第10話 金で買えないものがある
翌朝。
恒一郎が目を覚ました時には、花街の夜はすっかり消えていた。
昨夜まで聞こえていた三味線も、笑い声もない。
代わりに。
廊下を掃く音。
桶を運ぶ音。
女たちの眠そうな声。
「夜とは別の町みたいだな」
恒一郎が階段を下りると、千代がいた。
「あ、恒一郎さん」
「お梅は?」
「今は眠ってます。熱も少し下がりました」
「そうか」
ひとまず。
急に悪くなったわけではないらしい。
「もう一人は?」
「そっちも休んでます。先生が朝また来るって」
「分かった」
恒一郎は、お梅のいる部屋を覗いた。
眠っている。
呼吸は昨夜より落ち着いていた。
だが。
黒い糸は消えていない。
薄くはなっているが、確かにそこにある。
熱が下がっても消えない。
「……治ったわけじゃないのか」
「何か言いました?」
「いや」
千代には聞こえなかったらしい。
「朱莉は?」
「もう起きてますよ」
「早いな」
「朱莉姐さんですから」
「それで説明になるのか?」
「なります」
千代は当然のように言った。
◇
「遅い」
朱莉は、店の表で待っていた。
昨日とは違う、落ち着いた着物。
化粧も薄い。
「起きてすぐ来たんだけど」
「私はもっと前から起きてるわ」
「仕事が終わったの、俺より遅かっただろ」
「女には色々あるのよ」
「便利だな、その言葉」
「あなたもよく使うでしょう。『それはまた今度』」
「確かに」
朱莉が小さく笑った。
「行きましょう」
「昨日言ってた娘のところ?」
「ええ」
二人は店を出た。
朝の花街は静かだった。
夜には灯りと人で埋まっていた通りも、今は掃除をする者がちらほらいるだけ。
昨夜は見えなかった汚れも、傷んだ壁も、朝の光ではよく見える。
「夜の方が綺麗ね」
朱莉が言った。
「そうか?」
「余計なものが見えなくなるもの」
「俺には余計なものまで見えるけどな」
朱莉が横目で見る。
「それ、笑っていいの?」
「俺にも分からん」
◇
向かったのは、歩いてすぐの店だった。
朱莉が名を告げると、すぐに奥へ通された。
「やっぱり顔が利くんだな」
「少しばかり名が知られてるだけよ」
「まだそれで通すのか」
「何のこと?」
しらばっくれる朱莉についていく。
奥の小部屋。
一人の娘が布団に横になっていた。
年は十八くらいだろうか。
顔色はまだ悪いが、意識ははっきりしている。
「お菊」
「朱莉姐さん……」
「具合は?」
「だいぶ、ましです」
朱莉は枕元へ座った。
「少し聞きたいことがあるの。この人も一緒でいい?」
お菊が恒一郎を見る。
「……誰です?」
「変な男」
「紹介が雑だな」
「間違ってないでしょう?」
「否定しづらい」
お菊が少しだけ笑った。
朱莉も表情を緩める。
「この人、少し変わったところに気づくのが得意なの」
「変わったところ?」
「身体の具合とか。そういうもの」
お菊はまだ少し不安そうだったが、朱莉を見てから頷いた。
「……分かりました」
「志堂恒一郎。ちょっと見せてもらっていいか?」
「はい」
恒一郎はお菊を見る。
やはり。
あった。
胸元から身体の奥へ。
細い黒い糸。
昨夜の二人より薄い。
だが。
同じものに見える。
そして。
糸は身体の外へ伸びていた。
部屋の端へ。
そこから壁を抜けるように続き。
やがて、見えなくなる。
「……あるな」
朱莉がすぐに反応する。
「同じ?」
「ああ」
「向きは?」
「昨日の二人とも違う」
朱莉の表情が曇った。
お菊が不安そうに二人を見る。
「何の話です?」
「ごめんなさい。まだ分からないことなの」
朱莉が答えた。
恒一郎も頷く。
「少し聞いていい?」
「はい」
「倒れる前、何か変わったことはなかった?」
