第52話 記録のない夜
「最初に頼まれたのは、まだ暑さの残っていた頃です」
新吉の声は低かったが、途切れはしなかった。
「店を閉めたあと、久七さんに呼ばれました。出荷場の棚にある荷を一つ、作業場へ運んでおけ、と」
「出荷場の棚というのは、翌朝に出す荷を並べておく場所か」
「はい。荷造りが済んで、封もしてある荷です。荷札も付いていました」
恒一郎は頷き、それ以上は口を挟まなかった。
隣で小夜が、膝の上で手を重ねたまま新吉を見ている。急かす様子はない。
「作業場の、どこへ置いた」
「奥です。……箱の手直しをする台があるんです。鉋屑が溜まっている隅の。あの台の脇に置いて、筵を掛けておけと言われました」
「台の上ではなく、脇に」
「はい。床に置きました。台の上には、何も載っていなかったと思います」
「思う、か」
新吉は少し考えてから、正直に首を振った。
「暗かったので。手燭は持っていましたけど、足元しか照らしていません。台の上までちゃんと見たかと聞かれると……自信はないです」
「それでいい。分からないところは、分からないままで構わない」
恒一郎の声は穏やかだった。新吉の肩から、わずかに力が抜ける。
「そのとき、作業場に誰かいたか」
「いませんでした。少なくとも、俺は誰も見ていません。置いて、筵を掛けて、すぐ戻りました。済んだら寝ろと言われていたので」
「戻ってから、作業場のほうで物音は」
「奉公人の寝間は母屋の二階で、作業場からは離れています。何も聞こえませんでした」
「翌朝、その荷はどうなっていた」
「出荷場の棚に戻っていました」
新吉はそこで一度言葉を切った。
「いつ、誰が戻したのかは知りません。朝、荷出しの手伝いに行ったら、元の場所にあったんです。それで、ああ、手直しが済んだんだな、と……そのときは思いました」
「それは、そのとき考えたことだな」
「……はい。手直し台の脇に置けと言われたので、箱を直すんだろうと、自分で勝手にそう思っていました」
「なら、見たことは『朝には棚に戻っていた』。言われたことは『手直し台の脇に置け』。考えたことは『手直しが済んだのだろう』だ。それは分けて覚えておいてくれ。混ぜると、あとで自分でもどれだったか分からなくなる」
新吉は、口の中で繰り返すように小さく頷いた。
「久七は、どの荷を運ぶか、どうやって伝えた」
「荷札の名前で。『どこそこの荷を作業場へ』と。……ときには、荷を指して」
「棚に、同じような箱はいくつあった」
「三つか、四つ……多いときはもっとです。上等の品は、だいたい同じ桐の箱なので」
「その中から、一つを選んで指したわけだ」
「はい」
恒一郎は少しだけ間を置いた。
「運んだ荷の荷札は、見たか」
「……全部じゃないです。でも、二つは覚えています」
新吉は膝の上の手を見下ろした。
「一つは藤乃屋さんです。茶道具屋の。俺が小僧だった頃に使いに行って、饅頭をもらったことがあるんです。荷札にその名前があったから、ああ、あそこへ行く荷か、と思って」
小夜の目元が、ほんの少しだけ和らいだ。
「もう一つは、桔梗院というお寺です。そのときは久七さんが荷を指して、これを運べと言われたんです。俺は寺へ使いに出されたことがなくて、寺の名前の荷札を手に取ったのも、たぶんあれが初めてでした。それに字が難しくて、読めなかったんです。運ぶあいだに何度か見直したので、なんとなく形が残っていました。あとで人に聞いて、桔梗院と読むのを知りました」
「日付は分かるか」
「すみません。覚えていません」
「いつ頃か、でいい。何か別のことと重なっていなかったか。天気でも、店の様子でも」
新吉は眉を寄せ、しばらく黙った。恒一郎は待った。行灯の芯が小さく鳴る。
