第11話 優しい男は信用しない
店へ戻る途中。
朱莉は、恒一郎の手にある紙片を何度も見ていた。
「本当に、何か付いてるの?」
「ああ」
「どんな?」
「黒い染みみたいなもの」
「お菊のお金を包んでた紙と同じ?」
「似てる」
「同じじゃなくて?」
「そこまでは分からない」
「慎重ね」
「昨日から何度も言ってるだろ」
「分からないものを、分かったって言う方が危ない?」
「そういうこと」
朱莉が小さく笑った。
「覚えたわ」
「それはどうも」
二人は朝の通りを歩く。
店先を掃く者。
水を撒く者。
昨夜の名残を片づける女たち。
その中で。
恒一郎は何度か立ち止まった。
「どうしたの?」
「いや」
通りを歩く女を見る。
黒い糸はない。
別の女を見る。
ない。
「探してるの?」
「少しな」
「誰にでも見えるわけじゃないのね」
「今のところは」
昨夜見た二人にも、お菊にも、黒い糸があった。
だが。
元気そうな女たちには見えない。
「病気になった奴だけなのか……」
「恒一郎」
「ん?」
「その顔で独り言を言ってると、ちょっと怖いわよ」
「どんな顔?」
「悪いことを企んでる顔」
「失礼だな」
「褒めてるの」
「どこが?」
そんな話をしながら歩いていると。
朱莉の足が止まった。
「どうした?」
少し先。
一人の若い女が、店の裏口で誰かと話していた。
女の前には男がいる。
質素な着物。
目立たない格好。
男が何かを差し出す。
小さな包み。
女が首を振る。
男が笑う。
そして。
もう一度、差し出す。
「……あれ」
朱莉の声が低くなった。
「知ってる?」
「男は知らない。でも」
恒一郎も見る。
距離がある。
顔まではよく分からない。
女が包みを受け取った。
男は一礼し、その場を離れる。
「行く?」
朱莉が聞く。
「男を追う?」
「ええ」
恒一郎は一瞬考えた。
「いや」
「追わないの?」
「まず、あの子に聞く」
「どうして?」
「何を渡されたか分からないまま追っても、ただの親切な男かもしれない」
「……親切」
朱莉の声が少し変わった。
恒一郎が見る。
「何?」
「別に」
「何かある顔だけど」
「あなたほど分かりやすくないわ」
「そうか?」
「そうよ」
二人は、包みを受け取った女の方へ向かった。
◇
「お春」
朱莉が声をかけると、女が驚いて振り返った。
「朱莉姐さん!」
「今の人、知り合い?」
「いえ……」
お春と呼ばれた女は、手の中の包みを隠すように握った。
「何をもらったの?」
「その……」
朱莉は責めるような声を出さない。
「怒ってないわ。見せて」
お春は迷った末、包みを差し出した。
中には。
銭。
恒一郎と朱莉が目を合わせる。
「誰から?」
朱莉が聞く。
「知らない人です」
「何て言われた?」
「困ってることはないかって」
「それだけ?」
「最初は断りました。でも……」
お春は俯く。
「父が借金を作ってて。それをどこかで聞いたみたいで」
「知ってたの?」
「はい」
「その人が?」
「ええ」
恒一郎が口を挟む。
「何か返せって言われた?」
「今は何も」
「今は?」
「『いずれ頼み事をするかもしれない』って」
朱莉の目が鋭くなる。
「頼み事?」
「はい。でも、嫌なら断っていいって」
お春が言う。
「すごく優しい人でした」
その言葉に。
朱莉が、ほんの僅かに顔を強張らせた。
恒一郎はそれに気づいた。
「その紙、見てもいい?」
お春が怪訝そうにする。
朱莉が助け舟を出した。
「この人、ちょっと変なところを見るのが得意なの」
「またその説明?」
「便利でしょう?」
「まあな」
お春がおそるおそる包みを渡す。
恒一郎は見る。
銭。
紙。
そして。
「……ある」
紙の端。
黒い染み。
お菊のものと。
さっき拾った紙片と。
よく似ている。
「同じ?」
朱莉が聞く。
「似てる」
「また?」
「また」
恒一郎は、お春を見る。
黒い糸は。
ない。
「身体の方は?」
「今は見えない」
朱莉の表情が変わる。
「少なくとも、今は黒い糸は見えないのね」
