第44話 いつもの一日
夜もだいぶ更けたころ、朱莉が自分の部屋へ戻ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
恒一郎は膳の前に座ったまま答えた。
空いた徳利が二本。料理もほとんど残っていない。
朱莉がそれを見て、少し笑う。
「ずいぶん飲んだわね」
「待たされたからな」
「仕事なんだから仕方ないでしょう?」
「分かってるよ」
朱莉は隣へ腰を下ろした。
「まあ、ちゃんと払ってるんだからいいけど」
「だろ」
「だからって飲みすぎないでよ」
「まだ平気だ」
「そう言う時点で、結構飲んでるじゃない」
朱莉が恒一郎の肩にもたれる。
「疲れたか?」
「少しね」
恒一郎がその腰へ手を回した。
朱莉は何も言わず、そのまま身体を預ける。
しばらくして、顔を上げた。
「せっかく待ってたんだから、もう少し付き合ってよ」
「明日の朝、眠いって言うなよ」
「それは明日の私が考えるわ」
朱莉が笑って、恒一郎へ顔を寄せた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
恒一郎が目を覚ますと、隣で朱莉が髪をまとめていた。
「起きた?」
「ああ」
「眠そうね」
「誰のせいだ」
「あら。私はちゃんと寝たわよ」
「そうかよ」
朱莉が楽しそうに笑う。
二人で朝餉を済ませ、店を出た。
花街では、表を掃く者や水を撒く者、眠そうな顔で荷を運ぶ者が行き交っていた。
「今日はどうするの?」
「家に戻る。今のところ仕事もない」
「じゃあ、私も行くわ」
「最初からそのつもりだっただろ」
「あら。嫌なの?」
「言ってない」
「なら決まりね」
朱莉が満足そうに笑う。
しばらく歩いたところで、菓子を売る店の前に来た。
朱莉が足を止める。
「また買うのか?」
「お茶があるんだから、お菓子もいるでしょう?」
「朝餉を食ったばかりだぞ」
「今すぐ食べるなんて言ってないわよ」
朱莉は店先を眺め、いくつか菓子を選んだ。
恒一郎がその数を見る。
「多くないか?」
「小夜も来るかもしれないでしょう?」
「来るって聞いてるのか?」
「聞いてないわよ。でも、来た時になかったら困るでしょう?」
「自分が食いたいだけじゃないのか?」
「それもあるわね」
朱莉が悪びれもせず答える。
恒一郎は呆れながら、その隣に並んだ。
◇ ◇ ◇
家へ戻ると、朱莉は縁側へ座った。
恒一郎が茶を淹れ、買ってきた菓子を出す。
「やっぱり食うのか」
「朝餉からもう時間が経ったでしょう?」
「たいして経ってないぞ」
「いいのよ。お菓子は別だから」
朱莉が一つ摘まむ。
恒一郎も向かいに座り、湯呑みに口をつけた。
風が庭の葉を揺らしている。
「仕事?」
朱莉が聞いた。
恒一郎の手元には、一枚の書き付けがあった。
「話だけ来てる」
「受けるの?」
「まだ決めてない」
「へえ」
「何だ?」
「ちゃんと選んでるのね」
恒一郎が朱莉を見る。
「そのために家まで借りたんだろ」
「そうだったわね」
朱莉が笑った。
その時、表から戸を叩く音がした。
恒一郎が立ち上がり、戸を開ける。
「こんにちは、恒一郎様」
小夜が立っていた。
片手には風呂敷包みを持っている。
「小夜か。今日は早いな」
「はい。祭りの後片付けも落ち着きましたので、今日は宮司様が早めに帰っていいと言ってくださいました」
小夜が家の中を見る。
「あ」
「いらっしゃい」
縁側から朱莉が手を上げた。
「朱莉さんもいらしたんですね」
「残念だった?」
「そういう意味ではありません」
「ふふ。冗談よ」
恒一郎は二人を見てから、小夜の持つ包みに目をやった。
「それは?」
「あ、これですか」
小夜が風呂敷包みを持ち上げる。
「母が、持って行きなさいと」
「何を持ってきたんだ?」
「煮物です。根菜と鶏を煮たものですが」
「作りすぎたのか?」
小夜が一瞬黙る。
「……たぶん」
朱莉が小夜を見る。
「へえ」
「何ですか」
「別に?」
「絶対に何か考えています」
「何も言ってないでしょう?」
「顔が言っています」
朱莉が笑う。
恒一郎は戸を閉めた。
「とりあえず座れ。茶を淹れる」
「はい」
小夜が縁側へ向かう。