「藤乃屋さんのほうは、雨の続いた頃だったと思います。作業場の土間が湿っていて、筵が冷たかったのを覚えています」
「もう一つは」
「桔梗院は……はっきりとは。帳場が遅くまで灯りをつけていて、その横を荷を抱えて通るのが気まずかった気がします。勘定の頃だったのかもしれませんけど、月末だったかどうかまでは、言い切れません」
「それで十分だ。他の荷は」
「札は見ていません」
新吉は少し言いよどんだ。
「……見ないようにしていたのかも、しれません」
恒一郎は、それを責めもしなければ慰めもしなかった。ただ一度頷いた。
「封をした荷を作業場へ戻すことを、おかしいと思ったと言っていたな」
「はい。翌朝には出す荷です。もう封もしてあるのに、何をするのかと。でも久七さんに聞いても、いいから運べ、と言われただけでした。それきりです」
「分かった」
恒一郎は、新吉が話したことを頭の中で並べ直した。
封の済んだ翌朝出しの荷を、久七が選んで指し、夜のうちに作業場の奥、手直し台の脇へ運ばせる。翌朝には棚に戻っている。そして、そのあいだのことを新吉は何も見ていない。
「明日、綾乃と帳面を当たる。今の話と、店の記録が合うかどうかを確かめる」
「……合わなかったら」
「合わないことが分かる。それも調べのうちだ」
新吉は目を瞬かせ、それから深く頭を下げた。
「店では、いつも通りにしていてくれ。また何か頼まれたら、まず知らせてほしい。自分で探ろうとしなくていい。そこから先は、俺が考える」
「……はい」
小夜が静かに口を開いた。
「新吉さん。よくお話しくださいました」
新吉は何か言いかけて、結局もう一度、黙って頭を下げた。
戸口まで新吉を見送ったあと、小夜は恒一郎の隣に戻り、ぽつりと言った。
「恒一郎様は、新吉さんに何も決めつけさせませんでしたね」
「決めつけた話は、あとで本人を縛る。知っていることだけで十分だった」
小夜はそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ恒一郎の袖に寄り添った。
◇ ◇ ◇
翌日の昼前、白峰屋の奥の納戸には、古い帳面が何冊も積まれていた。
「表向きは、虫干しの前の帳合わせです」
綾乃は藍色の袖をたすきで留め、文机の上に帳面を並べながら言った。
「久七は今、表で荷受けを差配しています。昼まではこちらへは来ません」
出荷控え、荷造りの控え、得意先の台帳。その脇に、半紙を何枚か継いだものが置かれていた。外部職人への頼み書き、工賃の支払い控え、裏口の爺やの出入りの覚えを、綾乃が日付ごとに書き抜いた表だ。
恒一郎は、新吉から聞いたことをそのまま伝えた。どこへ置いたか、誰が指したか、何を覚えていて、何を覚えていないか。
綾乃は口を挟まずに聞き終え、すぐに出荷控えを開いた。
「藤乃屋さんから行きましょう。あそこは得意先として古いので、上等の品も並の品も出しています。名前だけでは絞れません」
指先が帳面の上を滑る。迷いがない。
「新吉さんが運びはじめたのが残暑の頃。そこから今までに、藤乃屋さんへの出荷は三度です」
「三つとも候補か」
「いいえ」
綾乃は一つ目の行を指で押さえた。
「これは刻みの並品です。並の品には封紙を使いません。紐を掛けるだけです。新吉さんが『封のある荷』と言ったなら、これは外れます」
次の行へ。
「これは朝に荷造りをして、その日の昼に出しています。出荷場の棚で一晩を越していません」
「残るのは一つか」
「ええ。夕方に荷造りと封をして、翌朝に出しています。それに――」
綾乃は別の控えを引き寄せた。倉の湿気除けの炭を入れ替えた覚えだった。
「この荷の前後に、倉の炭を十日のうちに二度替えています。雨続きで湿気がひどかったからです。新吉さんの『雨の続いた頃』とも外れません」