「ああ」
お春が少しだけ息を吐く。
恒一郎はすぐに言った。
「でも、安心するのはまだ早い」
「え?」
「これが何なのか分かってない」
恒一郎は包み紙を見る。
「ただ、この黒い跡が、お菊の持ってたものにもあった」
「お菊?」
「今、寝込んでる子」
お春の顔色が変わる。
「私も……?」
「まだ分からない」
恒一郎ははっきり言った。
「だから、身体に変なことがあったら、すぐ誰かに言え」
「……はい」
朱莉が包みを受け取る。
「これは預かってもいい?」
お春が頷く。
「はい」
「それと、今の男にもう一度会っても、一人でついていかないで」
「分かりました」
「他の子にも伝えて。知らない人から金をもらったら、私かおかみさんに言うこと」
「はい」
お春は何度も頷いた。
そのまま店へ戻っていく。
姿が見えなくなってから。
恒一郎が言った。
「一つ分かったな」
「何?」
「金を受け取っただけじゃ、すぐに黒い糸が出るわけじゃない」
「そうね」
「じゃあ、何かもう一段ある」
金。
包み紙。
黒い跡。
それだけでは足りない。
何か。
別の条件がある。
「さっきの男、追えばよかったかしら」
「今からじゃ遅いな」
「あなたが止めたんでしょう?」
「悪かった」
素直に謝ると。
朱莉が少し驚いた。
「……簡単に謝るのね」
「間違えたと思ったらな」
「男の人って、もっと言い訳するものだと思ってた」
「ずいぶんな偏見だな」
「経験則よ」
朱莉は歩き出す。
恒一郎もその隣へ並んだ。
「そういえば」
朱莉が言う。
「昨日の夜、お梅が倒れたあと、おかみさんにも頼んでおいたの」
「何を?」
「似たように寝込んだ子や、急にいなくなった子のこと。知ってる範囲で聞いてみてって」
「いつの間に」
「あなたが黒い糸とにらめっこしてる間に」
「仕事が早いな」
「誰かさんが慎重だからね」
「褒めてる?」
「さあ?」
◇
「さっき」
少し歩いたところで。
恒一郎が口を開いた。
「何?」
「お春が『優しい人でした』って言った時」
朱莉の足が僅かに遅くなる。
「顔、変わっただろ」
「……本当に余計なところまで見るわね」
「見えたから」
「便利ね」
「嫌なら聞かない」
朱莉が恒一郎を見る。
「そこまで言っておいて?」
「嫌ならな」
「……」
少しの沈黙。
やがて。
朱莉が前を向いた。
「優しい男って、信用できないのよ」
「ずいぶんな言い方だな」
「そう?」
「俺も一応、男なんだけど」
「知ってるわ」
「じゃあ俺も?」
朱莉はすぐには答えなかった。
「まだ分からない」
「なるほど」
「怒らないの?」
「何で?」
「信用してないって言われたのよ」
「今日会って二日目の男を、全部信用する方が怖いだろ」
朱莉が恒一郎を見る。
それから。
ふっと笑った。
「そういうところが、ずるいのよ」
「何が?」
「分からないなら、いい」
「便利だな、その言葉」
「あなたに返してるの」
恒一郎は少し笑った。
「で?」
「何?」
「優しい男が信用できない理由」
「まだ聞くの?」
「嫌ならやめる」
「……本当に嫌なら、もう黙ってるわよ」
「じゃあ聞く」
朱莉はしばらく黙った。
朝の通りを歩く。
箒の音。
遠くで誰かが笑う声。
やがて。
「この仕事をしてるとね」
朱莉が言った。
「優しくされることなんて、珍しくないの」
「そうなのか」
「酒を飲ませてくれる。着物をくれる。甘いものを持ってくる。身体を気遣う。疲れてないかって聞く」
「十分優しいじゃないか」
「ええ。優しいわ」
朱莉が笑う。
だが。
目は笑っていなかった。
「最初はね」
「最初?」
「そのうち、言うの」
朱莉の声が少し低くなる。
「『これだけしてやったんだから』」
恒一郎は黙る。
「『俺は他の客とは違う』」
「……」
「『お前のためを思って言ってる』」
聞き覚えがあった。
言葉そのものではなく。
その形に。
前の人生でも、何度も見た。
相手のためと言いながら。
本当は自分の望む答えを言わせたい人間。
「優しさって便利なのよ」
