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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第二章 祭りの夜に、怪異を見る

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第40話 初めて知る距離

「恒一郎様、小夜です」


 戸の向こうから聞こえた声に、恒一郎は腰を上げた。


 開けると、小夜が畳んだ紙を両手に持って立っている。


「来たか。入れ」


「お邪魔します」


 小夜が土間へ足を踏み入れる。


 すぐ先には畳敷きの座敷があり、長火鉢のそばに一人の女が座っていた。急須から湯呑みへ茶を注いでいる。


 小夜の視線が、そこで一度止まった。


 それから、改めて家の中を見回す。


「一人で住むには、ずいぶん広いんですね」


「仕事にも使ってるからな」


「そうでしたね」


 草履を脱いで座敷へ上がると、先ほどの女が小夜へ目を向けた。


「お客さん?」


「ああ」


 恒一郎も座敷へ上がる。


「朱莉。こっちは小夜。水守神社の巫女で、今回の件を一緒に調べてる」


「あなたが小夜ちゃんね。初めまして。朱莉よ」


 朱莉が軽く頭を下げる。


 小夜もすぐに姿勢を正した。


「初めまして。小夜と申します」


「そんなに畏まらなくてもいいわ」


「いえ、そういうわけには」


 朱莉は慣れた手つきでもう一つ湯呑みを出した。


「お茶でいい?」


「え?」


「せっかく来たんだもの」


「あ、はい。ありがとうございます」


「座れ。今日は何を持ってきた?」


「昨日見直した灯籠の位置を、宮司様とも確認してきました」


 小夜が持っていた紙を示す。


「明日の祭りまでに、恒一郎様にも見ていただこうと思って」


「分かった。先に茶を飲もう」


「はい」


 小夜が腰を下ろすと、朱莉が湯呑みを差し出した。


 その隣には、干菓子の包みが置いてある。


「小夜ちゃん、甘いものは?」


「……好きです」


 返事が少し早かった。


 朱莉の口元が緩む。


「よかった。恒一郎はこういうの、ほとんど減らさないから」


「買ってきたのはお前だろ」


「置いてあるのはあなたの家でしょう?」


「それで俺が食わないのは俺のせいか?」


「せっかく買ったんだから、一つくらい食べてもいいじゃない」


 小夜が二人を見比べた。


「どうした?」


 恒一郎に聞かれ、小夜はすぐに首を振る。


「いえ。何でもありません」


 そう答えて、小夜は干菓子を一つ摘まんだ。


「……おいしいです」


「でしょう?」


 朱莉の目元が和らぐ。


「なら、もう一つどうぞ」


「え、ですが」


「恒一郎が食べない分よ」


「勝手に人の分を作るな」


「食べないんでしょう?」


「まあな」


 小夜は少し迷ってから、もう一つ干菓子を取った。


「……いただきます」


 朱莉が楽しそうに笑う。


 しばらくして、小夜が持ってきた紙を座敷の上へ広げた。


「こちらです」


 御池と、そこから流れる細い水路。


 その周囲に、明日の水灯祭で置かれる灯籠の位置が簡単に記されている。


 恒一郎は紙の上を目で追った。


「昨日見た時より増えてるな」


「はい。今日のうちに最後の準備が進みました」


 小夜が御池の奥を指す。


「ここが、昔の記録にあった『灯の届かぬ所』だと思います」


「今は?」


「ここまで灯籠を置く予定です」


 次に水路沿い。


「こちらも、去年より増えています」


 恒一郎が指を動かす。


 御池の奥から、水路。その先に、灯籠台のあった場所。


「灯喰らいを見た順番とも合うな」


「はい」


「なら、やっぱり暗い場所を追って動いてる」


 小夜が頷いた。


「明日は、今日よりずっと明るくなります」


「今の配置のまま火を入れれば、また逃げるだろうな」


「どこへ行くか分かりません」


「だから、戻れる暗がりを残す」


 恒一郎は御池の奥を指した。


「ここは昔の形に戻した方がいい。それから、水路沿いにも全部は置かない」


