第51話 自分の言葉で
夕暮れの水守神社は静かだった。
祭りの賑わいは、すっかり遠のいていた。参道の石畳には落ち葉が少し溜まり、社殿の屋根の向こうでは、空が橙から薄紫へ変わりはじめている。
小夜は竹箒を手に、手水舎の脇を掃いていた。
ふと顔を上げると、先ほど参拝していた若い男が、まだ拝殿の前に立っていた。
身なりは商家の奉公人のものだ。きちんと畳んだ前掛けを腰に挟み、背筋も伸びている。仕事帰りに立ち寄ったのだろう。
男はすでに手を合わせ、頭を下げ終えている。それなのに帰ろうとせず、賽銭箱の前から二歩ほど下がった場所で、社殿の奥をぼんやりと見ていた。
夕刻に一人で拝んでいく人は珍しくない。ただ、拝み終えてから何をするでもなく立ち尽くしている人は、あまりいなかった。
小夜は少し迷ってから、箒を立てかけて歩み寄った。
「あの……何か、お困りですか」
男は、はっとしたように振り向いた。
「もうすぐ日が落ちますから、少し気になりまして」
「あ……すみません。長居をしてしまって」
「いいえ。お参りの方に長居も何もありませんから」
男は小さく頭を下げた。だが、それでもまだ足は動かない。
何か言おうとして、やめる。それを二度ほど繰り返してから、男はぽつりと口を開いた。
「……悪いことをした人間が、神様にお願いをしてもいいんでしょうか」
小夜はすぐには答えなかった。
慰めるだけなら簡単だ。神様はどなたの願いも聞いてくださいます。そう言えば、この人は少し楽になるかもしれない。
けれど、それは本当のことだろうか。
「それは……何をお願いするかによると思います」
男の目がわずかに見開かれた。
「たとえば、悪いことをなかったことにしてください、というお願いでしたら、私はあまり聞いていただけない気がします」
「……ですよね」
「でも、どうしたらいいか分からないから見ていてください、というお願いでしたら」
小夜は社殿のほうへ目を向けた。
「それは、きっと誰がしてもいいお願いだと思います」
男はしばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐いた。笑ったようにも、肩の力が抜けたようにも見えた。
「自分が何をお願いしたのか、自分でもよく分からないんです」
「そうですか」
「……あの。不躾なのは承知しています。少しだけ、話を聞いていただけませんか。誰かに聞いてもらえたら、自分の中で整理がつくかもしれなくて」
小夜は男の顔を見た。
困ってはいる。けれど、すがりつくような目ではない。自分で考えようとしている人の目だった。
「はい。私でよろしければ」
拝殿の脇にある腰掛けに、二人は少し間をあけて座った。
男は白峰屋の手代で、新吉と名乗った。小夜も名を告げると、新吉は律儀にもう一度頭を下げた。
「白峰屋さんというと、香木を扱っていらっしゃる」
「はい。ご存じでしたか」
「お名前だけは」
新吉は膝の上で両手を組み、言葉を探すように指先を動かした。
「お店で、ちょっと面倒なことが起きていまして。詳しいことは……すみません、俺の口から勝手に話していいものか分からないので、言えないんですが」
「はい。無理にお聞きするつもりはありません」
「その件に、俺も関わってたんです。たぶん」
「たぶん、ですか」
「それが、自分でもはっきりしなくて」
新吉は少し間を置いた。
「上の人に言われて、夜に荷を運んだことがあるんです。封をしてある箱を、店の作業場まで。三度か四度」
「夜に、ですか」
「夜の仕事自体は、うちの店でもあるんです。封を済ませた荷を、箱の手直しで作業場へ戻すこともあります。ただ、それを何度も、となると、どうにも気になって。何をするんですかって訊いたんですが、いいから運べと言われて」
「それで、運んだのですね」
「はい。しかも、あとからお金まで渡されて……。お店からじゃなく、その人から。酒代くらいの、本当に少しです。二度か、三度」
言い終えたとき、新吉の指先には力がこもっていた。
「箱の中で何があったのかは知りません。誰が何をしたのかも、知らないんです。それは本当です」
「……はい」
「でも、知らなかったから俺は悪くないって、言い切っていいんでしょうか」
新吉は自分の手を見下ろしていた。
「途中から、おかしいと思ってたんです。それなのに、言われたとおりに運んで、お金まで受け取って、次に言われたときもまた運んだ。断ろうと思えば、断れたのかもしれない。でも、ずっとお世話になってきた上の人ですし、店で言われたことに逆らうなんて、考えたこともなくて」
そこで言葉が途切れた。
しばらくして、新吉は小さな声で付け足した。
「何も知らなかったって言うのは、簡単なんです。半分は本当ですから。でも、残りの半分は……おかしいと思いながら、見ないようにしてたんだと思います」
