第45話 帳面は合っている
「その荷は出さないでください」
よく通る女の声が、店先まで届いた。
白峰屋へ入ったばかりの恒一郎は、奥へ向けていた目を止める。
帳場の向こうに、一人の女が立っていた。
二十を少し過ぎたくらいに見える。深い藍色の着物に灰青の帯。艶のある黒髪は後ろで緩くまとめられ、残した長い髪が背へ流れていた。
華やかに飾っているわけではない。
それでも、端正な顔立ちと切れ長の目はよく目立った。
◇ ◇ ◇
白峰屋から相談があると、橘屋を通じて聞いたのは昨日だった。
高価な香木を扱う大店で、近頃、得意先から妙な話が続いているという。
以前に買ったものより香りが弱い。
同じ程度の品を頼んだはずなのに、前とは違う。
それなのに、帳面には不自然なところがない。
それなら、一度見てみる価値はある。
そう思って、今日ここへ来た。
◇ ◇ ◇
「綾乃。本当に止めるのか」
帳場にいた五十ほどの男が訊いた。
「止めます。今朝確認した品も、同じでした」
「得意先には今日出す約束だ」
「だからこそです。おかしいと分かっているものを出して、あとで信用を失う方が高くつきます」
即答だった。
男はしばらく娘を見たあと、店の者へ向き直った。
「聞いたな。今日の分は止めろ。先方には私から話を通す」
「はい」
荷を抱えていた奉公人が引き返していく。
女――綾乃がそこで初めて恒一郎に気づいた。
「お待たせしました。志堂恒一郎さんですね」
「ああ」
「白峰屋の綾乃です。こちらは父の喜八郎です」
喜八郎が軽く頭を下げる。
「橘屋さんから話は聞いております。原因の分からぬ厄介事を、いくつか片づけたそうですな」
「ずいぶん大げさに伝わってるな」
恒一郎が答えると、綾乃がわずかに口元を緩めた。
「違うんですか?」
「否定はしない」
綾乃の表情が仕事のものへ戻る。
「では、まず状況をご説明します」
「帳面は合ってるんだったな」
「合っています」
「仕入れた数も、売った数も?」
「はい」
「代金の出入りは?」
「そこにも不自然なところはありません」
「なのに、売った品がおかしい」
「そうです」
帳面に不自然なところがあれば、まだ追いやすい。
数が合わない。代金が合わない。どこかで帳尻がずれている。
だが、今回は違う。
帳面は合っている。
それなのに、中身だけがおかしくなっている。
「面白いな」
恒一郎が言う。
綾乃が瞬きをした。
「私としては、あまり面白くありませんが」
「それもそうか」
喜八郎が低く笑った。
「娘は三日ほど、帳面と倉に籠もりきりでしてな。これ以上面白がられると、怒るかもしれません」
「お父様」
「違うのか?」
「……否定はしません」
綾乃は小さく息を吐いた。
「得意先から同じ話が続いたので、今朝、今日出す予定だった品をもう一度確かめました。それで、同じ異常が見つかりました」
「さっき止めた荷か」
「ええ」
「普段は出す前にもう一度見るのか?」
「いいえ。必要な作業が済んだら、最後に品と量を確かめます。それから蓋を閉じて紐を掛け、蓋と箱の胴をまたぐように封紙を貼って、店の印を押します」
「そこまで済んだら?」
「そのまま出荷します。もう中を開けることはありません」
「蓋を開ければ?」
「封紙が破れます」
「今朝は?」
「私が封を切りました。それまでは破れていませんでした」
綾乃がわずかに眉を寄せる。
「だから、分からないんです」
「何が?」
「封をする前には、品も量も確認している。帳面も合っている。封も切られていない。それなのに、中身が変わっている」
「入ってきた時も正常だった?」
「すべてを私が見たわけではありません。ただ、私自身が入荷時に確認した品にも、あとから問題が出ています」
「なるほど」
「まず、見ていただけますか」
「ああ」
◇ ◇ ◇
奥の作業場には、いくつかの箱が並べられていた。
倉から出した品を確認し、小分けしたり、詰め直したり、傷んだ箱を直したりする場所らしい。
すべての品がここを通るわけではない。
手を加える必要のないものは、倉からそのまま出されることもあるという。
綾乃が二つの箱を恒一郎の前へ置く。
「こちらは、今朝止めたものです」
続いて、もう一方を示した。
「こちらも同じように作業場を通った品ですが、問題は出ていません」
「何が違う?」
「香りです」
綾乃は今朝止めた箱から包みを取り出した。
続けて、もう一方の箱からも包みを取り出す。
見た目だけなら、恒一郎には大きな差は分からない。
