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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第三章 大店で、帳面にないものを見る

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第50話「重なる日」

暖簾をくぐると、乾いた木の匂いがした。


間口二間ほどの小さな店だった。棚には線香や匂い袋、扇子に櫛といった小間物が並んでいて、香木はその奥の一段にまとめて置かれている。華やかな店ではない。ただ、掃除が行き届いていて、品物の並べ方にも無理がなかった。


「いらっしゃいまし」


帳場から立ち上がったのは、四十前後の男だった。中肉中背で、髷はきちんと結われている。愛想はいいが、へつらう感じはない。


「香木を少し見せてもらいたいんだが」


「へえ、どのようなものをお探しで」


「客をもてなす席で焚く。安すぎるのは困るが、見栄を張りすぎるつもりもない」


恒一郎がそう言うと、男は小さく笑った。


「正直なお客さまは助かります。手前は伊之助と申します。どうぞ、こちらへ」


伊之助は奥の棚から、紙に包んだ香木をいくつか取り出して板の上に並べた。


恒一郎はまず、棚そのものを見た。


香木を置く一段のうち、手前の半分は板が古く、日に焼けて色が沈んでいる。奥の半分は板の色が明るく、角もまだ削れていない。最近になって棚を足したのだろう。古い側に並ぶのは、町の者が手を出しやすい値の沈香《じんこう》ばかりだった。新しい側にある包みは数こそ少ないが、紙の質が一段いい。


「こちらが手頃なところで、こちらは少し値が張ります」


伊之助が新しい棚の包みを開いた。


黒褐色の小片が三つ。どれも親指の先ほどの大きさだった。恒一郎は手に取らず、顔を近づけて香りだけを確かめた。


木目の詰まり方、脂の乗り方、断面の色。上等な品だった。少なくとも、この店の古い棚に並んでいる品とは格が違う。


それから、もう一つ気づいた。


三つの小片は、どれも割った面の色がまだ明るい。大きな塊から切り分けられたのは、それほど前ではなさそうだった。


もっとも、誰がどこで割ったのかまでは、木を見ても分からない。


「いい品だな。この店では前から、こういうのを扱っていたのか」


「いえ、恥ずかしながら最近でございます」


伊之助はあっさり認めた。


「手前どもは長いこと、線香や匂い袋が商いの中心でした。けれど、香木は上のものになるほど利が厚い。いつまでも小さく商っていても仕方がないと思いましてね。ひと月半ほど前から、少しずつ上の品も置くようにしております」


朱莉が言っていた時期と合う。


「思いきったな。上の品は仕入れが難しいと聞く」


「ええ、そこが肝心で」


伊之助は包みを丁寧に畳み直しながら、口元だけで笑った。


「どこから仕入れているかは、ご勘弁を。手前のような小店がようやく掴んだ筋でございますから」


言い方に角はなかった。商人なら誰でもそう答える。仕入れ先を明かせば、明日には大きな店にその筋を持っていかれるかもしれない。


恒一郎は頷いて、それ以上は聞かなかった。


「もっともだ。じゃあ、別のことを聞こう。上の品は、箱のまま入ってくるのか」


「箱で、ですか?」


伊之助は少し考えるように首をかしげた。


「いえ、手前どもに入ってくるのは、たいていこういう小さな包みでございます。箱入りの大物を仕入れたところで、手前どもの店ではそうそう売れません。はじめから小さく分けたものを回してもらうほうが、こちらも身の丈に合っておりますので」


恒一郎は店の中をもう一度ゆっくり見回した。


帳場の脇に空き箱がいくつか重ねてあるが、どれも安い杉の箱で、封紙を剥がした跡もない。奥の暖簾の隙間から見える荷も、俵と行李がほとんどだった。少なくとも店先から見える範囲には、白峰屋の箱も、あの店の印に似たものもない。暖簾のさらに奥や蔵までは、ここからは見えない。