「変わったこと……」
「食べたものでも、行った場所でも、人でも」
お菊は考える。
「特には……」
「誰かから何かもらったとか?」
「もらった……」
その時。
お菊の目が少し泳いだ。
朱莉が気づく。
「何かあるの?」
「でも、関係ないと思います」
「いいから話して」
「……お金を」
恒一郎が眉を上げる。
「誰から?」
「知らない人です」
「知らない人から?」
お菊は困ったように頷いた。
「三日前。店の裏で声をかけられて」
「何て?」
「『旦那様からだ』って」
朱莉の目が細くなる。
「旦那様?」
「名前は?」
恒一郎が聞く。
「言いませんでした。ただ……」
お菊が少し躊躇う。
「花街で働くのは大変だろうって」
「それで金を?」
「はい」
「ただで?」
「最初は受け取らないって言ったんです。でも、その人が……」
お菊の声が小さくなる。
「『いずれ返してもらうものだから』って」
朱莉の表情が変わった。
「いくら?」
お菊が答える。
恒一郎には、その額がこの世界でどれほど大きいのか、まだ分からない。
だが。
朱莉の顔を見れば、少なくないことだけは分かった。
「使った?」
「少しだけ……」
「何に?」
「母に送りました」
お菊が俯く。
「弟が病気で」
朱莉は責めなかった。
ただ、静かに息を吐いた。
「他にも、もらった子はいる?」
「分かりません。でも……」
「でも?」
「その人、私だけに声をかけてた感じじゃありませんでした」
恒一郎と朱莉が目を合わせる。
「顔は覚えてる?」
「はい」
「今見たら分かる?」
「たぶん」
「名前は?」
「聞いてません」
「着物とか、特徴は?」
お菊が説明する。
地味な着物。
目立たない顔。
商家で働いていそうな男。
これだけでは探すのは難しい。
「金か」
恒一郎が呟いた。
「まだ関係あるとは限らないわ」
朱莉が言う。
「ああ」
「でも気になる?」
「かなり」
恒一郎は黒い糸を見る。
金を受け取った。
三日後に倒れた。
それだけで結びつけるのは早い。
だが。
偶然として捨てるには、少し引っかかる。
「お菊」
朱莉が優しく声をかける。
「そのお金、残ってる?」
「少しだけなら」
「見せてもらえる?」
「はい」
お菊が枕元の小さな巾着を指した。
朱莉が取り、中から銭を出す。
「恒一郎」
「うん?」
「見て」
「金を?」
「あなた、色々見えるでしょう?」
「何でも見えるわけじゃないぞ」
「知ってる。でも、見るだけならいいでしょう」
「まあな」
恒一郎は銭を見る。
何も。
――いや。
「……待て」
「何?」
銭そのものではない。
銭を包んでいた紙。
その端に。
ほんの僅か。
黒いものが見えた。
糸ではない。
染み。
いや。
何かが擦れた跡のようにも見える。
「これ」
「何かあるの?」
「紙の方だ」
朱莉が覗き込む。
「私には何も見えない」
「だろうな」
恒一郎は紙を手に取った。
黒い跡。
お菊の身体にあるものと。
どこか似ている。
だが。
同じものだと決めるには早い。
「これ、捨てるな」
「分かったわ」
「あと、他の子にも聞いてみたい」
「お金をもらってないか?」
「ああ」
「分かった」
朱莉が立ち上がる。
その時だった。
部屋の外が、少し騒がしくなった。
「何?」
朱莉が襖を見る。
店の者らしい女が入ってくる。
「朱莉姐さん」
「どうしたの?」
「表に……蔵前屋の人が」
空気が変わった。
朱莉の顔から、柔らかさが消える。
「私に?」
「はい」
「ここまで来たのね」
恒一郎も立ち上がる。
「行くの?」
「行かないわけにもいかないでしょう」
「俺も行く」
「どうして?」
「気になるから」
「それだけ?」
「今のところは」
朱莉がため息をついた。