恒一郎は、思わず控えのほうへ目をやった。
「炭の替え時まで、帳面に残しているのか」
「香木は湿気で香りが変わります。いつ替えたか分からなければ、苦情が来たときに倉のせいかどうかも分かりませんから」
当然のことのように言って、綾乃は次へ進んだ。
「桔梗院さんは、うちとの取引がそれほど多くありません。この半年で二度だけです。一度目は春。新吉さんが頼まれはじめるより前ですから外します。二度目は――」
指が止まる。
「二十六日の夕方に荷造りと封。二十七日の朝に出荷。残暑より後で、夜のうちに荷を動かす余地があります」
「時期も扱いも合うな」
「はい。月末の勘定の前でもありますから、帳場が遅くまで灯りをつけていたという話とも矛盾はしません。もっとも、新吉さんご自身があいまいだとおっしゃっているなら、そこは添え物程度に考えておきます。決め手は、取引の少なさと時期のほうです」
そう言って、綾乃は苦情の出た品の書き付けを並べた。
「そして、藤乃屋さんの一口も、桔梗院さんの一口も、苦情の出た六口の中にあります。どちらも箱ごと戻ってきている品です」
納戸の中が、しんと静かになった。
「念のため申し上げますが」
綾乃は筆を取り、二つの行に小さく印をつけながら言った。
「帳面が示しているのは、この二口が夕方までに封をされ、翌朝出荷されたということだけです。夜に作業場へ動いたことは、どこにも書いてありません。店の中の荷の移動は、もともと記録しませんから」
「新吉の話と帳面が食い違わない。言えるのはそこまでだな」
「ええ。ただ、食い違ってもおかしくなかったのに、二つとも合いました」
綾乃は、そのまま自分の書いた照合表へ手を伸ばした。
恒一郎は何も言わなかった。綾乃が何をしようとしているのか、分かったからだ。
半紙の上を、指が日付を追っていく。
「藤乃屋さんの荷は……荷造りの日に、徳蔵さんが来ています。蓋の反り直しで工賃が出ています。爺やの覚えにも、昼過ぎに入って夕方前に出たとあります」
指が、次の日付で止まった。
「桔梗院さんの荷は」
綾乃は二度、行を確かめた。
「……徳蔵さんの出入りがありません」
「六口のうち、重ならなかった一口か」
「そうです。この日に来た外の職人は、金具の錺師だけです。頼み書きも工賃も、金具の付け替えだけでした」
綾乃は筆を置いた。しばらく照合表を見下ろしていたが、やがて静かに言った。
「私は昼の帳面で、夜のことを測ろうとしていました」
恒一郎は黙って続きを待った。
「六口のうち五口で徳蔵さんが来ていた。そう出たとき、徳蔵さんに目が行きました。もちろん、腕のいい職人ほど難しい仕事を頼まれるのですから、重なりやすいのは当たり前だと承知していたつもりです。でも――」
綾乃は照合表の端を指で叩いた。
「爺やが裏口の番をするのは、暮れ六つまでです。頼み書きも工賃の控えも、店が頼んだ昼の仕事しか残りません。新吉さんが荷を運んだのは、店を閉めたあとです。夜に誰が入り、誰がいたのかは、どの帳面にも書いてありません」
「昼に来ていたから細工した、とは言えない」
「来ていなかったから細工していない、とも言えません。桔梗院さんの日に、徳蔵さんが本当に関わっていないのかどうかは、この帳面では分かりません。錺師のほうかもしれないし、どちらでもないのかもしれない」
それから綾乃は、照合表のもう半分――苦情の出ていない十二口の欄に目を移した。
「こちらも同じです。苦情が出ていないのは、中身が無事だという証ではありません。上等の香木は、焚いてみて初めて質の分かるものがあります。贈り物にされた品なら、箱のまま先方の蔵に眠っていることもある。気づかれていないだけかもしれません」