香木について詳しいわけでもない。
「俺には、どっちが上等かまでは分からないぞ」
「それで構いません」
綾乃は即答した。
「品定めをお願いしたいわけではありませんから」
「なら、何を見ればいい?」
「どうして、確認したはずのものが変わったのか。それを知りたいんです」
恒一郎は二つの箱を見る。
「仕入れ先は?」
「一つではありません」
「入荷した日」
「それもばらばらです」
「倉に置いていた場所は?」
「同じ場所ではありません」
綾乃の返答に迷いがない。
「そこまで調べたのか」
「ええ」
「他に共通してることは?」
「あります」
綾乃は作業場を示した。
「問題が出た品は、すべて出荷前にここへ出されています」
「問題のない品は?」
「ここを通っていないものもあります。今お見せしたように、ここを通っていても問題のない品もあります」
「仕入れ先も入荷した日もばらばら。倉の置き場所も違う。残った共通点がここか」
「今のところは」
「なら、ここへ出してから品が出ていくまでのどこかで何かあった可能性が高い」
「私もそう考えています」
「ここでは誰が品に触れる?」
「店の者です。それから、必要があれば外の職人も入ります」
「外の職人?」
「箱の補修や荷造りを頼む者が何人かいます」
「いつも同じ奴じゃない?」
「仕事の内容や、その日の都合で変わります」
誰が、いつ、何をしたのか。
そこから先が分からないということらしい。
「それで、俺みたいな外の人間を呼んだのか」
「父は最初、反対しました」
「おい、綾乃」
「事実でしょう?」
喜八郎は苦笑した。
「店の中の不始末なら、まず店の中で確かめたいと思っただけだ。長く商いをしていれば、外へ出さぬ方がよい話もある」
そこで表情を改める。
「だが、得意先へ怪しい品を出し続けるわけにはいかん。信用は、一度崩せば帳面の数字では戻らんからな」
「それで俺を?」
「橘屋さんから名前が出た。それなら一度見てもらう価値はあると判断した」
「分かった」
恒一郎は箱へ目を戻した。
「引き受ける」
「では、お願いします」
綾乃が頭を下げる。
恒一郎は今朝止めた箱を手元へ寄せた。
まず蓋を見る。
切られた封紙。
蓋の縁。
箱の胴。
何度か角度を変えて見たあと、正常な箱にも目を移す。
「蓋には、それらしい跡はないな」
「開けられていない、ということですか?」
「少なくとも、今朝の確認より前に蓋を開けた痕はない」
綾乃の眉がわずかに動く。
「では、やはり中身は――」
「変わってるんだろ?」
「……ええ」
「なら、どこかから触ってる」
恒一郎は箱を持ち上げた。
「蓋じゃないなら、蓋ばかり見る必要はない」
側面。
角。
底。
木目に沿って目を動かしていく。
古い擦れ。
小さな欠け。
補修された跡。
使い込まれた箱なら、どれも珍しくはない。
だが――。
「綾乃」
「はい」
「この箱、前にも直してるのか?」
「ええ。こういう箱は繰り返し使いますから」
「どこを直したか、全部分かる?」
「店から頼んだものなら記録はあります。ただ、小さな直しまで一つ残らずというわけではありません」
恒一郎は底の一角へ指を置いた。
一見しただけなら、以前の補修跡にしか見えない。
むしろ、意識して探さなければ古い木目に紛れてしまうほど巧妙に馴染ませてある。
だが、木目の流れがそこでわずかに途切れていた。
恒一郎は箱を傾け、内側も見る。
「こっちは?」
綾乃がしゃがみ込む。
古い補修跡には、欠けや割れを直した痕が残っている。
だが、恒一郎が指した部分にはそれがない。
よく見なければ木目に紛れるほど細い痕が、不自然な形で続いている。
内側も、見た目には周囲の古い木とほとんど変わらない。
ただ、その部分だけ、削られた面の馴染み方がわずかに違っていた。
「補修した跡……では、ない?」
「少なくとも、壊れたから直したようには見えないな」
綾乃の目が細くなる。
「では、なぜこんなことを?」
「それはまだ分からない」
恒一郎は正常な箱にも目を移した。
そちらにも古い補修跡はいくつかある。
だが、今見つけたものと同じ不自然な痕はなかった。
箱を扱える人間は一人ではない。
これだけで誰かを疑うには早い。
だが、一つだけ分かったことがある。
封をする前には、中身が確認されている。
蓋は、そのあと開けられていない。
それでも中身は変わっている。
恒一郎は箱の底を軽く叩いた。
「開けたのは、蓋じゃない」




