第46話 封のあと
「ほかの箱も見せてもらえるか」
恒一郎が言うと、綾乃はすぐに頷いた。
「苦情のあった品の箱でしたら、二つ残してあります」
「箱までか?」
「中身だけでは原因が分かりませんでしたから。戻していただけるものは、箱ごと返していただきました」
そう言って、綾乃は店の者を呼んだ。
しばらくして運ばれてきたのは、使い込まれた二つの木箱だった。
どちらも、すでに封は切られている。
得意先で中身を確かめた以上、それは当然だった。
「こちらは橘屋へ出したもの。もう一つは、別のお得意先へ出したものです」
恒一郎は最初の箱を手元へ寄せた。
蓋。
側面。
角。
そして底。
指先で木肌をなぞっていく。
「……あるな」
綾乃が身を寄せた。
「どこです?」
「ここだ」
恒一郎は底の端を指した。
綾乃が目を細める。
「傷……でしょうか」
「傷に見えるようにはなってる」
恒一郎は箱を傾けた。
「だが、ここを直す理由がない」
「理由?」
「割れてない。欠けてもいない」
白峰屋の箱は何度も使う。
だから補修跡があること自体は珍しくない。
だが普通は、割れたから継ぐ。欠けたから埋める。
直したのなら、その前に壊れていた痕が残る。
この箱には、それがなかった。
恒一郎はもう一つの箱を取った。
同じように見ていく。
今度は底ではなく、胴の下側で手が止まった。
「こっちにもある」
「同じ場所ではありませんね」
「ああ」
綾乃も箱を持ち上げた。
先ほど恒一郎が示した場所と、目の前の加工痕を見比べる。
「でも……似ています」
「俺もそう見える」
削った木を馴染ませた跡。
木目に紛れさせるような、ごく細い境目。
古い箱だからこそ、普通なら傷の一つとして見過ごす。
同じ傷ではない。
だが、偶然できたものとも思えなかった。
「問題のなかった箱もあるか?」
「ございます」
綾乃はすぐ店の者へ指示した。
運ばれてきた古箱を、恒一郎は同じように調べた。
こちらにも補修はある。
角が欠けた場所。
板が割れ、継ぎ直されたところ。
長く使われた箱なら当然ある傷ばかりだった。
恒一郎は箱を並べた。
「こっちは壊れたから直してる」
正常な箱を指す。
次に、問題の二箱を見る。
「こっちは違う」
綾乃が加工痕へ目を落とした。
「壊れていないところへ、わざわざ手を入れている」
「ああ」
「では、これは補修ではなく……」
「開けるためにつけた跡だ」
綾乃の表情が変わった。
視線が、店先で止めたばかりの箱へ向く。
「さっき開けた箱も、内側から見せてもらえるか」
「どうぞ」
綾乃が先ほど封を切った箱を、恒一郎の前へ置いた。
恒一郎は残っていた香木を取り出し、箱を裏返した。
外から見た時には木目に紛れていた境目が、内側からならわずかに分かりやすい。
「やっぱりな」
綾乃も覗き込む。
「一度、外されていますか」
「そう見える」
板そのものを大きく壊したわけではない。
だが、一部へ手を入れた痕がある。
そこからなら、蓋に触れる必要はない。
封紙も破らない。
中身すべてを出す必要さえない。
「ここからなら、上等なものを抜いて、代わりを入れられる」
綾乃は箱の底を見つめた。
「……最後に品を確認したあとですね」
恒一郎が顔を上げる。
「そうなる」
「品と量を確認してから、蓋を閉じる。紐を掛けて封紙を貼り、印を押します」
「ああ」
「そこまでは間違いありません。私が確認したものもあります」
綾乃の声に迷いはなかった。
「なら、中身が変わったのはそのあとです」
「封をしてから、出荷するまで」
「はい」
これまで綾乃が調べた仕入れ先も、入荷記録も、帳面も間違ってはいなかった。
間違っていたのは、その先だ。
「だから帳面も合っていた」
恒一郎が言う。
「帳面に記した時点では、本物だった」
綾乃が頷いた。
「最後に確認した時も」
「ああ」
「そのあとに、一部を入れ替えられた」
綾乃は箱を見た。
「蓋を開けずに」
ようやく、噛み合わなかったものがつながった。
恒一郎は再び加工痕へ目を向ける。
「ただし、誰でもできる仕事じゃないな」
「ええ」
綾乃もすぐに答えた。
「これだけ古い木目へ馴染ませて、元からあった傷のように見せる。かなり腕が要ります」
「箱の補修を頼んでる職人は?」
「一人ではありません。何人か出入りしています」
「この細工までできるのが誰かは?」
綾乃が少し考える。
「そこまでは分かりません」
「なら、まだ腕だけじゃ絞れないな」
「では、腕のある職人から――」
そこまで言って、綾乃が口を閉じた。
恒一郎は何も言わず待つ。
「……いえ。それだけでは足りませんね」
「ああ」
綾乃は箱を見た。
「腕があっても、この箱に触れられなければ意味がない」
「そういうことだ」
綾乃の目が鋭くなる。
「その間に、誰が箱へ触れたのか」
恒一郎は頷いた。
仕入れではない。
帳面でもない。
封をする前でもない。
何者かが、正しく確認された箱へ、そのあと手を加えている。
しかも、痕跡をほとんど残さない腕を持っている。
「これまでは、誰が香木を扱ったのかを調べていました」
綾乃が言った。
「それ自体は間違ってない」
「ですが、それだけでは足りなかった」
「そうだな」
恒一郎は箱の蓋を閉じた。
「次は、箱の方から見よう」
「箱の方から?」
「最後に確認したあとの動きだ」
恒一郎は並んだ箱を軽く叩いた。
「誰なら、これに触れられた?」
綾乃が箱から恒一郎へ視線を移した。
「……調べます」
「俺も見る」
「では、店の者の仕事の流れからですね」
「ああ」
恒一郎は頷いた。
香木が正しかったところまで追っても、犯人には届かない。
必要なのは、その先だ。
誰が箱を動かしたのか。
封をしたあと、どこへ運ばれたのか。
そして――誰なら、誰にも怪しまれず箱へ手を触れられたのか。
見るべきものは、もう箱の中にはなかった。