朱莉が言う。
「先に与えておけば、あとで返せって言えるから」
恒一郎は、お春が受け取った包みを見る。
――いずれ頼み事をするかもしれない。
嫌なら断っていい。
優しい言葉。
だが。
本当に断れるのか。
金を受け取ったあとで。
「だから、優しい男は信用しない?」
「そう」
「蔵前屋も?」
朱莉の表情が消える。
「最初は、優しかったわよ」
恒一郎は何も言わなかった。
「高い酒を入れて。着物を贈って。私が欲しがってもいないものを、たくさんくれた」
「断らなかったの?」
「仕事だもの。客からの贈り物を、全部突き返すわけにもいかないでしょう」
「そうだな」
「そのうち言い始めた」
朱莉は前を向いたまま続ける。
「『これだけ大事にしてるのに、なぜ分からない』」
少し間を置く。
「『お前のために、ここから出してやる』」
恒一郎の眉が僅かに動く。
「出たいって言った?」
「言ってない」
「だろうな」
「なのに、あの人の中では、私が喜ぶ話になってた」
朱莉が笑う。
乾いた笑いだった。
「優しいでしょう?」
「優しく見えるな」
「見えるだけ?」
恒一郎は少し考えた。
「相手が欲しいものを聞かずに、自分がやりたいことをやってるだけなら」
朱莉を見る。
「それは、相手のためじゃないだろ」
朱莉が黙った。
数歩。
二人は無言で歩く。
「……あなたは?」
「俺?」
「優しくないの?」
「どうだろうな」
「自分で分からないの?」
「優しいつもりで何かするのは、一番危ない気がする」
「どうして?」
「自分はいいことをしてるって思った瞬間、相手が嫌がってるのを見落としやすいから」
朱莉がじっと恒一郎を見る。
「何?」
「あなた、本当に変ね」
「昨日から知ってる」
「普通ならここで、『俺はそんな男じゃない』って言うところよ」
「そんなこと、まだ分からないだろ」
「自分のことでしょう?」
「自分だから一番分からないこともある」
朱莉はしばらく黙っていた。
やがて。
「だから、信用できる」
「ん?」
「何でもない」
「聞こえたけど」
「忘れて」
「嫌だ」
「そこは素直じゃないのね」
「都合のいいところだけな」
朱莉が笑った。
今度は。
目も笑っていた。
◇
店に戻ると。
おかみさんが待っていた。
「朱莉」
「どうだった?」
「昨夜頼まれた分なら、少し聞けたよ」
おかみさんの手には、一枚の紙がある。
娘の名と店の名が、覚え書きのように並んでいた。
「ここ一月くらいで、急に寝込んだ娘。それから、いなくなった娘だ」
朱莉の顔が引き締まる。
「そんなに?」
「分かる範囲だけだけどね」
恒一郎も紙を見る。
いくつかの名前の横には、小さな印が付いていた。
「この印は?」
「金だよ」
「金?」
「姿を消す前や、寝込む前に、妙な男から金をもらったって話が出た娘」
恒一郎と朱莉が顔を見合わせる。
「何人?」
「今のところ、四人」
「寝込んだ娘も?」
「二人いる」
恒一郎は紙を見る。
まだ。
繋がったとは言えない。
金を受け取っても、今は何ともないお春もいる。
それでも。
同じ話が四人から出ている。
「その金を渡した男。顔を見た奴は?」
「探せばいるだろうね」
「なら――」
恒一郎が言いかけた時。
店の外から。
大きな声が聞こえた。
「おい!」
男の声。
「ここに志堂恒一郎って奴はいるか!」
朱莉が眉を寄せる。
「今度は何?」
恒一郎は入口を見る。
「俺に客みたいだな」
おかみさんが呆れたように言った。
「来て二日で、ずいぶん人気者じゃないか」
「嬉しくない人気だけどな」
店の者が慌てて入ってくる。
「恒一郎さん」
「何?」
「表に……お役人様が」
朱莉の表情が変わった。
「役人?」
恒一郎は、一瞬だけ考える。
蔵前屋は役人にも顔が利く。
朱莉から、そう聞いている。
もちろん。
それだけで、この役人と蔵前屋を繋げるわけにはいかない。
だが。
蔵前屋の使いと揉めた、その日の朝。
今度は自分を名指しで役人が訪ねてきた。
「……ずいぶん、話が早いな」