その目が、皿に残っている菓子に止まった。
「……お菓子」
「ほら」
朱莉が得意そうに恒一郎を見る。
「来たでしょう?」
「お前が呼んだわけじゃないだろ」
「細かいことはいいのよ」
小夜が二人を交互に見る。
「私の分もあるんですか?」
「あるわよ」
朱莉が答える。
「来るかもしれないと思って買っておいたの」
小夜が少しだけ目を丸くした。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「朱莉がもう二つ食ったけどな」
「恒一郎」
「二つ?」
小夜が皿を見る。
朱莉が恒一郎を睨む。
「余計なことを言わなくていいの」
「必要な情報だろ」
「まだちゃんと残ってるでしょう?」
小夜が皿を見てうなずく。
「ありますね」
「でしょう?」
「でも朱莉さん、あとでまた食べますよね?」
朱莉が小夜を見る。
「本当に慣れてきたわね」
「朱莉さん相手だけです」
「それは光栄ね」
「褒めていません」
小夜が少し笑った。
◇ ◇ ◇
三人で茶を飲みながら、志津の煮物をつまんだ。
「美味しいわね、これ」
「でしょう?」
小夜が少し得意そうな顔をする。
「作ったのはお母さんだろ」
「母の料理ですから、私が得意になってもいいでしょう?」
「そういうものか」
「そういうものです」
恒一郎も一つ口に入れた。
「確かにうまいな」
「母に伝えておきます。喜ぶと思います」
「頼む」
小夜がうなずく。
朱莉が残っていた菓子へ手を伸ばした。
同時に、小夜も手を伸ばす。
二人の手が止まった。
皿には一つ。
「……小夜、さっき食べたでしょう?」
「朱莉さんは二つ食べたと聞きました」
「恒一郎」
「俺を見るな」
恒一郎は菓子を取り、二つに割った。
朱莉と小夜の前へ一つずつ置く。
「これでいいだろ」
二人が菓子を見る。
朱莉が先に笑った。
「そういうところよね」
「何がだ」
「いえ」
今度は小夜が答えた。
「何でもありません」
「何で二人とも同じ顔してるんだ」
「さあ?」
「知りません」
二人がそれぞれ半分の菓子を取った。
恒一郎だけが納得できない顔をしていた。
◇ ◇ ◇
日が傾くと、庭にも長い影が伸び始めた。
朱莉が空を見て立ち上がる。
「そろそろ戻らないと」
「もうそんな時間か」
「ええ」
朱莉が着物の裾を整える。
小夜も立ち上がった。
「お気をつけて」
「ありがとう」
朱莉はそこで小夜を見る。
「小夜はどうするの?」
小夜が恒一郎を一度見て、それから朱莉へ顔を戻した。
「私は、今日はこのまま泊まっていこうと思っています」
「あら」
「……何ですか」
「何も言ってないでしょう?」
「顔が言っています」
朱莉が笑う。
「本当に慣れてきたわね」
「朱莉さん相手だけです」
「それ、今日二回目よ」
「事実ですから」
小夜も少し笑う。
朱莉は恒一郎へ向き直った。
「じゃあ、私は戻るわ」
「ああ」
「またね」
「おう」
朱莉が戸へ向かう。
小夜がその背中へ声をかけた。
「今度は私も、お菓子を持ってきます」
朱莉が振り返る。
「じゃあ、私は違うものにしようかしら」
「張り合わなくていいだろ」
二人が同時に恒一郎を見る。
「張り合ってないわよ」
「張り合っていません」
「そうか」
恒一郎はそれ以上言わなかった。
朱莉は笑いながら戸を開け、花街へ戻っていった。
その姿が道の向こうへ消える。
小夜が戸を閉めた。
さっきまでより、家の中が少し静かになる。
「……静かになりましたね」
「朱莉がいるとよく喋るからな」
小夜が恒一郎を見る。
「恒一郎様もでしょう?」
「俺もか?」
「はい」
「そうか?」
「そうです」
小夜が笑った。
部屋へ戻る。
志津の煮物は、まだ少し残っていた。
「夕餉にするか」
「はい」
小夜が座る。
恒一郎も向かいに腰を下ろした。
「泊まることは、家に伝えてあるのか?」
「はい。母にも伝えてあります」
「そうか」
小夜が少しだけ視線を落とす。
「……今日は、朝までいます」
「ああ」
小夜が顔を上げた。
「そうしたくて来ましたから」
恒一郎は少しだけ笑った。
「なら、まずは腹ごしらえだな」
「はい」
小夜も笑い、煮物の器を恒一郎の方へ寄せた。




