第53話 帳面の外
久七の声は廊下の先へ遠ざかり、やがて店先のざわめきに紛れて聞こえなくなった。
綾乃はそれからひと呼吸おいて、ようやく帳面の表紙から手を離した。
「……久七を、疑いたくはありません」
「ああ」
「ですが、それと調べるかどうかは別の話です」
綾乃は顔を上げた。その目に迷いはなかった。
「この店のことですから。私が確かめます」
「そうだな」
恒一郎はそれ以上言わなかった。慰めの言葉も、代わりに調べようという申し出も、今の綾乃には要らないと分かっていた。
綾乃は閉じた帳面を脇へ寄せ、新しい紙を一枚広げた。
「新吉は荷を運んだだけです。誰が箱に手を入れたのかは見ていません。けれど、封を切らずに底や胴を細工して、翌朝までに元通りにするとなれば、箱を扱い慣れた者の仕事です」
「誰にでもできる芸当じゃないな」
「ええ。昼間の職人の出入りなら帳面で追えます。でも、店を閉めたあとのことまで、帳面で追えるとは限りません」
筆の先が紙の上で止まる。
「まずは、夜の仕事がどう回っているのかを確かめます。庄兵衛に聞いてみましょう」
「久七の名は――」
「出しません」
恒一郎が言い終える前に、綾乃は答えていた。
「新吉のことも伏せます。返品の箱の件で、荷の流れを一から見直している。そう言えば、庄兵衛は不思議に思いません」
恒一郎は小さく口の端を上げた。言おうとしたことは、もう全部綾乃の頭にあったらしい。
*
帳場では、大番頭の庄兵衛が算盤を弾いていた。綾乃が用向きを告げると、庄兵衛は手を止めて頷いた。
「荷の流れ、でございますか。苦情の件がございますからな。ごもっともで」
「昼の流れは分かっています。聞きたいのは店を閉めたあとのことです。夜に荷造りをすることもありますね」
「ございます。翌朝早い出荷があれば、閉めてから荷を揃えることも珍しくはありません。箱に傷が見つかって、急ぎで職人に手直しを頼むこともございます」
「職人を夜に呼ぶのですか」
「朝に間に合わせるには、そうするほかないこともございまして。手前が呼ぶこともありますし、久七が呼ぶこともございます。仕事を取り仕切る者が、その場の判断で」
久七の名が出ても、綾乃の表情は変わらなかった。ただ、膝の上で重ねた指がわずかに締まったのを、恒一郎は横目で見ていた。
「呼んだ職人の手間賃は」
「急ぎの手直しは、たいてい月の勘定にまとめて払います。いつの晩に誰が来たかまで、いちいち書きつけはいたしません」
夜の職人仕事が、一つ残らず帳面に載るわけではないらしい。恒一郎は胸の内で頷いた。隠すつもりがなくても残らないのなら、隠したい者にとってはちょうどいい。
綾乃は少し考えてから尋ねた。
「店を閉めたあと、職人はどこから入るのです」
「裏の通用口でございます。閂を掛けておりますから、外の者が勝手に入ることはできません」
「では――」
綾乃の声がわずかに張った。
「夜に職人を通したなら、戸を開けた者がいるはずですね」
庄兵衛はきょとんとしてから、当たり前のことのように答えた。
「それは夜番の役目でございます。戸締まりも、夜の出入りも、あの男が」
「ありがとう、庄兵衛。助かりました」
綾乃が立ち上がった。恒一郎もそれに続く。
帳場を出たところで、綾乃が小さく言った。
「帳面に残らないなら、覚えている人に聞くしかありません」
「戸を開けた側から辿るか。いい筋だ」
綾乃は答えず、ほんの一瞬だけ恒一郎を見て、すぐに前を向いた。
*
夜番の男は、裏木戸の脇にある番小屋にいた。五十がらみで、日の傾きかけた今時分に起き出して、草履の鼻緒を直しているところだった。
「お嬢さん。こんなところへ、どうなさいました」
「少し話を聞かせてください。店を閉めたあと、外から職人が来ることがありますね」
「へえ、ございますよ。急ぎの手直しだとかで。珍しいことじゃありません」
「どんな職人が来ますか」
「そうですねえ……箱屋に、錺師に、たまに塗師も。箱屋なら徳蔵が一番多いですかね。あの人は昼もよく来てますから、夜も呼ばれやすいんでしょう」
綾乃は自分からは一言も徳蔵の名を出していなかった。それなのに、男の口から自然に出てきた。
「徳蔵が夜に来たのは、いつ頃のことか覚えていますか」
「いつ頃と言われても……」
男は首をひねった。
「ひと月か、ふた月か……。ああ、雨の晩に来たのは覚えてます。笠から水を垂らして、道具箱だけは濡らすまいと抱えてましてね。こんな晩にご苦労なこった、と思ったもんで」
雨の晩。恒一郎の脳裏に、新吉の言葉がよみがえった。藤乃屋の荷を運んだのは、雨が続いた頃だったはずだ。
ただ、雨の晩などいくらでもある。恒一郎はその考えを口には出さなかった。
「その晩、徳蔵を通すように言ったのは誰です」
「中番頭さんですよ。久七さんに、今夜徳蔵が来るから開けてやってくれ、と」
男はこともなげに言った。仕事の段取りを話しているだけ、という口ぶりだった。
「それは、その一度だけですか」
「いやあ、久七さんに言われたのは一度や二度じゃなかった気がしますが……何遍かと聞かれると、あっしにも分かりません。庄兵衛さんに言われて開けたこともありますし、ごっちゃになっちまって」
「徳蔵は、中で何の仕事をしていましたか」