「本当に、その言い方好きね」
◇
店の表には、昨日とは別の男がいた。
身なりは良い。
腰は低い。
だが。
目だけが笑っていない。
「朱莉様」
「何の用?」
「宗兵衛様から、改めてお話がございます」
「昨日断ったはずだけど」
「旦那様は、それでもあなたのことを思っておられます」
「私の気持ちは?」
男は一瞬だけ黙る。
そして。
懐から、小さな包みを出した。
「こちらを」
「何?」
「ほんの心ばかりです」
朱莉は受け取らない。
「いらないわ」
「中身もご覧にならずに?」
「見れば欲しくなると思ってる?」
男の笑みは崩れない。
「金があれば、救えることは多うございます」
「だから?」
「借りがある者も、家族を養う者も。必要なものは、人それぞれでしょう」
お菊の話が、恒一郎の頭をよぎる。
「それ、誰にでも言ってるのか?」
男が初めて恒一郎を見る。
「……どちら様で?」
「志堂恒一郎」
「存じませんな」
「俺もお前を知らない」
「恒一郎」
朱莉が小さく制する。
恒一郎は構わず聞いた。
「知らない娘に金を渡してる奴、知ってるか?」
男の表情は変わらなかった。
「何のお話でしょう」
「知らないならいい」
「でしたら――」
「ただ」
恒一郎は男を見る。
呼吸。
目の動き。
ほんの僅かな間。
何かを隠した。
そんな気がした。
だが。
何を隠しているかまでは分からない。
「今、少し困っただろ」
男の目が細くなる。
「……何を根拠に?」
「さあな」
「帰って」
朱莉が言った。
「朱莉様」
「何度言われても同じよ」
「宗兵衛様ほどの方なら、あなたを何不自由なく暮らさせることができます」
「だから何?」
「金があれば、選べる人生も増えましょう」
「それはそうだな」
恒一郎が言った。
男が見る。
「金があれば、買えるものは増える」
飯。
家。
時間。
安全。
選択肢。
金は大事だ。
綺麗事で否定するつもりはない。
「でも」
恒一郎は朱莉を見る。
「本人の答えまで買えるわけじゃない」
男の笑みが消えた。
「現実には、金で変わる心などいくらでもございます」
「それも知ってる」
恒一郎は肩をすくめる。
「だから金を使うのは好きにすればいい」
そして。
「嫌だって言ってる相手に、金を積めばそのうち折れると思ってるなら――」
男を見る。
「それは買い物じゃないだろ」
朱莉が僅かに目を見開いた。
男はしばらく恒一郎を見つめていた。
「……宗兵衛様に、そのままお伝えしても?」
「好きにしろ」
「後悔なさいませんよう」
「それも俺が決める」
男は包みを懐へ戻した。
一礼し。
店を出ていく。
姿が見えなくなってから。
朱莉が口を開いた。
「あなた」
「何?」
「背負うって決めてないんじゃなかった?」
「決めてない」
「今のは?」
恒一郎は少し考えた。
「口を出しただけ」
「ずいぶん大きな口ね」
「悪かった?」
朱莉は答えなかった。
代わりに。
少しだけ笑った。
「……嫌いじゃないわ」
「そうか」
「そこはもう少し喜びなさいよ」
「嬉しいよ」
「顔に出なさすぎ」
「昔から」
朱莉が呆れたように息を吐く。
その時。
恒一郎は、さっきの男が立っていた場所を見る。
小さな紙片が落ちていた。
男が包みを出した時に落としたのかもしれない。
恒一郎が拾う。
「……朱莉」
「何?」
紙の端。
そこに。
見覚えのある黒い染みがあった。
お菊の金を包んでいた紙と。
よく似た。
黒い跡。
似ている。
ただ、それだけだ。
これだけで、蔵前屋が何かをしていると決めつけることはできない。
それでも。
偶然として見過ごすには、少し重なりすぎていた。
恒一郎は紙片を見つめる。
「さっきの男」
「ええ」
「少し調べた方がよさそうだ」