ついでに伊之助の顔も見た。


目の動きにも、指先にも、こちらを警戒する気配はなかった。むしろ、いい客が来たと素直に喜んでいる。上等な品を扱い始めたことが、本人にとっては誇らしいのだろう。


それだけで、何かが分かるわけではない。後ろ暗いところがない人間も、慣れきって何も感じなくなった人間も、外から見れば同じように落ち着いて見える。


「これを一つもらおう」


恒一郎は三つのうち、いちばん割り口の新しいものを指した。


「ありがとう存じます。お目が高い」


伊之助は小片を店の名入りの紙で包み直し、代金を受け取ると、深々と頭を下げた。


「またお越しくださいまし。そのうち、もっとよい品もそろえるつもりでおりますので」


「楽しみにしておく」


暖簾を出て、恒一郎は懐の包みに軽く触れた。


伊之助が香木の商いに手を広げたこと。上の品を置き始めたのが、ひと月半ほど前からだということ。朱莉から聞いた話のうち、そこまでは本人の口から確かめられた。


その品がどこから来て、伊之助の懐の金がどこから出ているのかは、恒一郎にはまだ分からない。


 ◇ ◇ ◇


白峰屋の奥座敷では、綾乃が帳面を広げていた。


深い藍の着物に、長い黒髪を半分だけ結い上げている。女中に案内されて恒一郎が入ってきても筆を置かず、区切りのいいところまで書き終えてから顔を上げた。


「志堂さま。今日はお見えにならないかと思っておりました」


「少し寄り道をしていた。伊之助という商人の店を見てきたんだ。名前に覚えはあるか」


綾乃は少し考えてから、首を横に振った。


「存じません。うちの得意先にも、仕入れの筋にもいない名前です」


「香木を扱っている。上等な品を置き始めたのは、ひと月半ほど前からだそうだ。それと、近頃になって金の使い方が急に変わったと聞いた」


恒一郎は懐から包みを出して、綾乃の前に置いた。


綾乃は紙を開き、小片を指でつまんで光にかざした。香りを確かめ、断面を見て、それから元の紙に戻す。手つきに迷いがなかった。


「よい品です。うちで扱うものと比べても、見劣りはしません」


「白峰屋の品かどうかは分かるか」


「これだけでは無理です」


綾乃は即答した。


「同じ産地のよい沈香なら、うちの品と区別がつかないことはいくらでもあります。割ってしまえばなおさらです」


「だろうな。俺もそう思って買った」


「では、なぜ買われたのです」


「手ぶらで帰るのも愛想がないだろう。それに、あとで役に立つかもしれない」


綾乃はわずかに目を細めたが、何も言わずに包みを脇へ寄せた。


「念のため申し上げておきますが」


そう前置きしてから、綾乃は恒一郎をまっすぐ見た。


「小さな店が新しい仕入れ先を掴んで、思いきって上の品を置き始める。それ自体は珍しいことではありません。商いが上向けば、金遣いも変わります。その方が盗品を扱っていると考えるのは、まだ早いと思います」


「同感だ」


恒一郎があっさり頷いたので、綾乃は少し意外そうな顔をした。


「伊之助を疑って行ったわけじゃない。どういう商いをしているのかを見に行っただけだ。本人の話では、品は仕入れのときから小分けで入ってくるらしい。それから、店先から見える範囲には、白峰屋の箱はなかった」


「見える範囲には、ですか」


「奥や蔵までは覗いていない」


「でしたら、それだけでは何とも言えませんね。別の場所に置いているのかもしれませんし、とうに捨てたのかもしれません」


「その通りだ。だから、こっちの記録で確かめたい。問題の箱が、本当に決まった先へ届いていたかどうか」


綾乃はすぐに立ち上がり、棚から一冊の帳面と、紐で綴じた書付の束を持ってきた。


「出荷の控えと、得意先からの苦情の書付です。問題があった品は六口。いずれも控えの通りの日に、控えの通りの得意先へ届いて、受け取りの印も先方からもらっています」


「数と日付が合うだけなら、途中で似た箱とすり替えることもできる」


「ええ。ですから、それだけで言っているのではありません」


綾乃は苦情の書付を一枚ずつ示していった。


「どの得意先も、受け取ったときに封紙が無傷だったことを確かめています。うちの品は高いので、先方も封を切る前に必ず見るんです。そのうえで封を切って、中身が違うと分かった。そこで箱ごとこちらへ戻していただいたのが四口です」


綾乃は座敷の隅に置かれた箱の一つに目をやった。


「戻ってきた四口の封紙は、私が自分で見ました。紙もうちのもの、印もうちのものです。うちの印には、角に小さな欠けがあります。戻ってきた封紙の印にも、同じ欠けがありました」


