第42話 暗がりを返す
「止まれ!」
恒一郎の声が響いた。
逃げようとしていた者も、押されて踏み出しかけていた者も、その姿勢のまま動きを止めた。
だが、傾いた灯籠台までは止まらない。
木組みはそのまま、人の群れへ倒れ込もうとしていた。
恒一郎は駆け込んだ。
倒れ込む木組みに横から肩を当てる。
木組みが軋んだ。
恒一郎はさらに押し込み、そのまま、人のいない側へ倒れるように押しやった。
灯籠台が大きな音を立てて地面へ倒れる。
上の灯籠も外れ、転がった。
火が揺れる。
「水!」
近くにいた神社の者が、用意されていた水桶を抱えて駆けてきた。
水がかけられ、火が消える。
灯籠台が倒れた頃には、止まっていた人々も再び動き始めていた。
「走るな!」
恒一郎が声を張る。
「もう危なくない! 押さずに参道側へ戻れ!」
ざわめきは残っていたが、人の動きは少しずつ落ち着いていく。
「怪我をした方はいませんか!」
小夜が人の間を抜けてきた。
倒れた灯籠台を見て、その次に恒一郎を見る。
ほんの一瞬だけ、目が止まった。
だが、問いかけることはしなかった。
「水路側へ寄らないでください! こちらから参道へ戻れます!」
すぐに巫女として人々へ声をかける。
朱莉も少し離れた場所で、人の流れを戻していた。
「押さないで。慌てなくて大丈夫よ」
「そっちは今、通さないわ。参道へ戻ってちょうだい」
普段と変わらない口調で言われると、人々もつられるように落ち着いていった。
恒一郎は周囲へ目を走らせる。
まだ終わっていない。
神楽殿の裏。
水路沿い。
人と灯りの隙間に、黒いものがいた。
細い四肢。
揺れる尾。
水面へ溶けるような足先。
灯喰らいは、狭い暗がりの中で身を縮めている。
前には、提灯を持った人。
横にも、提灯を手にした人。
御池へ戻ろうにも、人と一緒に動く提灯の明かりが道を塞いでいた。
「恒一郎様」
小夜が戻ってきた。
「御池側はだいぶ人を離せました。宮司様も神社の者を回してくださっています」
「ああ」
恒一郎は暗がりの先を見る。
灯喰らいが戻るべき御池まで、まだ提灯の明かりが続いている。
「暗い場所を残すだけじゃ駄目だった」
小夜が恒一郎を見る。
「御池まで繋げる」
「繋げる……?」
「あいつが灯りの中を横切らなくても戻れるようにする」
小夜の視線が、水路から御池へ動いた。
灯籠。
その間を行き交う人。
手に持たれた提灯。
そして、水辺に残された暗がり。
「……道を作るんですね」
「ああ。暗い道をな」
小夜はすぐに頷いた。
「分かりました」
振り返る。
「御池沿いから人を離してください! 提灯を持った方は参道側へお願いします!」
近くにいた神社の者たちが動く。
「水路沿いも同じです! 灯りを持ったまま奥へ入らせないでください!」
別の者たちも人の流れへ入っていった。
「神楽殿の裏にも人を入れないでください。水際へ続く場所を空けます!」
小夜の声が境内へ飛ぶ。
そこへ宮司もやってきた。
「小夜」
「宮司様。御池まで暗がりを繋ぎます。昔の祭りと同じ形に戻します」
宮司は一度、水辺を見た。
「分かった。神社の者は小夜の指示に従え!」
「はい!」
返事が重なる。
人の流れが変わり始めた。
提灯を持った者が参道側へ戻される。
水路沿いに入り込んでいた人々も、神社の者に促されて離れていく。
小夜が神社の者へ次々に指示を出す。
「そこから先には人を入れないでください」
「提灯を持った方はこちらへ」
「参道側から回っていただいてください」
朱莉も少し離れたところで、見物しようとする客を戻していた。
「今はそっちへ行かない方がいいわ」
「見に行っても邪魔になるだけよ。こっちへ戻って」
人が退く。
提灯も退く。
それまで細切れだった水辺の暗がりが、少しずつ繋がっていった。
神楽殿の裏から水路へ。
水路から御池へ。
人の側には灯りが残る。
だが、水辺の奥には一本の暗い道ができていく。
