第49話 金の使い方
「せっかく来たのに、まだ仕事の顔してるわね」
朱莉はそう言って、恒一郎の隣へ腰を下ろした。
花街の夜は、もう始まっている。
廊下の向こうから三味線の音が聞こえ、障子の外を人の気配が行き交っていた。
だが、この部屋にはまだ酒も肴も運ばれていない。
「そんな顔してるか?」
「してるわよ」
朱莉は迷いなく答えた。
肩が触れるほど近い。
それでも、どちらも離れなかった。
「私には分かるの」
「便利だな」
「そうでしょう?」
朱莉が笑う。
「会いに来てくれたのは嬉しいけど、頭の半分はどこかに置いてきたみたい」
「半分もか」
「もう少し多いかもしれないわね」
恒一郎は小さく息を吐いた。
「悪い」
「謝ってほしいわけじゃないの」
朱莉が恒一郎の袖を軽く引いた。
「こっち向きなさい」
言われた通りに顔を向ける。
朱莉は恒一郎の顔をしばらく眺め、それから満足したように頷いた。
「やっぱり何かあったでしょう?」
「仕事でな」
「白峰屋?」
「知ってたのか」
「白峰屋に出入りしてるって話くらいは、客から聞いてるわよ」
花街には商人も職人も役人も来る。
酒が入れば、普段なら口にしないことを話す者もいる。
朱莉は何でも聞き出そうとはしない。ただ、人が何を話し、何を話さなかったかをよく覚えていた。
「それで?」
朱莉が聞いた。
「話せることなら聞くわ」
「上等な香木の一部が、質の落ちるものと入れ替わってた」
朱莉の表情から笑みが少し消える。
「店に入った時は上等な品だった。帳面も合ってる。最後に中身を確かめた時も問題はなかったらしい」
「それなのに、出した時には違ったの?」
「ああ」
「嫌なやり方ね」
「そうだな」
恒一郎はそれ以上、箱の細工までは説明しなかった。
今必要なのは、そこではない。
「店の中で、封をした荷を夜に動かしていた奴は見つかった」
「その人が犯人?」
「いや」
恒一郎は首を振った。
「少なくとも、全部知ってるわけじゃない」
「じゃあ、その人の後ろに誰かいる?」
「その可能性は高い」
恒一郎は少し黙った。
「何度もやってるなら、抜いた品はどこかへ流してるはずだ」
朱莉が恒一郎を見る。
「売る相手がいる?」
「ああ」
「なるほどね」
「それで、朱莉に聞きたい」
「なに?」
「最近、ここへ来る客で急に金回りがよくなった奴はいないか?」
「ずいぶん広い聞き方ね」
「前と金の使い方が変わった奴でもいい」
朱莉の目がわずかに細くなった。
「金の使い方……」
すぐには答えなかった。
恒一郎も急かさない。
「急に羽振りがよくなった人なら、何人かいるわよ」
「そうだろうな」
「でも、前と使い方まで変わった人なら……」
朱莉が少し考える。
やがて顔を上げた。
「一人、思い当たるわ」
「誰だ?」
「伊之助って商人」
初めて聞く名だった。
「前からここには来てたのか?」
「ええ。しょっちゅうってほどじゃないけどね」
朱莉は自分の記憶を確かめるように、ゆっくり話した。
「金払いが悪い人じゃなかった。でも、派手に使う人でもなかったのよ」
「どんなふうに?」
朱莉は少し笑った。
「女の前で格好つけたくて、わざわざ高い酒を頼む男なんていくらでもいるでしょう?」
「いるんだろうな」
「伊之助はそういうことをしなかったの」
「それが最近は違うのか」
「ええ」
朱莉が頷く。
「前なら頼まなかったような酒や肴を、惜しげもなく頼むようになったわ」
「一度だけ?」
「いいえ」
朱莉はすぐに否定した。
「だから覚えてるの」
恒一郎はその言葉に目を向けた。
「一度だけなら、商いでも当たったのかと思うでしょう?」
「ああ」
「でも、何度か続いた」
朱莉は指先で膝の上を軽く叩いた。
「金を持ってる人なんて、ここにはいくらでも来るわ。でも伊之助は、金が入ったからって急に派手に使う人じゃなかったのよ」
金を持っているかどうかではない。
その人間らしい使い方をしているかどうか。
朱莉が見ているのは、そこだった。
「いつ頃からだ?」
「そうね……」
朱莉が少し考える。
「ひと月よりは前ね。でも、ふた月は経ってないと思う」
「そのくらいか」
白峰屋で苦情が出始めた時期と、大きくは離れていない。
だが、それだけなら偶然でもあり得る。
「伊之助は何を扱ってる?」
「色々よ。小さな商いをいくつかしてるみたい」
「香木は?」
朱莉が少しだけ首を傾けた。
「そういえば……」
恒一郎は黙って続きを待った。
「最近、香木の商いを始めたようなことを言ってたわね」
「本人が?」
「ええ。私に自慢したっていうより、座敷で誰かと話してたのを聞いただけだけど」
「高いものか?」
「そこまでは知らないわ」
朱莉はあっさり答えた。
「香木を扱ってるってだけ。どこから仕入れてるのかも知らない」
「それで十分だ」
「でも」
朱莉が恒一郎を見る。
「羽振りがよくなっただけなら、商いがうまくいったのかもしれないでしょう?」
「ああ」
「香木を扱い始めたのも、それだけならおかしくないわ」
「その通りだ」
恒一郎は頷いた。
名前が出た。
時期も近い。
香木という共通点もある。
だが、それだけだ。
「だから、確かめる」
朱莉がふっと笑った。
「そう言うと思った」
「知ってたなら聞くな」
「あなたがちゃんとそう言うか確かめたかったの」
「信用がないな」
「逆よ」
朱莉は楽しそうに答えた。
「信用してるからよ」
そこで恒一郎が腰を上げかけると、朱莉の手が袖をつかんだ。
「それで?」
「ん?」
「もう行くの?」
恒一郎は少しだけ動きを止めた。
朱莉は笑っている。
だが、手は離さない。
「伊之助を見に行くなら、明日でいい」
「あら」
「今日はお前に会いに来たんだ」
朱莉の目が少しだけ丸くなった。
すぐに、いつもの余裕のある笑みに戻る。
「それなら、最初からそういう顔してなさい」
「難しい注文だな」
「簡単よ」
朱莉は恒一郎を座り直させると、そのまま肩を寄せた。
「しばらく仕事のことを考えなければいいの」
「できると思うか?」
「できないなら」
朱莉が恒一郎の顔を覗き込む。
「私の方を見てなさい」
恒一郎は少し笑った。
「それならできそうだ」
「でしょう?」
障子の向こうから、また三味線の音が流れてきた。
伊之助。
白峰屋の外に、初めて辿るべき名前が一つできた。




