第4話 助けた女は、とんでもない美人でした
「――止まれ」
恒一郎がそう言った瞬間。
傷口から流れ続けていた血が、ぴたりと止まった。
「……え?」
朱莉が息を呑む。
恒一郎も黙った。
血は止まっている。
朱莉が傷口に当てていた布をそっと浮かせても、新しい血は滲んでこない。
「本当に……止まってる」
「みたいだな」
「みたいだな、じゃないでしょう」
朱莉が恒一郎を見る。
「あなた、自分が何をしたか分かってる?」
「それを聞かれると困る」
「また?」
「まただ」
恒一郎は傷口を覗き込んだ。
血は止まった。
だが、傷そのものが消えたわけではない。
切れた皮膚も、その奥の傷も残っている。
「なるほど」
「何が?」
「止めただけらしい」
「……血を?」
「ああ」
朱莉の目が細くなる。
「普通は、それができないのよ」
「それくらいは俺にも分かる」
「本当に?」
「たぶん」
「まったく信用できないわね」
恒一郎は苦笑した。
だが、少しだけ分かったこともある。
「止まれ」と言えば、何もかも元通りになるわけではない。
少なくとも今は、言葉通りのことが起きている。
なら。
「傷そのものも――」
「駄目」
朱莉が即座に言った。
「まだ何も言ってないだろ」
「言わなくても分かるわ。次は傷を治せるか試そうとしたでしょう」
「……よく分かったな」
「さっきからあなたのやることを見ていれば分かるわよ」
朱莉は恒一郎の袖を掴んだ。
「人の身体で、次々試すものじゃないわ」
恒一郎は彼女を見る。
言っていることは正しい。
何が起きるのかも分からない力だ。
野盗ならともかく、助けようとしている相手で試すべきではない。
「……確かに」
「でしょう?」
「悪かった」
素直に引くと、朱莉がわずかに目を見開いた。
「謝るのね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「人を一言で止めて、七人まとめて追い返した得体の知れない男」
「だいたい合ってるな」
朱莉の目元が少し緩んだ。
「でも」
恒一郎は傷ついた男を見る。
「これなら、町まで運ぶ時間くらいは稼げそうだ」
「ええ」
朱莉もすぐに表情を戻す。
「血が止まっただけでも十分よ」
残る二人の様子も確認する。
一人は頭を打って気を失っていたが、先ほどから少しずつ意識が戻り始めている。
もう一人は腹を強く打たれたらしい。
痛みはあるが、命に関わるようには見えない。
それも恒一郎には、なぜか分かった。
「この二人も、すぐにどうこうなる感じじゃない」
「また分かるの?」
「……分かるらしい」
「便利ね」
「自分でもそう思う」
「怖くはないの?」
不意に聞かれた。
「何が?」
「自分でも分からないものが、次々できること」
恒一郎は少し考えた。
「怖いっていうより……今は面白いかな」
「面白い?」
「ああ」
一度目の人生では。
できないことの方が多かった。
どうにもならない仕事。
動かない人間。
変えられない状況。
何とかしろと言われるくせに、そのための力は何ひとつ与えられなかった。
それに比べれば。
「前よりは、ずっとましだ」
「前?」
「こっちの話」
朱莉は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「朱莉様……」
頭を打っていた男が呻いた。
朱莉がすぐにそちらへ向く。
「気がついた?」
「申し訳……ございません。お守りできず……」
「謝らなくていいから、まだ起きないで」
「ですが……」
「命があるだけで十分よ」
声が柔らかい。
野盗を相手にしていたときの強気な女とは、まるで違う。
恒一郎はその横顔を眺めた。
「案外、面倒見がいいんだな」
朱莉が振り返る。
「案外は余計よ」
「失礼」
「あなた、思ったことを何でも口にするのね」
「前はもう少し我慢してたんだけどな」
「今は?」
「やめた」
朱莉が少しだけ首を傾げる。
「そう」
それ以上、追及はしてこなかった。
恒一郎は倒れた駕籠へ目を向ける。
駕籠を吊るす長い担ぎ棒には、途中に大きな亀裂が入っていた。
完全には折れていない。
だが、このまま人を乗せて担ぐのは危ない。
「町までは遠いのか?」
「半刻ほどよ」
「半刻?」
「ゆっくり歩いても、日が傾く前には着くわ」