「残りの二口は」


「先方が箱を手元に置いておられるので、使いの者が見に行きました。封紙と印に怪しいところはなかったと聞いています」


恒一郎は、戻ってきた問題品の箱の一つを引き寄せた。


底を返す。以前に恒一郎が見つけた細工の痕は、知っていなければ分からないほど目立たない。底板と胴の継ぎ目が、ほんのわずかに一度外され、また嵌め直されている。


「封紙も印も白峰屋のものに見える。出荷の控えとも合う。得意先が受け取ったときには封は無傷だった。そして、その箱の底には細工の痕がある」


恒一郎は箱の底を指でなぞった。


「すり替えるつもりなら、似た箱も封紙も印も、全部そろえなきゃならない。その手間をかけたうえで、わざわざ底をいじる理由がない。それよりは、白峰屋で封をした元の箱の底を開けて、中身に手を入れたと考えるほうが筋が通る」


「ええ」


「つまり、箱ごと盗んだわけじゃない。上等な香木の一部を底から抜いて、代わりに劣る品を詰めて、箱は元通りに送り出させた。抜いた分は、別の形で持ち出したんだろう」


綾乃は箱の底を見つめた。


「箱ごと持ち出せば、出荷の数が合わなくなります。数が合わなければ、私がその日のうちに気づきます」


自分を誇る口ぶりではなかった。当たり前のことを言っているだけの声だった。


「だから、帳面は合っている」


恒一郎が言うと、綾乃は小さく息を吐いた。


「帳面が合っていたから、私は最初、運ぶ途中か、先方で何かあったのだと思っていました。うちの中で起きているとは考えなかった」


「今は違うだろう」


「今は違います」


綾乃ははっきり答えた。


「抜いた中身は小さく分ければ、袂でも道具箱でも持ち出せます。伊之助さんの店にあったのが小分けの品ばかりだった、というのも、それと矛盾はしません。もちろん、それで何かが決まるわけではありませんけれど」


「そうだな。矛盾しない、というだけだ」


恒一郎は箱を元の向きに戻した。


「問題は、この細工ができる人間だ。底板を外して、また嵌め直して、受け取った得意先にも気づかせない。素人の手じゃない」


「箱職人ですね」


綾乃の声の調子が、そこで少し変わった。


「そのことで、お見せしたいものがあります」


 ◇ ◇ ◇


綾乃が広げたのは、帳面ではなかった。


大きさも紙質もばらばらの書付が、日付順に何枚も並べられている。作業場への仕事の頼み書き、職人に払った工賃の控え、裏口の番をしている爺やが日ごとにつけている出入りの覚え。中には、端が茶色く染みた紙もあった。


「うちでは、どの荷をいつ誰が補修したかまでは、帳面に書きません」


綾乃は紙の端をそろえながら言った。


「ですが、外の職人に仕事を頼めば頼み書きが残ります。工賃を払えば控えが残ります。裏口から入れば、爺やが名前を書きつけます。一つひとつは別々の紙ですが、日付で並べれば、どの日に誰が作業場にいたかはおおよそ分かります」