「十二口のうち徳蔵と重なったのが四口、という数も、そのまま比べるわけにはいかないか」
「比べられるのは、昼の仕事の割り振りだけです。細工の数ではありません」
言い切ってから、綾乃はわずかに口元を引き結んだ。
「帳面は嘘をつきません。でも、書いてあることしか言わない。……分かっていたはずなのですけれど」
「だが、昼の記録をここまで揃えていなかったら、桔梗院の一口が浮くこともなかった」
恒一郎がそう言うと、綾乃は一瞬だけ恒一郎を見た。礼を言うでもなく、照れるでもなく、ただ小さく頷いて、照合表を畳んだ。
「返ってきた箱を見ますか」
「ああ。桔梗院と藤乃屋、二つとも」
◇ ◇ ◇
戻ってきた四口の箱は、内蔵の奥、綾乃が鍵を預かる棚に納められていた。
綾乃が二つの桐箱を下ろし、筵の上に並べる。どちらの封紙も、先方で中を確かめたときに切られていた。
「受け取ったときには、封にも印にも障りはなかった。どちらの先方も、そう申しています」
「ああ。そこは前に確かめた通りだ」
封が無傷だったのに、中身は変わっていた。だからこそ、見るべきは封ではない。
恒一郎は桔梗院の箱の前に膝をつき、箱をそっと傾けて底を見た。
底板と胴の継ぎ目に目を凝らす。意識を向けると、木の表情が一段深く見えてくる。
以前にも見た痕だった。継ぎ目の際に、一度刃を入れて底板を外し、また嵌め直した跡がある。膠は古いものの上に新しいものが薄く重なり、木口の削り面がほんのわずかに新しい。胴の板の一か所にも、同じような痕があった。
蓋を少し持ち上げると、中の香木の香りが立った。上等な沈香の深い甘さの奥に、それとは別の、若く平たい香りが混じっている。
恒一郎は藤乃屋の箱も同じように確かめた。
「どちらも同じ細工だ」
「同じ、というのは」
「刃の入れ方も、膠の重ね方も、外す場所の選び方も同じだ。同じやり方で開けて、同じやり方で閉じている」
恒一郎は箱を元に戻した。
「ただ、やり方が同じだからといって、同じ人間の手だとまでは言えない。誰が、いつ開けたのかも、箱は言わない」
「昼に徳蔵さんが来ていた日の荷にも、来ていなかった日の荷にも、同じ細工……」
綾乃は二つの箱を見比べた。
「なら、職人がいつ店に来ていたかは、細工ができたかどうかとは関係がない、ということになりますね」
「関係がないとまでは言えないが、決め手にはならない。この細工をするには、二つのものがいる」
恒一郎は桔梗院の箱の底を指した。
「一つは腕だ。封を破らずに底を外して、気づかれないように戻せる腕。これは誰にでもできることじゃない。徳蔵のような職人なら、できるかもしれない」
「もう一つは」
「封をした荷を、人目の少ない夜に、作業場へ運び込めることだ」
綾乃の視線が、箱から恒一郎へ移った。
「腕のある職人なら、この町に何人もいるだろう。だが、どれほど腕があっても、外の職人が一人で白峰屋の荷を動かすのは難しい。出荷場の棚から狙った荷を選んで作業場へ運ばせるには、店の中で指図できる者が必要になる」
「……ええ」
綾乃は少し考えてから、言葉を継いだ。
「それに、選ばれた荷の頃合いがよすぎます。封をした荷は、封が切れていなければ量り直しません。出荷の朝に確かめるのは、封と印と荷札だけです。翌朝に出す荷なら、夜のうちに戻しておけば、誰も中を見ないまま店を出ていきます」
「中身を確かめ直さない荷が、人目のない夜に動かされていたわけだ」
「店の決まりを知っている者なら、そこを選びます」
綾乃の声は静かだったが、硬かった。
「荷の行き来を日々差配しているのは、久七です」
「久七が荷を動かせと指図したこと自体は、おかしくない。中番頭の仕事だ」