「さあ。あっしは戸を開けたら小屋へ戻りますんで。作業場のほうは見ちゃいません。どの箱をいじったのかなんて、とても」
ここで恒一郎が口を挟んだ。
「帰りはどうした」
「帰るときも、あっしが戸を開けましたよ。夜中近かったか、もっと早かったか……そこまでは覚えちゃいませんが。ただ、仕事が済むまで見ていたわけじゃありませんから、何を直したかまでは分かりません」
恒一郎は短く頷いた。戸の開け閉めは夜番の手を通っている。だが、その間に作業場で何があったかを見た者は、ここにはいない。
男はふと手を止めて、綾乃を見上げた。
「お嬢さん。徳蔵に何かあったんですかい?」
綾乃は穏やかに首を振った。
「仕事の流れを確かめているだけです。苦情が出ていますから、どこかに手落ちがないか、一つずつ見ているところなんです」
それから、少しだけ言い添えた。
「まだ調べている途中ですから、余計な噂にならないようお願いします。お得意様の耳に妙な話が入っては困りますので」
「へえ、そりゃもっともで」
男はあっさり頷き、また鼻緒に目を戻した。
*
帳場の奥へ戻ると、綾乃は障子を閉めてから腰を下ろした。紙を引き寄せ、聞いたばかりのことを短く書きつけていく。
恒一郎はその手元を見ながら言った。
「久七は新吉に荷を動かさせ、夜番には徳蔵を通させていた。二つの話がつながったな」
「ですが、同じ夜とは限りません」
綾乃の筆は止まらなかった。
「夜番が覚えていたのは雨の晩です。新吉が藤乃屋の荷を運んだのも雨の続いた頃でしたが、雨の晩なら他にもあります。それに、夜の手直しはもともとある仕事です。久七が職人を呼んだこと自体は、咎められることではありません」
「ああ。そこを間違えちゃいけない」
恒一郎は頷いた。言うべきことは、綾乃がほとんど先に言っていた。
「確かなのは、徳蔵が夜にもこの店へ来ていたこと。久七がそれを迎え入れさせたことがあること。徳蔵があの箱に手を入れたかどうかは、まだ何も分かっていない」
「桔梗院の荷造りの日、昼間に徳蔵は来ていませんでした」
「だが、夜に来ていないとは言えなくなった。言えるのはそこまでだ」
綾乃は筆を置き、紙の上の文字をしばらく見つめていた。
「久七は二十年近く、勘定を誤魔化したと疑われたことさえありません。駄賃ひとつでも帳場を通す人です。私は、それで久七を分かったつもりでいました」
静かな声だった。
「仕事ぶりだけで、人を分かったつもりになっていたのかもしれません」
「まだ決まったわけじゃない」
恒一郎の声は変わらず落ち着いていた。
「久七が何を知っていて、何をしたのか。それが分かるまでは、疑わしいというだけだ」
「ええ。ですから、最後まで確かめます」
綾乃はそう言って顔を上げ、少しだけ間をおいて続けた。
「……志堂様は、久七をすぐ問い詰めようとはなさらないのですね」
「問い詰めるだけなら今すぐできる。だが、見当違いなら相手を傷つけるし、当たっていたら警戒される。それじゃ意味がない」
恒一郎は綾乃の手元の紙に目をやった。
「それに、今日の聞き取りはよかった。こっちから徳蔵の名を出す前に、向こうから話を引き出した。先に名前を出していたら、夜番の記憶はそれに引っ張られていたはずだ」
綾乃は一瞬、言葉を探すように黙った。
仕事ぶりを褒められることなど、綾乃には珍しくもないはずだ。以前、帳面の扱いを褒めたときには「承知しています」と涼しい顔で返された。
「……当たり前のことをしただけです」
紙に目を落としたまま、綾乃は言った。声はいつも通り落ち着いていたが、その口元がかすかにほころんでいるのを、恒一郎は見逃さなかった。綾乃自身がそれに気づいているのかどうかは、分からなかった。
*
「とはいえ」
恒一郎が話を戻した。
「箱を細工した者を追うだけじゃ、まだ足りない」
「抜かれた香木の行き先、ですね」
「ああ」
綾乃の答えは早かった。恒一郎は頷いた。
「抜いた香木は、どこかで金に換えなきゃ意味がない。久七にしても徳蔵にしても、問い詰めるなら、その先を押さえてからだ」
恒一郎は懐から小さな紙包みを取り出し、文机の上で開いた。
黒褐色の香木の一片。伊之助の店で買ったものだ。
綾乃の目がそこに留まった。
「伊之助という小商人の店で買った。ひと月半ほど前から、急に上等な香木を扱い出したらしい。仕入れた時にはもう小分けになっていたと言って、仕入れ先は明かさない」
「白峰屋の箱や印がついたまま売っているわけではないのですね」
「ない。そこまで間抜けじゃないだろう」
綾乃はすぐには手を伸ばさなかった。香木を見つめたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「香りや木目が似ているだけでは、白峰屋の品だとは言えません。同じ産地の木なら、よその店にも入ってきます。似ているというだけで決めつけたら、伊之助にも、うちにも、取り返しのつかない傷がつきます」
「分かってる」
「でも――」
綾乃は顔を上げた。その目には、帳面を前にした時と同じ、静かな熱があった。
「うちで扱う香木のことなら、私もよく知っています。どこまでなら言えて、どこから先は言えないのか。その見極めには自信があります」
言いながら、綾乃は文机の上の香木へ、まっすぐ手のひらを差し出した。
「それなら、私に見せてください」




