第41話 祭りの夜に、怪異を見る
朝の水守神社は、もう祭りの支度で騒がしかった。
参道の両側にはまだ火の入っていない灯籠が並び、境内では男たちが縄を張り、女たちが茶や甘味を出す支度をしている。
神楽殿の前では、笛や太鼓を確かめる音も聞こえていた。
「朝からもうこんなに動いてるのね」
鳥居をくぐった朱莉が、境内を見渡した。
「祭りの日だからな」
「小夜ちゃん、今日はずっとこんな調子なのかしら」
「あ、恒一郎様」
ちょうど境内の奥から、小夜が歩いてきた。
白衣に緋袴。すでにいくつもの準備を見て回っていたらしく、手には紙を束ねたものを持っている。
「朱莉さんも、おはようございます」
「おはよう、小夜ちゃん。忙しそうね」
「はい。でも、毎年のことですから」
そう答えながら、小夜の目が一度だけ二人の間を往復した。
すぐに恒一郎へ向き直る。
「昨日決めた場所も、朝のうちに確認しておきたいです」
「ああ。先に見よう」
「はい」
小夜は迷わず歩き出した。
「私は適当に見てるわ」
そう言いながらも、朱莉はそのまま二人についてきた。
◇ ◇ ◇
御池の周りでは、昨日までとは灯籠の置き方が変わっていた。
人が歩く岸側には灯籠が並んでいる。
だが、その向こう、草木の影が水へ落ちる奥まった一角には灯りを置いていない。
そこから細い水路沿いへ続く暗がりも、ところどころ途切れずに残されていた。
「昨日決めた通りです」
小夜が言う。
「宮司殿にも、これで通してもらったのか?」
「はい。昔の記録も見せましたので」
恒一郎は御池の周囲を見渡した。
灯籠そのものは多い。
祭りなのだから当然だ。
それでも、人が集まる側と、水辺の奥。
明るくする場所と、暗く残す場所は分かれている。
「これなら戻れる暗がりは残せるはずだ」
小夜が少しだけ表情を緩める。
「よかったです」
「まだ火を入れてないからな。本番を見ないと分からない」
「……はい」
すぐに気を引き締めた小夜へ、朱莉が笑った。
「安心したと思ったら、すぐ戻るのね」
「祭りが終わるまでは、安心できませんから」
「真面目ねえ」
「巫女ですから」
「ふふ。小夜ちゃんらしいわね」
小夜がわずかに目を瞬いた。
恒一郎はその横を通り、水路の方を見る。
「神楽殿の裏も見ておくぞ」
「はい、恒一郎様」
今度は小夜が自然にその隣へ並んだ。
◇ ◇ ◇
日が傾く頃には、朝とは比べものにならないほど人が増えていた。
参道には家族連れが行き交い、境内の端では串に刺した焼き物の香りが漂っている。
蜜をかけた餅を売る店の前では、子供が母親の袖を引いていた。
三味線の音に笛が重なり、神楽殿の方からは太鼓の低い音が響く。
空が藍色へ変わり始めた頃。
一つ目の灯籠へ火が入った。
続いて、その隣。
さらに、その先。
参道を縁取るように、灯りが一つずつ増えていく。
御池の岸にも火が入り、水面へ細長い光が揺れた。
「綺麗ね」
恒一郎の隣で、朱莉が言った。
「ああ。来てよかった」
「素直ね」
朱莉が少しだけ笑う。
その少し先では、小夜が子供を水際から離していた。
「そこから先は暗いですから、走らないでくださいね」
「はーい」
「返事だけでは駄目です」
「はーい!」
「……さっきと同じではありませんか」
母親が笑い、子供の手を取る。
小夜も困ったように笑った。
すぐに別の灯籠へ向かい、火の入り具合を確認する。
次から次へと声をかけながら、迷いなく境内を動いていた。
やがて御池の周囲にも、ほとんどの灯りが入った。
それでも奥の一角だけは暗い。
恒一郎はそこへ目を向けた。
水面と草木の影が重なる場所。
黒いものが、低く身を伏せている。
墨を垂らしたような細い四肢。
長い尾が、水面へ溶けるように揺れていた。
「いるな」
近くへ戻ってきていた小夜が、声を落とす。
「戻っていますか?」
「ああ。今のところは」
小夜が暗がりを見る。
「どの辺りですか?」
「あの木の影の下だ」
朱莉も目を凝らした。
「……分からないわ」
「はっきり見えなくてもおかしくない」
「そう?」
しばらく暗がりを見つめていた朱莉が首を傾げる。
「でも、今、何か動いた気はしたわ」
暗がりの中で、青白い目が一瞬だけこちらを向いた。
すぐに伏せる。
逃げる様子はない。
「大丈夫そうですね」
小夜が言った。
「ああ」
少なくとも、考え方は間違っていなかった。
人の側に灯りを置く。
水辺の奥には、暗がりを残す。
それでいい。
――そのはずだった。
◇ ◇ ◇
異変に気づいたのは、祭りがもっとも賑わい始めた頃だった。
「恒一郎」
朱莉の声に、恒一郎が振り向く。
「人、増えたわね」
朝どころか、灯りを入れ始めた頃よりも明らかに多い。
