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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第三章 大店で、帳面にないものを見る

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第54話 これはうちの品

 綾乃は両手を差し出した。


 恒一郎は懐から小さな紙包みを取り出し、その手のひらに載せた。


 綾乃はすぐには開かなかった。まず包みの重さを確かめるように少しだけ手を上下させ、それから文机の上に白い紙を一枚敷いた。包みをその上に置き、折り目に沿って丁寧に開いていく。


 中から黒褐色の木片が現れた。


 大きさは親指の先ほどだった。綾乃はそれを指でつままず、紙ごと障子のほうへ寄せた。昼下がりの柔らかな光が、木片の表面に落ちる。


「素手で触ってもかまいませんか」


「ああ。もう買った品だ。綾乃の好きに調べてくれ」


 綾乃は小さく頷き、木片をそっとつまみ上げた。


 光にかざし、ゆっくりと回す。表、裏、そして側面。次に鼻先へ近づけたが、深く吸い込みはしなかった。静かに一度だけ息を吸い、すぐに離す。


「焚かなくても、これだけ香ります。上等な品なのは間違いありません」


「白峰屋の品と比べてどうだ」


「色も、脂の乗り方も、うちが扱う上物によく似ています」


 そこまで言ってから、綾乃は首を横に振った。


「ですが、似ているだけです。同じ山で採れた香木なら、ほかの店にも似た品はあります。これだけで、うちの品だとは言えません」


 予想どおりの答えだった。恒一郎は口を挟まず、綾乃の手元を見守った。


 綾乃は木片を傾け、一つの面に目を留めた。ほかの面と比べて、そこだけ色がわずかに明るい。表面はなめらかではなく、細かくささくれ立っていた。


「この面だけ、割れています」


「割れている?」


「刃物で切った面ではありません。鋸を入れたのなら、もっと平らになります。これは、力をかけて割り取った跡です」


 綾乃は木片の向きを変え、恒一郎にもその面が見えるようにした。


「それに、ここを見てください」


 細い指先が、木片の中を走る黒い筋をなぞる。筋は木片の奥から斜めに伸び、割れた面のところで途切れていた。


「香木の脂は、木全体に同じように入っているわけではありません。濃く溜まるところもあれば、ほとんど入っていないところもあります。この筋は脂がいちばん濃い部分です。それが、割れ口で切れています」


「つまり、この筋は割れ口の向こうへ続いていた」


「はい。この一片は、もとはもっと大きな塊の一部だったはずです。脂の筋の太さからすると、割り取られる前の塊は、これの何倍もあったと思います」


 綾乃は木片を紙の上に戻し、しばらく黙って見つめた。


 恒一郎は、その横顔が考えをまとめていく様子を眺めていた。急かす必要はなかった。


 やがて綾乃が顔を上げた。


「志堂様。苦情の出た荷は、上物が減って、代わりに質の劣る香木が入っていました」


「ああ」


「もし抜き取った者が、塊を丸ごと持ち去るのではなく、一部だけを割り取っていたとしたら」


 綾乃の声に、わずかな熱がこもった。


「割られた残りは、箱の中に戻されているかもしれません。返ってきた荷の中に、この一片の片割れが残っている見込みがあります」


 恒一郎は、思わず口元を緩めた。


 割れ口に気づくだけなら、目のいい者にはできるかもしれない。だが、そこから片割れの在りかまで考えを進めるには、香木そのものと白峰屋の荷を知り尽くしている必要がある。