恒一郎は立ち上がり、膝の埃を払った。
「ただ、一つずつなら説明のつくことが、重なりすぎている。封の済んだ翌朝出しの荷を一つ選んで、夜に作業場へ運ばせた。運んだ新吉には、何のためかを話していない。久七自身の懐から、新吉に金が渡っている。新吉が運んだと覚えている荷が二つとも、実際に苦情の出た荷だった。そしてその箱には、同じ細工の跡がある」
綾乃は黙って聞いていた。
「だから、久七が盗んだとは言わない。まだ言えない。言えるのは、あの指図が何のためだったのかを確かめなきゃならない、ということだ」
「箱に細工できた人だけを探しても、足りない」
「ああ。細工ができる場を作った者を見なきゃ、仕組みは見えない」
◇ ◇ ◇
納戸に戻ると、綾乃は畳んだ照合表を文机に置き、しばらくそれに手を添えていた。
「一つ、申し上げておきます」
「聞こう」
「中番頭が、封をした荷を手直しのために作業場へ回させる。それ自体は、私でも指図します。得意先から箱の傷や反りを言われれば、出荷の前の晩に直させることもあります。夜の作業は珍しくありません。久七がいつもの仕事をしていただけ、ということも十分にありえます」
恒一郎はすぐに頷いた。
「ある。だから、いつもの仕事として説明できるところと、できないところを分けたい。いつもの仕事なら、確かめる手立てがあるかもしれない」
綾乃の目が、わずかに細くなった。
「……外の職人に手直しを頼めば、頼み書きがあります。使えば工賃が出ます。得意先の申し付けなら、注文控えに一筆入っているはずです。膠や当て木を倉から出したなら、払い出しの覚えに残ることもあります」
そこまで言って、綾乃は自分で首を振った。
「ただ、店の者が手すきに直しただけなら、頼み書きも工賃も出ません。見つからないからといって、それだけで不正とは申せません」
「それでいい。見つかれば、久七の指図に一つ説明がつく。見つからなければ、あの晩に誰が何を直すことになっていたのか、普段の段取りと照らし合わせればいい。それも、久七に気取られない形で」
「店の者に、それとなく段取りを聞くくらいなら、私にもできます」
綾乃は短く息をついた。
「理にかなっています。藤乃屋さんと桔梗院さんの荷、それに残りの四口について、手直しの跡が帳面のどこかにないか、洗います」
「頼む。帳面のことは、俺よりおまえのほうがずっと確かだ」
「承知しています」
即座に返ってきたその言葉に、恒一郎は小さく笑った。綾乃は笑わなかったが、嫌な顔もしなかった。
「もう一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「新吉は、久七から個人で金をもらっている。酒代くらいの額だそうだ。久七は、そういうことをする人か」
「しません」
答えは早かった。
「あの人は、一文の無駄も嫌います。小僧に駄賃を出すのでさえ、帳場を通せと言うくらいです。私が勘定を任されるより前から、ずっとそうでした」
そこまで言って、綾乃の言葉が途切れた。
照合表に添えていた指が、紙の端で止まっている。
「……店の仕事なら、店の銭で払えばいいはずです」
独り言のような声だった。
恒一郎は何も言わなかった。
障子の向こう、表のほうから、久七の声が聞こえてきた。荷受けの数を手代に読み上げさせ、一つずつ確かめている。落ち着いた、よく通る声だった。
綾乃はそちらへ顔を向けた。
「久七は、この店で二十年近く――」
言いかけて、口を閉じる。
しばらくして、綾乃は照合表を帳面のあいだに挟み、静かに閉じた。
「明日までに、控えを洗います」
声はいつもと変わらなかった。
ただ、帳面を閉じた手は、表から久七の声が聞こえなくなるまで、表紙の上から離れなかった。