参道から境内へ、次々に人が入ってくる。
そして、その手には提灯があった。
大人だけではない。
子供も、小さな提灯を持って歩いている。
茶店から御池を見に来る者も、それぞれが灯りを携えていた。
恒一郎の視線が御池へ戻った。
暗く残したはずの一角へ、提灯を持った夫婦が近づいていく。
反対側からは、子供を連れた男が灯りを下げて歩いてきた。
灯喰らいが身を起こす。
「小夜」
恒一郎の声に、小夜がすぐ振り返る。
「どうしました?」
「人の灯りが多すぎる」
「え?」
小夜も御池を見る。
固定した灯籠の位置は変わっていない。
暗がりも残してある。
人が灯りを持つことは分かっていた。
だが、これほどの数が水辺まで入り込み、絶えず動くところまでは読めていなかった。
「……こんなに」
「灯籠の配置だけじゃ足りなかったな」
暗がりへまた一つ、提灯が近づく。
灯喰らいが動いた。
水面の影が伸びる。
低い獣の輪郭が、御池の端から水路へ滑るように移った。
その横にあった灯籠の火が、小さくなる。
「きゃっ」
近くにいた女が声を上げる。
「なんだ?」
「火が……」
灯芯は燃えている。
だが、灯りの届く範囲だけが急に狭くなった。
その隣も。
さらに一つ先も。
ぱち、と音を立てて一つの火が消えた。
人々がざわつく。
「風か?」
「風なんて吹いてないぞ」
「また消えた!」
灯喰らいが走る。
暗い場所を求めて。
だが、その先にも人がいる。
提灯がある。
灯喰らいは向きを変えた。
今度は水路沿い。
そちらの灯りまで急に弱くなる。
「恒一郎様、あそこ……!」
「ああ」
小夜にも、もう異変の動きは分かっている。
「あいつが火を消してるわけじゃない」
小夜が恒一郎を見る。
「逃げた先の灯りが弱ってるだけだ。人を襲うつもりはない」
「では……」
「追い詰められてる」
小夜が暗がりを見る。
「でも、暗がりは残したはずです」
「提灯の灯りが入り込んでる」
恒一郎は周囲を見る。
すでに何人かが、暗くなった灯籠を見ようと水際へ近づこうとしている。
「小夜。人を御池から離せ。水路側もだ」
「はい」
「神社の人間を回してくれ」
「分かりました」
小夜はすぐ近くにいた神社の男へ声をかける。
「御池の周りへ人を寄せないでください。二人連れて水路側もお願いします」
「何かあったのか?」
「後で説明します。今は先に人を離してください」
「分かった」
男が別の者へ声をかける。
小夜も反対側へ向かった。
「朱莉」
「何?」
「こっちへ来る人を止めてくれ。水際へ行かせるな」
「分かったわ」
朱莉はすぐに近くの女たちへ向き直る。
「そっちは今、行かない方がいいわよ」
「でも、灯りが……」
「だからよ。見に行く人が増えたら邪魔になるわ」
強く怒鳴るわけでもない。
それでも朱莉が言うと、何人かは素直に足を止めた。
恒一郎は灯喰らいを追う。
水路から神楽殿の裏へ。
そこにも暗がりは残していた。
だが、今夜は人が多い。
神楽を見終えた者たちが回り込み、提灯を持ったまま立ち話をしている。
灯喰らいが止まった。
前にも光。
後ろにも光。
長い尾が大きく揺れる。
逃げ道を探すように顔が動く。
「駄目か」
その近くの灯籠が、まとめて暗くなった。
「うわっ!」
「消えたぞ!」
人が動く。
一人が下がる。
後ろの者へぶつかる。
「押すな!」
「前が見えない!」
誰かが声を上げた。
灯りが消えたことで、人の流れが一つの場所へ詰まり始める。
「恒一郎様!」
小夜が戻ってくる。
「御池側は離し始めています。でも、人が多くて――」
「暗がりを残すだけじゃ足りない」
「え?」
恒一郎は灯喰らいを見る。
御池へ戻ろうとしても光がある。
水路も塞がれている。
神楽殿の裏も同じだ。
「人が入る場所と、あいつが戻る場所を、はっきり分けなきゃ駄目だ」
小夜も周囲を見た。
灯りを持つ人。
照らされる水辺。
逃げ場をなくしていく黒い影。
小夜が、はっと目を見開く。
「昔の祭り……」
「ああ。昔の形まで戻す」
小夜が恒一郎を見る。
「灯りを?」
「ああ。灯りを人のいる側へ寄せる。水辺の奥は照らさない」
「分かりました」
小夜がすぐに頷いた。
「宮司様にも伝えます」
「頼む」
小夜が走り出す。
そのときだった。
少し離れた水路沿いで、悲鳴が上がった。
「危ない!」
暗くなった場所で、人が一斉に動いている。
前の者が急に足を止めた。
後ろから押された男がよろめく。
その肩が、灯籠台へぶつかった。
木組みが大きく傾く。
上には、火の入った灯籠が据えられている。
周囲の者が逃げようとする。
だが、後ろにも人がいる。
横は水路。
傾いた灯籠台が、人の群れへ倒れ始めた。
恒一郎が、口を開いた。




