかが!」


 活気がある。


 前の人生で毎日見ていた、灰色のビルと人混みとはまるで違う。


 不便そうではある。


 だが。


 少なくとも、眺めているだけで退屈はしなかった。


 そのとき。


 道端の茶屋の主人が、こちらを見た。


「あれ?」


 次の瞬間。


「朱莉姐さん?」


 朱莉が軽く顔を向ける。


「どうも」


「やっぱり朱莉姐さんだ」


 主人の顔がぱっと明るくなる。


 だがすぐに、その視線が駕籠へ移った。


「その駕籠……何かあったんですかい?」


「ちょっとね」


「怪我人までいるじゃないですか」


「もうすぐ花街だから。そこで医者に見せるわ」


「そりゃいけねえ。早く連れてってやんな」


「ええ」


 朱莉が軽く会釈する。


 恒一郎は横目で彼女を見る。


「……お前」


「何?」


「知り合い?」


「顔を知ってるだけよ」


「向こうはずいぶん嬉しそうだったけど」


「気のせい」


「そうか?」


 茶屋を離れてしばらくすると。


 今度は道の向こうにいた若い女が朱莉に気づいた。


「あ、朱莉姐さん」


 小さく手を振る。


 朱莉も軽く手を上げる。


 さらに進む。


「朱莉姐さん、おかえり」


「今日は早いのね」


 花街へ近づくほど、声をかけてくる人が増えていった。


 恒一郎は感心する。


「少し名が知られてるだけじゃなかったのか?」


「少しでしょう?」


「どこが」


「この辺りは花街に近いからよ」


「それを差し引いても多いと思うぞ」


「気のせい」


「便利だな、その言葉」


「あなたに言われたくないわ」


 朱莉が楽しそうに笑った。


 どうやら、こうして声をかけられることには慣れているらしい。


 本人にとっては、これが日常なのだろう。


 ただ。


 時折、彼女の視線が道の先や後ろへ向く。


 蔵前屋の追っ手を警戒しているのだろう。


 恒一郎も周囲を見た。


 怪しい気配はない。


 少なくとも、今のところは。


「大丈夫そうだ」


「何が?」


「今は、こっちを狙ってるような奴はいない」


 朱莉が恒一郎を見る。


「……それも分かるの?」


「たぶんな」


「その『たぶん』、もう信用した方がよさそうね」


「役に立つなら何よりだ」


 朱莉はそう言いながらも、恒一郎を見る目にはまだ少し警戒が残っていた。


 完全に信用されたわけではない。


 それでいい。


 出会ってまだ半日も経っていないのだから。


 しばらく進むと、人通りの多い道を外れた。


 目の前に、朱色の大きな門が見える。


 その向こうには高い塀。


 塀の上から、色鮮やかな屋根がいくつも覗いている。


 まだ日が高い。


 それでも門の向こうからは、三味線の音が微かに聞こえてきた。


「ここから先が花街?」


「ええ」


 朱莉の声が少しだけ変わった。


 さっきまで町を歩いていた女とは違う。


 背筋が伸びる。


 歩き方が変わる。


 笑みも。


 ほんの少しだけ、艶を帯びる。


「……へえ」


「何?」


「今、雰囲気変わったな」


 朱莉の足が止まった。


「そんなことまで分かるの?」


「これは普通に見れば分かる」


「そう」


 朱莉は少しだけ目を細めた。


「ここでは、そういう顔をするのよ」


「仕事の顔?」


「そんなところね」


 恒一郎は朱色の門を見る。


 その奥。


 昼の城下とは違う空気が流れている。


 艶やかな着物。


 格子戸。


 灯りの支度をする男たち。


 行き交う女たち。


 まだ夕方にもなっていない。


 なのに。


 そこだけは、夜を待っているように見えた。


「なるほど」


「何が?」


「お前がいる場所って感じがする」


「あら」


 朱莉が笑う。


「褒めてる?」


「たぶん」


「信用できないわね」


「さっきのお返しだ」


「覚えてたの?」


「意外と根に持つ」


「嫌な人」


「面白い人じゃなかったか?」


「撤回しようかしら」


 恒一郎が笑った。


 そのとき。


「朱莉姐さん!」


 門の向こうから、一人の少女が駆けてきた。


 十代半ばほどだろうか。


 簡素な着物。


 髪を一つにまとめている。


「おかえりなさ――」


 途中で言葉が止まった。


 少女の視線が駕籠へ向く。


「その人、どうしたの!?」


「街道で襲われたの」


「えっ!」


「血は止まってる。でも傷は深いわ」


 少女の顔色が変わる。


「すぐお医者様を呼んでくる!」


「お願い」


「うん!」


 少女は勢いよく駆け戻っていく。


 朱莉は駕籠の中を覗き込んだ。


「もう少しよ」


 傷ついた男へ言う。


「しっかりして」


「……はい」


 弱々しい返事。


 恒一郎も気を引き締めた。


 ここまで来た。


 あと少しだ。


 門をくぐり。


 少女に案内されるまま、花街の中を進む。


 やがて、格子戸を構えた二階建ての大きな店の前へ着いた。


「ここよ」


 朱莉が言う。


 何人かの男たちが慌てて中から出てくる。


「朱莉姐さん!」


「怪我人よ。手を貸して」


「へい!」


 恒一郎たちは駕籠を下ろした。


 すぐに男たちが重傷者を中へ運んでいく。


 横を歩いてきた供も、店の者に肩を貸されて後に続いた。


 後ろを担いでいた男は、ようやくその場に腰を下ろし、大きく息を吐いた。


 そこでようやく。


 恒一郎も大きく息を吐く。


「……着いたな」


「ええ」


「さすがに肩が痛い」


「お疲れ様」


 朱莉が恒一郎を見る。


 さっきまでの軽い調子ではなく。


 少しだけ真面目な顔だった。


「本当に助かったわ。ありがとう」


「それなら、担いだ甲斐もあった」


「街道でも助けてもらったのに?」


「それとこれは別だろ」


「そういうもの?」


「俺の中ではな」


 朱莉はしばらく恒一郎を見ていた。


 それから、ふっと笑った。


「やっぱり変な人」


「またそれか」


「でも、悪くない意味よ」


「それなら受け取っておく」


 朱莉が店の中を見る。


 慌ただしく人が行き交っている。


 しばらくすれば医者も来るだろう。


 ここまで来れば、恒一郎にできることはひとまずない。


 すると。


「さて」


 朱莉が恒一郎へ向き直る。


「何?」


「お腹、空いてるんでしょう?」


「……覚えてたのか」


「さっきからあれだけ店を見てたらね」


「正直、かなり減ってる」


 朱莉がくすりと笑う。


「じゃあ、怪我人を医者に任せたら何か食べさせてあげる」


「ありがたい」


「命を助けてもらったお礼にしては安すぎるけど」


「飯が食えるなら十分だよ」


「あら」


 朱莉の目が楽しそうに細くなる。


「本当にそれだけでいいの?」


「……その言い方、別のものも期待していいのか?」


「どうかしら」


 朱莉はくるりと背を向けた。


 さっきまでの街道の女とも。


 城下を歩いていた女とも違う。


 花街の女としての、艶やかな笑みが浮かんでいる。


「まずは中へ入りましょう、恒一郎」


 甘い香りを残して。


 朱莉は店の暖簾をくぐった。


 恒一郎も、その後を追う。


 二度目の人生で初めて足を踏み入れる花街。


 そこで、どうやらかなり名の知れた女に案内されながら。


 恒一郎は、ほんの少しだけ胸が躍るのを感じていた。

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