「これを、全部集めたのか」


「この数日、手の空いたときに少しずつ。爺やの覚えは字が読みにくくて、そこがいちばん手間でした」


綾乃はさらりと言ったが、指先には墨の跡がついていた。


「問題のあった六口について、それぞれ荷造りや箱の手直しをした日を調べました。そして、その日に作業場へ出入りしていた職人を拾い出しました」


綾乃は一枚の紙を恒一郎の前へ滑らせた。綾乃自身の字で、日付と荷の印、その横に職人の名前が整然と書き写されている。


恒一郎は目を走らせた。


いくつかの名前が出てくる。その中で、一つの名前だけが何度も繰り返されていた。


「徳蔵」


「外の箱職人です。四十半ばで、五年ほど前からうちの仕事を受けています。腕は確かです。ほかの職人が嫌がるような箱の補修も、徳蔵さんに頼めばまず間違いがありません」


綾乃は紙の上を指でなぞった。


「六口のうち五口で、作業の日に徳蔵さんが出入りしています」


恒一郎はしばらく紙を見ていた。それから顔を上げた。


「徳蔵は、普段から白峰屋の仕事を多く受けているんじゃないか。腕がいいなら、なおさらだ」


「ええ。ですから、そこも調べました」


綾乃は待っていたように、もう一枚の紙を出した。


「同じ頃に出した同じ格の香木で、苦情の来ていないものが十二口あります。同じやり方で、作業の日の出入りを拾いました」


指が紙の下のほうで止まる。


「十二口のうち、徳蔵さんがいた日に重なるのは四口です」


六口のうち五口と、十二口のうち四口。


並べて見れば、誰にでも違いは分かる。


「徳蔵さんの仕事が多いのは本当です。でも、それだけなら、問題のない品でももっと重なるはずです。問題の品のときにだけ、徳蔵さんがいる日が多すぎるんです」


綾乃の声は落ち着いていた。その奥に、手応えを掴んだ人間らしい張りがあった。


恒一郎は二枚の紙を並べ、もう一度見比べた。頼み書きの日付、工賃の控えの額、爺やの覚えのかすれた字。綾乃が書き写したものと元の紙を照らし合わせても、一つも食い違いがない。


それから、もう一つだけ確かめた。


「ここに残っているのは、昼の仕事だな」


「はい」


綾乃は頷いた。


「頼み書きも工賃の控えも、昼の正規の作業についてのものです。爺やの覚えも、夕刻に裏口を閉めるまでしかつけていません。新吉が封をした荷を作業場へ運んだのは、夜です」


先回りされた形になって、恒一郎は思わず口元をゆるめた。


「つまり、昼に徳蔵がいたことと、夜に誰かが箱の底を外したことは、別の話だ」


「分かっています。徳蔵さんが難しい荷ばかり任されていたから重なった、ということもあり得ます。問題の品は上の格の香木ですから、箱も上等で、手直しを徳蔵さんに回すことが多かったのかもしれません」


綾乃はそこで一度言葉を切り、紙の上に手を置いた。


「それでも、この偏りは放っておけません。調べて何も出なければ、徳蔵さんへの疑いを見直す材料になります。調べずに置いておくほうが、徳蔵さんにも店にもよくないと思います」


恒一郎は紙から目を離して、綾乃を見た。


店の仕事の合間に、ばらばらの紙を拾い集め、読みにくい字を読み、同じ手間をもう十二口ぶん重ねた。そうやって出した偏りなのに、そこから先へ飛びつかない。疑う理由と、疑いきれない理由を、同じ重さで手元に置いている。


「大したもんだ」


恒一郎は素直に言った。


「俺は箱の底を見て、細工ができる人間を探そうと思った。だが、どこから手をつけるかまではまだ決めていなかった。これで、どこを見ればいいかが分かった」


綾乃は一瞬、何か言い返しかけた。が、結局はふっと目元をゆるめた。


いつもの、商いの席で見せる隙のない表情ではなかった。


「帳面は合っていました。合っていたから、私はしばらく何も見ていなかったんです」


綾乃は散らばった紙を指先でそろえた。


「でも、帳面に載っていない紙にも、ちゃんと日付はついていました。商いの紙は、拾い方さえ間違えなければ、たいていのことを覚えています」


「拾い方を知ってる人間が、そうそういるとは思えないけどな」


「褒めても値引きはいたしませんよ」


「値切ったつもりはない」


綾乃は今度こそ、小さく声を立てて笑った。


 ◇ ◇ ◇


日が傾いて、座敷の障子が橙色に染まり始めていた。


恒一郎は、伊之助の店で買った包みと、綾乃が書き写した二枚の紙を並べて置いた。


「香木を売る商人と、箱を扱う職人か」


「伊之助さんと、徳蔵さん」


綾乃が言葉を引き取った。


「伊之助は、ひと月半ほど前から上の品を置き始めた。金の使い方も変わった。仕入れ先は言わない」


「徳蔵さんは外の職人ですが、うちの作業場には堂々と出入りできます。箱の扱いはこの城下でも指折りです。そして、問題の品の作業の日に、何度も名前が出てくる」


並べてしまえば、いかにもつながりそうに見える。けれど、二人が顔見知りだという話すら、今はどこにもない。


「だから、次に調べることは三つだ」


恒一郎は指を一本ずつ折った。


「徳蔵が、問題の荷で具体的に何をしたか。荷造りか、箱の手直しか、それとも別の荷を触っていただけか。二つ目は、新吉が夜に作業場へ運んだ荷と、徳蔵が昼に出入りした日が、どう重なるか。三つ目が、伊之助の仕入れ筋だ」