「……人の岸に、灯を」
小夜が呟いた。
恒一郎が頷く。
「ああ」
古い記録に残されていた言葉が、ようやく形になった。
やがて、御池まで暗がりが繋がった。
恒一郎は灯喰らいを見る。
黒い獣は、まだ動かなかった。
細い身体を低くしたまま、暗がりの先を見ている。
一歩。
前足が水辺の影へ溶ける。
止まる。
人の側を見る。
また一歩。
今度は、そのまま進んだ。
長い尾が揺れる。
灯喰らいは、繋がった暗がりを伝うように、水路の奥へ入っていく。
「……戻っていますか?」
隣で小夜が聞いた。
「ああ」
恒一郎は目を離さない。
「今度こそ戻れる」
灯喰らいが遠ざかる。
すると、近くの灯籠に変化が起きた。
灯芯の火そのものは変わっていない。
だが、狭くなっていた光が、ゆっくりと周囲へ広がっていく。
一つ。
また一つ。
暗く沈んでいた人々の足元が、元の明るさを取り戻す。
「あ……」
小夜が小さく声を漏らした。
水路の先で、灯喰らいの輪郭がさらに薄くなる。
最後に淡い青白い目だけが一度見えた。
それも、御池の奥の影へ溶けていった。
そこから先を、恒一郎は追わなかった。
戻る場所へ戻ったのなら、それでいい。
◇ ◇ ◇
しばらくして、笛の音が戻った。
途切れていた三味線も続く。
少し遅れて太鼓が鳴る。
水灯祭は、再び動き始めた。
参道には灯りが並ぶ。
だが、水辺の奥だけは暗いまま残されている。
御池の水面には灯籠の明かりが映り、その向こうには深い影があった。
宮司が、しばらくその光景を見ていた。
「……これが、本来の水灯祭だったのかもしれんな」
小夜も、暗いまま残された御池の奥を見る。
「追い払う祭りではなかったんですね」
「場所を分けてたんだろうな」
恒一郎が答える。
「人にも、あいつにも、それぞれ居場所があった」
小夜が静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
祭りが落ち着いた頃には、先ほどの騒ぎもかなり収まっていた。
大きな怪我をした者はいない。
倒れた灯籠台の近くで擦りむいた者が二人いた程度で、神社の者が手当てしている。
恒一郎は水路沿いをもう一度見回した。
灯喰らいは出てこない。
灯籠の火も安定している。
今度こそ大丈夫そうだった。
「恒一郎様」
振り返ると、小夜が立っていた。
白い巫女装束の袖に、少しだけ土がついている。
「終わったか?」
「はい。宮司様からも、もう大丈夫だろうと」
「そうか」
恒一郎は小夜を見る。
「助かった、小夜」
「え?」
「俺だけじゃ祭りは動かせない。神社の人間をあれだけ早く動かせたのは、小夜がいたからだ」
小夜は一度、目を瞬いた。
「恒一郎様が見つけてくださったことを、神社の皆さんと形にできました」
「それが必要だったんだよ」
小夜が黙る。
それから、御池の方を見た。
人の側には灯り。
その先には暗がり。
「……一緒にできて、よかったです」
「ああ」
恒一郎も御池を見る。
「俺もそう思う」
小夜がゆっくりと恒一郎へ顔を戻した。
何か言おうとして、少しだけ迷う。
「恒一郎様」
「ん?」
「あの……」
「小夜さん!」
参道の方から呼ぶ声がした。
「こちらをお願いします!」
小夜がそちらを見る。
少し困ったように笑ってから、もう一度恒一郎へ向き直った。
「祭りが終わったあと、少しお時間をいただけますか?」
「ああ。いいぞ」
「ありがとうございます」
小夜は頭を下げ、呼ばれた方へ走っていった。
少し離れた場所では、朱莉が戻ってきた客へ道を譲っている。
ふとこちらを見た。
恒一郎と目が合う。
朱莉は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑って、人の流れへ視線を戻した。
笛と三味線の音が、再び境内を満たしていく。
人の岸には灯りが並び、その向こうには、誰も踏み込まない暗がりが残っていた。