夕風が境内を抜けていった。社殿の脇の木が、かさりと葉を鳴らした。
小夜はすぐには何も言わなかった。
この人が欲しいのは、許しの言葉ではない。かといって、責める言葉を探しているわけでもない。
自分がどこに立っているのか、分からなくなっているのだ。
「新吉さん」
「はい」
「新吉さんは、これからどうしたいのですか」
新吉が顔を上げた。
思いがけないことを訊かれた、という顔だった。
「これから、ですか」
「はい。今のお話は、全部これまでのことでした。何を知らなかったか、何をしてしまったか。それはとても大事なことだと思います。でも」
小夜は言葉を選びながら続けた。
「どれだけ悔やんでも、これまでのことはもう変えられません。変えられるのは、これからのことだけです」
新吉は口を開きかけ、そのまま閉じた。
答えはすぐには出ないようだった。小夜は急かさず、隣で待った。参道の灯籠に、誰かが火を入れていくのが遠くに見えた。
「……分からないんです」
ずいぶん経ってから、新吉はそう言った。
「どうしたいのか、自分でも」
「そうですか」
「お前は悪くないと言ってほしいのかもしれない。いや、違うな。言われたら、たぶん余計に苦しくなる気がします」
小夜は小さく頷いた。
「私も、新吉さんが悪くないとは言えません」
新吉の肩がわずかにこわばった。
「知らなかったことまで、新吉さんが責任を負う必要はないと思います。箱の中で何があったのか、新吉さんはご存じなかった。それを、知っていたかのように背負うことはありません」
「……はい」
「でも、ご自分がしたことまで、なかったことにはできません。おかしいと思いながら運んだこと。お金を受け取ったこと。それは新吉さんがしたことです」
厳しい言葉だった。小夜自身、口にしながらそう思った。
けれど新吉は、目を逸らさなかった。むしろ、どこかほっとしたような顔をしていた。
「……そうですよね」
「ですから、分けて考えてみませんか」
「分けて?」
「何を知っていたのか。何を知らなかったのか。何をしたのか。それから、これからどうしたいのか。全部がひとつに混ざっていると、どこから手をつければいいのか分からなくなってしまいます」
新吉は黙り込んだ。考えているのが、組んだ指の動きから分かった。
「知っていたのは……いつもの仕事とは何か違うってことです。封を済ませた荷を何度も戻すのに、何をするのか教えてもらえなかった。それに、仕事のはずなのに、別にお金を渡された」
「はい」
「知らなかったのは、箱の中のこと。したのは、運んだことと、お金を受け取ったこと」
「はい」
「それで、これから……」
言葉がそこで止まった。
新吉は息をひとつ吸い、少しためらってから口を開いた。
「実は、その件を調べてくださっている方がいるんです。夜に荷を運んだことも、お金を受け取ったことも、もうお話ししてあります。今日もお店でお会いしたんですが……」
「はい」
「そのとき、前に話したことに嘘はないけど、まだうまく言えないことがあるって、言いかけたんです。でも、言葉にならなくて。考える時間をくださいって、こっちから頼んでしまって」
新吉は苦く笑った。
「その方が怖かったわけじゃないんです。むしろ、ちゃんと聞いてくださる方でした。今ここで聞こうかって言ってくださって。それなのに、俺のほうが、何を言えばいいのか分からなくなってしまって」
「その方は、なんと?」
「話せるようになったら声をかけてくれ、と。待っていてくださるそうです」
小夜は胸の内で、少しだけその人物に感心した。急かさずに待つというのは、簡単なようでいて難しい。
「志堂様という方なんですが」
小夜の目が丸くなった。
「……志堂様。志堂、恒一郎様ですか」
「え。ご存じなんですか」
「はい。とても、よく存じ上げています」
思わず声に力が入ってしまい、小夜は少し頬を熱くした。
近頃、恒一郎がどこかの店の相談に乗っているらしいことは知っていた。けれど、それが白峰屋で、しかもこの人がそこに関わっていたとは、まったく思っていなかった。
何が起きているのか、小夜には分からない。新吉の話から分かるのは、ほんの端だけだ。
それでも、ひとつだけははっきりしていた。
「恒一郎様が、聞くとおっしゃったのですね」
「はい」
「でしたら、もう一度お話ししてみませんか」
新吉は目を伏せた。
「でも、何から話せばいいのか……。また同じように、言葉が出てこなかったらと思うと」
「分からないことは、分からないとお伝えすればいいと思います。覚えていることだけ、ご自分の言葉で」
「ご自分の言葉で……」
「上手に話そうとしなくていいんです。新吉さんが、さっき私に話してくださったように」
――私から、恒一郎様にお伝えしましょうか。
喉元まで出かかった言葉を、小夜は飲み込んだ。