「暗がりを、つなぐんですね」


「ああ」


 小夜は紙の上へ視線を落としたまま考え込み、それから頷く。


「宮司様にも伝えます。灯籠の数を減らす理由も、もう説明できます」


「祭りを止める必要はない」


「はい」


「人の側は照らす。灯喰らいが戻れる暗がりだけ残せばいい」


 そこまで聞いていた朱莉が、湯呑みを置いた。


「つまり、明日はお祭りをやっても大丈夫なの?」


 恒一郎が朱莉を見る。


「大丈夫にする」


「そう」


 朱莉はそれだけで納得したように茶を飲んだ。


 小夜が、そんな二人を静かに見ていた。


「朱莉さんも……明日は水灯祭へ?」


「ええ。私も行くわ」


 朱莉が恒一郎を見る。


「明日はこっちから一緒に行けばいいでしょう?」


「朝は早いぞ」


「分かってるわ」


 小夜の指が、紙の端で止まった。


「朱莉さんは、よくこちらへ来られるんですか?」


「そうね。よく来るわ」


「泊まることもあるし」


 小夜が、あらためて朱莉を見る。


「……そう、なんですね」


「ええ」


 朱莉はただ微笑んだ。


 小夜は湯呑みへ手を伸ばしかけ――代わりに干菓子を一つ取った。


 少しして、もう一つへ視線を向ける。


「食べる?」


「……いただきます」


「遠慮しなくていいのよ」


 朱莉が包みを小夜の方へ寄せる。


「ありがとうございます」


 小夜は少しだけ困ったような顔をしながら、それでも干菓子を受け取った。


 朱莉は何も聞かなかった。


 やがて小夜は一度息を整え、再び配置図へ向き直る。


「それで、こちらの水路ですが」


「もし御池へ戻らず、こちらへ進んだ場合はどうしますか?」


 朱莉が小夜を見る。


「ちゃんとしてるのね」


 小夜が目を瞬いた。


「巫女ですから」


「そういう意味じゃないわ」


「……?」


「何でもない」


 朱莉が笑う。


 小夜は少し不思議そうな顔をしたものの、すぐ恒一郎へ向き直った。


「恒一郎様?」


「ああ。続けよう」


 恒一郎は水路の先を指した。


「ここにも一つ、暗い場所を残す」


「神楽殿の裏手ですね。あそこまで水路が続いています」


「人もあまり通らないんだろ?」


「祭りの間も、こちらはほとんど通りません」


「なら使える」


 明日の配置を一つずつ見直していく。


 人が集まる場所には灯りを置く。


 危ない場所も照らす。


 その上で、灯喰らいが戻るための暗がりだけを残す。


「これで準備はできるな」


「はい」


 小夜は紙を畳んだ。


「今日のうちに、宮司様と皆さんに伝えておきます」


「明日は俺も早めに行く」


「お願いします」


 小夜が立ち上がる。


 朱莉も湯呑みを片づけながら顔を上げた。


「小夜ちゃん」


「はい?」


「明日、よろしくね」


 小夜は少し驚いたようだった。


 それから、きちんと頭を下げる。


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 恒一郎が小夜を戸口まで送った。


「じゃあ、明日神社で」


「はい」


 小夜は草履を履く。


「お邪魔しました」


「ああ」


 数歩歩いたところで、小夜が一度振り返った。


 開いた戸の向こうに恒一郎が立っている。


 その奥には、朱莉が残っていた。


 朱莉があの家に残っている。


 それを思うと、小夜の足がすぐには前へ出なかった。


 少しだけ立ち止まり、それからまた歩き出す。


 二人がどういう関係なのかは、もう分かってしまった。


 そして、それを知って足が止まった理由も。


 気づかないふりをするには、もう無理があった。


「……明日は、お祭りです」


 小夜は小さく呟き、前を向いた。


 水守神社では、今も明日の準備が続いている。


 まだ火の入っていない灯籠が並び、夕暮れの境内で静かに夜を待っていた。


 明日は、水灯祭。


 人の側へ灯を並べ、灯喰らいのための暗がりを残す。


 あとは、本番で確かめるだけだった。

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