「いい着眼だ。片割れが見つかれば、比べる相手ができる」


「はい」


「返却品は蔵か」


「奥の蔵に、口ごとに分けて置いてあります。中身にはまだ手をつけていません」


 綾乃はそう答えると、木片を元の紙に包み直し、迷いのない手つきで立ち上がった。


「すぐに出します。手伝っていただけますか」


「もちろんだ」


    *


 奥の蔵の中はひんやりとしていた。


 高窓から差し込む光の下に、綾乃が筵を広げる。恒一郎は棚から返却箱を二つ下ろし、その脇に並べた。


 藤乃屋の箱と、桔梗院の箱。


 どちらも、先の調べで底や胴の加工痕を確かめた箱だった。だが、今日の目当ては箱ではない。


「藤乃屋から見ます」


 綾乃は箱を開け、中の香木を一つずつ筵の上に取り出した。


 取り出すたびに光へかざし、表面の色と脂のにじみ具合を確かめる。判じかねたものは鼻先へ寄せ、短く香りを聞いてから、右と左へ振り分けていく。右には艶のある黒褐色の塊、左には色の浅い、どこか乾いた印象の木片が積まれていった。


「左は、この荷に入っていたはずの品ではありません」


「見ただけで分かるのか」


「脂の入りが浅すぎます。うちでも安い品は扱いますが、この荷に入れる格のものではありません。抜かれた分の埋め合わせでしょう」


 綾乃は左の山には目もくれず、右に残った上物だけを手に取った。


 一つ持ち上げては、割れた面がないかを探す。光にかざし、脂の筋の向きを確かめる。紙包みから出した伊之助の香木を横に置き、筋の太さや色の濃さを見比べた。


 一つ目。違う。


 二つ目。割れた面はあったが、綾乃はそこへ伊之助の香木を並べ、すぐに首を振った。


「割れ口はありますが、脂の筋が合いません。これではなさそうです」


 三つ目、四つ目と進んでも、綾乃の手は止まらなかった。


 最後の一つを筵に戻したところで、綾乃は小さく息を吐いた。


「藤乃屋の荷には、ありません」


 悔しさはにじんでいたが、声は落ち着いていた。


「抜かれていたとしても、塊ごと持っていかれたのかもしれません。あるいは、割り方が違ったのか」


「すべての荷が同じやり方だったとは限らないからな」


「ええ。次を見ます」


 綾乃は藤乃屋の香木を手早く箱へ戻し、桔梗院の箱を引き寄せた。


 同じように、中身を筵へ並べていく。光にかざし、香りを聞き、右と左へ。上物と、埋め合わせの劣った品。


 桔梗院の上物は、藤乃屋より数が少なかった。そのぶん、一つひとつが大きい。


 綾乃は一つ目を手に取り、すぐに置いた。二つ目も違った。


 三つ目に手を伸ばした時、綾乃の指が止まった。


 握りこぶしほどの塊だった。全体に黒褐色で、表面には濃い脂がにじみ出ている。綾乃はそれを両手で持ち上げ、高窓の光に向けてゆっくりと回した。


 ある面で、手が止まる。


 そこだけ色がわずかに明るく、表面がささくれていた。


 綾乃は無言で伊之助の香木を取り、塊の横に並べた。二つの割れ口の色合いを見比べ、それから塊の中を走る黒い筋を目で追う。筋は太く、斜めに走り、割れ口の縁で途切れていた。


 しばらく、綾乃は何も言わなかった。


 恒一郎も黙って待った。


「……似ています」


 ようやく綾乃が口を開いた。


「割れ口の様子も、脂の筋の太さも、色の濃さも。藤乃屋の荷には、ここまで似たものはありませんでした」


 そう言いながらも、綾乃は首を振った。


「ですが、似ているだけなら、同じ山の香木はみな似ています。私の目では、これが片割れだと言い切ることはできません」


 綾乃は二つの香木を筵の上にそろえ、恒一郎のほうへ向けた。


「それでも、比べる価値はあると思います。志堂様、見ていただけますか」


 頼るのではなく、自分の見立てを差し出す声だった。


 恒一郎は頷き、筵の前に膝をついた。


    *


 恒一郎は二つの香木を前にして、意識を研ぎ澄ませた。


 視界の輪郭が、すっと鮮明になる。


 まず伊之助から買った小さな一片を見た。割れ口のささくれが、肉眼では見えない細かさで浮かび上がる。木の繊維は一様には裂けていない。細い繊維の束がところどころで長く引き出され、その隣では短く千切れている。力が加わった向きに沿って、裂け目が斜めに傾いでいた。