「それなら何とかなりそうだな」
恒一郎は担ぎ棒の亀裂を見る。
芯までは折れていない。
裂けた部分を添え木で挟み、縄で固く縛れば、城下までなら持ちそうだった。
「縄はあるか?」
「あると思うけど……何をするの?」
「応急処置」
散らばった荷物の中から縄を見つける。
近くに落ちていた太めの枝を二本拾い、亀裂の入った部分の両側へ添える。
あとは縄をきつく巻く。
「ここを押さえてくれ」
「私が?」
「嫌なら一人でやる」
「誰も嫌とは言ってないでしょう」
朱莉がしゃがみ込む。
二人で担ぎ棒を押さえながら、恒一郎が縄を締めていく。
「手慣れてるのね」
「似たようなことは前にもやったことがある」
「駕籠を直したことが?」
「いや。壊れたものを、とりあえず使える状態にするのを」
「何をしてた人なの、あなた」
「人の尻拭い」
「……何それ」
「説明すると長い」
恒一郎は最後に縄を結んだ。
担ぎ棒を持ち上げて確かめる。
「これなら町までは持つだろ」
朱莉も手で押してみる。
「本当ね」
「何でも、さっきの妙な力に頼る必要はないってことだ」
「妙な力、ね」
朱莉が意味ありげに恒一郎を見る。
「自分でも、やっぱり普通じゃないとは思ってるのね」
「……さすがにな」
「そこは認めるのね」
「人を一言で止めて、血まで止めたからな。さすがに偶然じゃ済ませられない」
「少し安心したわ」
「何が?」
「あなたが、自分だけは普通だと言い張るような人じゃなくて」
「そこまで図太くないよ」
朱莉がくすりと笑った。
恒一郎は立ち上がり、あらためて彼女を見る。
「ところで」
「何?」
「さっきから聞こうと思ってたんだけど」
「何かしら」
「蔵前屋って、そんなに厄介な相手なのか?」
朱莉の笑みがわずかに消えた。
「この辺りではね」
少しだけ間を置き、続ける。
「米に反物、材木、金貸し。手広く商いをしている大店よ。町の役人にも顔が利く」
「なるほど」
「金で手に入らないものはないと思ってる男」
「それで、お前も?」
朱莉の目が細くなる。
「ずいぶん踏み込むのね」
「嫌なら聞かない」
恒一郎はすぐに言った。
「ただ、あいつらがわざわざ攫いに来るくらいだ。何か事情があるんだろうと思っただけだ」
朱莉はしばらく、恒一郎の顔を見つめた。
探るような視線。
「……変な人ね」
「今日それ何回目だ?」
「だって変なんだもの」
「どこが?」
「普通なら、もっと聞きたがるわ」
「知りたくないわけじゃない」
「じゃあ、どうして聞かないの?」
「話したくないことを無理に聞いても仕方ないだろ」
朱莉が黙った。
その目から、ほんの少し警戒が薄れたように見えた。
ただ。
それがあの不思議な力で分かったのか。
一度目の人生で身につけた、人の顔色を読む癖なのか。
恒一郎自身にも判断できない。
「……あなた」
「ん?」
「名前は?」
そういえば、まだ名乗っていなかった。
「志堂恒一郎」
「シドウ……コウイチロウ」
朱莉がゆっくりと口にする。
「変わった名前ね」
「そうか?」
「少なくとも、この辺りでは聞かないわ」
「そうらしいな」
「そうらしい?」
「その話はまた今度」
「気になる言い方ばかりするのね」
恒一郎は少し笑った。
「分からないことだらけだが、一つずつ確かめればいいさ」
「ずいぶん呑気ね」
「焦っても仕方ないだろ」
朱莉は怪訝そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。
「で、お前は朱莉でいいんだよな?」
「さっき聞いていたでしょう」
「ああ。朱莉様って」
「様はいらないわ」
「分かった。朱莉」
「……あら」
「何だ?」
「ずいぶんあっさり呼ぶのね」
「呼んでいいって言っただろ」
「そうだけど」
朱莉の目に、少しだけ悪戯っぽい色が浮かぶ。
「私を『朱莉』と呼ぶ男、そう多くはないのよ」
「そんなに価値があるのか?」
「知らないの?」
「知らない」
朱莉はまじまじと恒一郎を見る。
「本当に何も知らないのね」
「最初からそう言ってる」
「この辺りで『朱莉』と言えば、それなりに通る名前よ」
「へえ」
恒一郎は改めて朱莉を見る。
艶やかな黒髪。
赤い着物。
口元を覆った薄布。
旅に護衛がつき。
蔵前屋という大商人が、わざわざ人を使って攫おうとする。