「一つ目と二つ目は、私がやります」


綾乃は迷わず言った。


「頼み書きには、どの箱の何を直したかまで書いてあるものがあります。書いていないものは、作業場の者に聞けば思い出せるはずです。新吉が運んだ日は、新吉本人に確かめれば日付を絞れます」


「作業場の者に聞くとき、徳蔵の名前は出さないほうがいい」


「承知しています。全部の職人について同じように聞きます。一人だけ名前を出せば、明日には店中に噂が広まりますから」


恒一郎は頷いた。言う前から、綾乃のほうがその先まで考えている。


「伊之助のほうは俺が見る。ただ、仕入れ先を正面から聞いても答えるはずがない」


「答えないのが当たり前です。私でも答えません」


綾乃は伊之助の店の包みに目をやった。


「小さな店が上の品を仕入れるなら、どこかで必ず金が動きます。品が回る道もあります。香木の商いの筋は、それほど多くありません」


そう言いかけて、綾乃は言葉を止めた。何かを考え込むように、包みの紙の端を指でなぞる。


「何か気になるか」


「いえ。まだ形になっていません。形になったら申し上げます」


恒一郎はそれ以上聞かなかった。綾乃が「まだ」と言うなら、本当にまだなのだ。


「それにしても」


綾乃が顔を上げた。


「伊之助さんの話は、どこでお聞きになったのです。金遣いが変わったなどということは、商いの噂話ではなかなか出てきません」


「花街で耳にした」


「花街で」


綾乃は一拍置いてから、何事もなかったように帳面を閉じた。


「人の金遣いをよく見ている方がいらっしゃるのですね」


「ああ。俺よりずっとよく見てる」


「そうですか」


綾乃はそれ以上何も言わなかった。ただ、閉じた帳面の角を、きっちりと机の縁にそろえた。


 ◇ ◇ ◇


座敷を出ると、廊下はもう薄暗かった。


店の表では、手代たちが雨戸を立て始めている。恒一郎が中庭に面した縁側を通りかかったとき、柱の陰に人影があった。


新吉だった。


若い手代は、恒一郎に気づくとはっとしたように背筋を伸ばした。手には、片づけ途中らしい空の木箱を抱えている。


「志堂さま」


「遅くまでご苦労だな」


「い、いえ」


新吉は頭を下げた。だが、すぐには立ち去らなかった。木箱を抱え直し、口を開きかけて、また閉じる。視線が恒一郎の顔と、奥座敷の障子とのあいだを行き来した。


恒一郎は足を止めた。


「何か、話があるのか」


新吉の肩がわずかに揺れた。


「……あの、いえ」


木箱の縁を握る指に、力がこもる。


「この前お話ししたことに、嘘はありません。ただ、その……自分でも、まだうまく言えないことがあって」


「うまく言えなくてもいい。今ここで聞こうか」


新吉は唇を噛み、少し迷ってから、小さく首を振った。


「申し訳ありません。少しだけ、考えさせてください。言うなら、ちゃんと言いたいんです」


声は震えていたが、逃げるための言い方ではなかった。何をどう言えばいいのか、本人の中でまだ形になっていない。恒一郎の目には、そう見えた。


「分かった。明日、お前が運んだ荷の日付を、お嬢さんが確かめに来るはずだ。そのときでも、その前でもいい。俺でも、お嬢さんでもいい。話せるようになったら声をかけてくれ」


「……はい」


新吉はもう一度深く頭を下げると、木箱を抱えて足早に廊下の奥へ消えていった。


恒一郎はその背中を見送った。


木箱を抱える腕に、必要以上に力が入っていた。


中庭に目をやると、夕暮れの空の下、作業場の戸が閉まっている。


香木を売る商人と、箱を扱う職人。二つの名前は、まだ一本の線にはなっていない。


そして、そのどちらでもないところで、若い手代が一人、言葉にならないものを抱えたまま黙っている。

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