 割れ口の縁、右下の一角には、針の先ほどの小さな突起がある。そのすぐ上には、同じくらいの窪みが並んでいた。


 次に、桔梗院の塊へ目を移す。


 こちらの割れ口は、小さな一片よりずっと広い。だが、その一角に、恒一郎は見覚えのある形を見つけた。


 突起があるはずの場所に、窪み。窪みがあるはずの場所に、突起。


 小さな一片とは、凹凸がちょうど逆になっていた。


 長く引き出された繊維の束も、短く千切れた繊維も、塊の側では向きを裏返して同じ並びをつくっている。一方から引き抜かれたものが、もう一方に抜け跡として残っていた。


 恒一郎は内部へ目を凝らした。


 黒い香脂の筋は、ただの一本線ではなかった。太い本筋から、髪の毛ほどの細い筋が枝のように何本も分かれている。小さな一片の割れ口では、本筋の脇から三本の細い筋が伸び、そのうち一本だけが大きく曲がりかけたところで途切れていた。


 桔梗院の塊の割れ口にも、三本の細い筋があった。間隔も、太さも同じだった。そして一本だけが、割れ口の縁から弧を描いて伸び始めている。


 途切れた筋の先が、そこにあった。


「綾乃。少し動かすぞ」


「はい」


 恒一郎は小さな一片を指先でつまんだ。


 割れ口同士を向かい合わせ、ゆっくりと角度を変えていく。わずかに傾け、回し、繊維の裂けた向きをそろえる。


 小さな突起が、塊の窪みのすぐそばまで寄った。


 恒一郎は、力を入れなかった。ただ向きを合わせ、そっと近づける。


 小さな一片が、塊の割れ口に沈み込んだ。


 押し込んだのではない。そこへ収まるのが当然であるかのように、自然にかみ合った。継ぎ目には、ほとんど隙間が残っていなかった。


 恒一郎は塊を持ち上げ、光のほうへ向けた。


 黒い香脂の筋が、継ぎ目をまたいで一続きに走っていた。小さな一片の中で途切れていた本筋は、塊の中へそのまま流れ込み、曲がりかけていた細い筋も、同じ弧を描いて先へ伸びている。