人に頼ることと、代わりに背負わせることは違う。それを教えてくれたのは、恒一郎だった。
「恒一郎様が必ず許してくださるとは、私には言えません。新吉さんのお話をどう受け止めるかは、恒一郎様がお決めになることですから」
「……はい」
「でも、恒一郎様は、きちんとお話を聞いてくださる方です。それは、私もよく知っています」
空の色が、ずいぶん濃くなっていた。
社殿の軒先に、宵の気配が降りてくる。参道の向こうで鳥が一羽、ねぐらへ帰っていった。
新吉は長いあいだ、自分の膝を見つめていた。
小夜は何も言わなかった。言うべきことは言った。あとは、新吉が決めることだ。
やがて、新吉がゆっくりと顔を上げた。
「……もう一度、志堂様に話します」
「はい」
「自分がしたことも、分からないことも。きちんと話そうと思います」
声はまだ少し震えていた。迷いが消えたわけではないのだろう。
それでも、さっきまでとは目が違っていた。
「明日まで待つと、また言えなくなる気がします。だから、今日のうちに」
小夜は小さく微笑んだ。
「恒一郎様のお家でしたら、私が知っています。神社の片付けが少し残っていますので、それが済んだらご一緒しましょうか」
「いえ、そこまでしていただくわけには」
「私もご一緒します。でも、お話しするのは新吉さんご自身ですよ」
新吉は一瞬きょとんとしてから、ゆっくり頷いた。
「……はい。それは、俺が話します」
「はい」
「道案内だけ、お願いします」
その言い方が妙に律儀で、小夜はくすりと笑った。新吉もつられたように、少しだけ口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
小夜が箒を片付け、社務所の戸締まりを確かめるあいだ、新吉は鳥居のそばで待っていた。
小夜が戻ってきたとき、新吉はもう一度だけ社殿のほうを振り返り、黙って頭を下げた。何を願ったのかは、小夜には分からない。けれど、さっきとは違う願いのような気がした。
二人は灯りのともりはじめた町を歩いた。
道中、新吉はほとんど口をきかなかった。ときおり小さく唇が動くのは、話すことを頭の中でなぞっているのだろう。小夜は横から口を出さず、ただ歩調を合わせた。
恒一郎の家の前に着くと、表の腰高障子に灯りが映っていた。
「恒一郎様。小夜です」
声をかけると、すぐに中で人の動く気配がした。土間に下りる足音がして、障子戸が開く。
「小夜か。今日は遅く――」
言いかけて、恒一郎は小夜の後ろに立つ新吉に気づいた。わずかに眉が上がる。
「……新吉さん?」
「夜分に、申し訳ありません」
新吉が深く頭を下げた。
恒一郎は小夜と新吉を交互に見た。どういう組み合わせなのか、すぐには読めなかったのだろう。
「新吉さんが、夕方に神社へお参りにいらしたんです」
小夜は、それだけを言った。
「そこで少しお話をしました。恒一郎様にお話ししたいことがあるそうです」
それ以上は続けなかった。続けるのは、自分の役目ではない。
恒一郎は一拍おいて小夜を見た。小夜が小さく頷き返すと、恒一郎の表情がふっと和らいだ。
「そうか。とにかく上がってくれ。外は冷える」
土間で草履を脱ぎ、二人は表座敷に上がった。行灯の灯りが、畳の上に柔らかな輪を作っている。文机の上には、恒一郎が広げていたらしい紙が何枚か載っていた。恒一郎はそれを手早くまとめて脇に寄せた。
土間の竈には、鉄瓶がかかったままになっていた。小夜は勝手知ったる様子で土間へ下り、湯がまだ熱いのを確かめると、手早く茶を淹れた。湯呑みを二つ、恒一郎と新吉の前に置く。
そして、新吉の隣ではなく、少し下がった壁際に腰を下ろした。
恒一郎はその位置をちらりと見たが、何も言わなかった。
新吉は恒一郎の正面に座っていた。膝の上で両手を握りしめ、背筋を伸ばしている。神社で座っていたときと同じ姿勢だった。湯呑みから立つ湯気にも、手を伸ばそうとはしない。
しばらく、誰も口を開かなかった。
恒一郎は急かさなかった。昼間と同じように、ただ待っていた。
やがて新吉が、顔を上げた。
「志堂様。前にお話ししたことに、嘘はありません」
「ああ」
短い返事だった。責める響きも、身構える響きもない。
新吉はその声を聞いて、一度だけ小さく息を吸った。
壁際の小夜を振り返ることはしなかった。
「でも……俺が何をおかしいと思ったのか。おかしいと思いながら、どうして運ぶのをやめなかったのか。そこを、まだちゃんとお話しできていませんでした」
恒一郎は黙って頷いた。
「聞こう」
行灯の火が、かすかに揺れる。
新吉は握っていた手をほどき、膝の上に置いた。
「うまく話せるかは分かりません。分からないことは、分からないと言います。でも、今度は――自分の言葉で話します」
そうして新吉は、ゆっくりと語りはじめた。