どう考えても、ただの女ではない。
「何者なんだ?」
「聞かないんじゃなかったの?」
「今のは自分から話したそうに聞こえた」
朱莉が吹き出した。
「あなた、本当に変ね」
「また増えたな」
「じゃあ」
朱莉は口元へ手を伸ばした。
「少しくらい教えてあげる」
薄布の結び目を解く。
さらり、と布が外れた。
恒一郎は思わず黙った。
白い肌。
すっと通った鼻筋。
紅を引いた唇。
切れ長の目は妖艶なのに、今のように少し笑うと、不思議なくらい愛嬌がある。
美人なのは分かっていた。
だが。
想像より、ずっと上だった。
「……なるほど」
「何が?」
「蔵前屋がそこまで欲しがる理由は、少し分かった」
朱莉が目を丸くする。
それから。
「ふふっ」
楽しそうに笑った。
「正直な人」
「褒め言葉として受け取っておく」
「普通の男なら、もう少し気の利いたことを言うわよ」
「例えば?」
「それを私に言わせる気?」
「参考までに」
「嫌よ」
朱莉は少しだけ顔を背けた。
だが、機嫌は悪くなさそうだった。
「それで」
恒一郎が聞く。
「朱莉は何者なんだ?」
「花街の女よ」
「花街?」
「城下にあるの。夜になれば、たくさんの灯りがついて、三味線の音が朝まで止まないようなところ」
「なるほど」
「私はそこで、少しばかり名が知られてる。それだけ」
少しばかり。
どう考えても、それだけではない。
だが、恒一郎は追及しなかった。
「さて」
朱莉が立ち上がる。
「そろそろ町へ戻らないと」
「ああ」
意識を取り戻した男と、腹を痛めた男もどうにか立ち上がった。
だが、二人だけで重傷者を乗せた駕籠を担ぐのは厳しい。
恒一郎は迷わず担ぎ棒の前へ回った。
「二人じゃきついだろ。俺も担ぐ」
「あなたが?」
「助けるって決めたんだから、町までが助けるうちだろ」
朱莉が目を瞬く。
「……そう」
「何だよ」
「別に」
わずかに笑った。
「ただ、あなたって思ってたより普通なのね」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「信用できないな」
重傷者を駕籠へ寝かせる。
恒一郎が前を担ぎ、動ける供の男が後ろを担いだ。
もう一人は痛む腹を庇いながら、駕籠の横を歩く。
ゆっくりなら進めそうだ。
街道へ戻る直前。
朱莉が恒一郎を振り返った。
「ところで、あなたはこれからどうするの?」
「俺?」
「城下へ着いた後よ」
聞かれて、恒一郎は初めて気づいた。
「……決めてないな」
家はない。
金もない。
知り合いもいない。
そもそも、この国について何も知らない。
「行く当ても?」
「ない」
「お金は?」
恒一郎は懐を探る。
「ないな」
「宿は?」
「ない」
「あなた、よくそんな状態で平然としていられるわね」
「まあ、どうにかするさ」
「何を根拠に?」
恒一郎は自分の目と手を見る。
「今日一日で、少なくとも野垂れ死にはしない気がしてきた」
「ずいぶんな自信ね」
「根拠は今のところ、少しだけある」
「それは否定できないわね」
朱莉が小さく笑う。
「なら」
少しだけ間を置いた。
「私と一緒に来る?」
「いいのか?」
「命の恩人を無一文のまま街道に放り出していくほど、薄情じゃないわ」
「それは助かる」
「それに」
朱莉の目が楽しそうに細くなる。
「あなたが何者なのか、もう少し見てみたいもの」
「俺もだよ」
「あなた自身を?」
「ああ」
朱莉は一瞬きょとんとして。
それから声を上げて笑った。
「本当に変な人」
「それはもういい」
「じゃあ訂正する」
朱莉が恒一郎の横を通る。
そのとき、ほんのり甘い香りが鼻先をかすめた。
そして振り返る。
「面白い人ね、恒一郎」
初めて名前で呼ばれた。
「そりゃどうも」
恒一郎も笑う。
その先には、遠く城が見えていた。
城下には瓦屋根が幾重にも連なり。
さらにその一角。
朱色の門と高い塀に囲まれた町並みが見える。
「朱莉」
「何?」
「あれが?」
朱莉もそちらを見る。
そして、少しだけ意味ありげに笑った。
「ええ」
風が吹き。
朱莉の長い黒髪が揺れる。
「私のいる花街よ」
瑞ノ国に来て、まだ半日も経っていない。
それなのに恒一郎は、この二度目の人生が、一度目とはまるで違うものになる――そんな予感だけは、妙にはっきりと感じていた。