 蔵の中が静まり返った。


「……もとは、一つの香木だ」


 恒一郎は静かに言った。


 綾乃は、すぐには返事をしなかった。


 食い入るように継ぎ目を見つめている。その目には驚きがあった。似ているとしか言えなかったものを、恒一郎は、凹凸の一つひとつまで見分けて合わせてみせたのだ。


「志堂様は……あの割れ口の中に、何を見ていたのですか」


「繊維の裂け方と、細い脂の筋だ。凹凸が逆向きに並んでいた。枝分かれした筋も、途切れた先が向こうに続いていた」


「あの細かさを、見ただけで」


 綾乃は小さく息を呑んだ。だが、驚きに浸っていたのは、ほんのわずかな間だった。


「私にも確かめさせてください」


「ああ」


 恒一郎は塊を綾乃に渡した。


 綾乃は両手で受け取り、継ぎ目に顔を近づけた。指先で、黒い筋を小さな一片の側から塊の側へとたどっていく。継ぎ目の上で指が止まることはなかった。


 綾乃は塊をわずかに傾け、継ぎ目の両側に表れている木目の流れを見比べた。それから小さな一片だけをそっと外し、もう一度合わせる。


 二度目も、何の抵抗もなく収まった。


「脂の筋が、継ぎ目で一本もずれていません」


 綾乃は確かめるように言葉を重ねた。


「割れ口の形だけなら、別々の香木でも似ることはあるでしょう。ですが、木目の流れも、脂の筋も、これほどきれいに続いている。そのうえ、力を入れずに収まります」


 綾乃は塊を筵に置き、恒一郎をまっすぐに見た。


「これだけそろって、別々の香木とは考えられません。もとは一つの香木です」


    *


 綾乃は、合わさった二つの香木からしばらく目を離さなかった。


「伊之助さんの店で売られていた香木と、うちから桔梗院へ納めた香木が、もとは一つだった」


 ゆっくりと口に出し、その重さを確かめるように言う。


「これは、うちの品です」


 恒一郎は頷いた。


「少なくとも、桔梗院へ納めた香木と同じ塊から出た品だ。そこはもう動かない」


「はい。ただ、分かったのはそこまでです」


 綾乃の表情が引き締まる。


「いつ割られたのかは、割れ口からは分かりません。封印より前から別々だったと言われれば、これだけでは打ち消せません」


「ああ。だが、この荷は封紙が無事なまま香りが弱いと戻ってきた。箱には加工の痕があり、封印の済んだ荷が夜のうちに作業場へ運ばれていた」


 恒一郎は、合わさった香木を見下ろした。


「そこへ、伊之助の店の香木の片割れが、この箱の中に残っていた。白峰屋から抜かれた香木が伊之助の店へ流れた。その見立ては、ずいぶん固くなった」


「伊之助さんが、盗品と知って仕入れたのかどうかは、まだ分かりませんね」


「そうだ。誰がこの箱に手をかけ、誰が持ち出し、誰が伊之助に渡したのか。その道筋は、まだつながっていない」


 点はそろってきた。足りないのは、それを結ぶ線だった。


「次は、この香木が動いた道をたどる。今日の物証があれば、これまでとは違う問い方ができる」


 綾乃は、その意味を正しく受け取ったようだった。わずかに唇を引き結び、それから頷く。


 恒一郎は、小さな一片を指した。


「それは俺が伊之助の店で買った品だが、綾乃に預ける。桔梗院の塊と一緒に、白峰屋で納めておいてくれ」


「お預かりします」


 綾乃は二つの香木をそっと離した。小さな一片を元の紙に包み、塊は別の紙で包んでから布でくるむ。それから帳場から持ってきた矢立を取り、小さな紙片を二枚書いた。


 一枚には「伊之助方にて志堂様お買い上げ」、もう一枚には「桔梗院返却品のうち」と記す。紙片をそれぞれの包みに添え、取り違えようのない形にした。


「削ったり焚いたりはいたしません。合わせて見せる時のために、割れ口にも手を触れないようにしておきます」


「頼む。このことは、まだ店の者には伏せておいてくれ」


「承知しています」


 即答だった。いつもの、迷いのない声だ。


「私の部屋の箪笥にしまって、錠を下ろします。鍵は私が持ちます。事情を知らない者が触れることはありません」


 二つの包みを丁寧に重ねる綾乃の手つきを見ながら、恒一郎は口を開いた。


「今日の手柄は、綾乃のものだ」


 綾乃の手が止まった。


「……ですが、私の目では、似ている、までしか言えませんでした。最後に一つだと示してくださったのは、志堂様です」


「最後に確かめたのは俺だが、片割れを見つけたのは綾乃だ。どちらが欠けても、ここまでは来られなかった」


 綾乃はゆっくりと顔を上げた。


 何か言いかけ、一度口を閉じる。それから、いつもより少しだけ柔らかな声で言った。


「……はい。それは、私も分かっています」


 自信を手放さない言葉だった。だが、その目元はわずかにほころんでいた。自分の目利きを、自分の判断を、正しく見てくれる人がいる。それを確かめたような顔だった。


 綾乃は包みを胸に抱え、すっと背筋を伸ばした。


「それでは志堂様。次は、どこから調べますか」


「夜の作業場だ」


 恒一郎は迷わず答えた。


「封印の済んだ荷が、手直し台の脇に筵を掛けて置かれていた夜。そこに誰が出入りし、香木がどうやって白峰屋の外へ出たのか。それを確かめる」


 綾乃が、深く頷いた。


 盗まれた香木の行き先の一つが、ようやく見えた。ならば次は、そこへ運んだ手をたどる番だ。


 夜の作業場から伊之助の店までの道を、一本の線につなげる。恒一郎はもう、誰に何を問うべきか決めていた。

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