第39話 暗い場所を残す理由
御池を見終えると、恒一郎と小夜はそのまま社務所へ戻った。
小夜が宮司へ声をかける。
「宮司様。昔の水灯祭について、確認したいことがあります」
「昔の?」
「はい。御池の奥に灯籠を置かなかった理由です。祭事帳を見せていただけませんか」
宮司は小夜と、その隣の恒一郎を順に見た。
「何か分かったのか?」
「昔は、あそこを暗くしておくものだったそうです。ただ、理由までは誰も覚えていなくて」
恒一郎も続ける。
「宮司殿。小夜から、もっと古い祭事帳があると聞きました。確認させてもらえますか」
「ああ。それなら奥にある」
宮司はすぐに立ち上がった。
しばらくして運ばれてきたのは、先ほど見た実務の帳面より一回り小さな、古びた冊子だった。
表紙は擦れ、綴じ紐も新しいものへ替えられている。
「祭事の手順や由来を書いたものだ。私が宮司を継いだ頃には、必要な作法は別の控えにまとめられていて、これはほとんど開かれなくなっていた」
「私も中を見るのは初めてです」
小夜が冊子へ手を伸ばした。
先ほどのように、油や灯芯の数を一つずつ追う必要はない。
探すものは決まっている。
水灯祭。
御池。
灯り。
三人で該当する箇所を探していくと、小夜の指が止まった。
「……ありました」
恒一郎が横から覗く。
古い文字の中に、御池についての記述が残っていた。
「『御池、水際の奥には灯を置かず』」
小夜がゆっくり読み上げる。
その少し先にも続きがある。
「『灯の届かぬ所、一所残すこと』……」
小夜が顔を上げた。
「本当に、わざと暗くしていたんですね」
「ああ」
恒一郎は記述を見直した。
「置かなかったんじゃない。置かないように決めてた」
宮司も眉を寄せる。
「ここまではっきり書いてあったか」
「宮司様も、ご存じなかったんですか?」
「御池の奥へ灯籠を置かぬ慣例があったことは知っていた。だが、私が引き継いだ頃には、理由まではもう伝わっていなかった」
宮司は冊子へ視線を落とす。
「近年は灯籠の数も増えた。奥へ置かないことも、単に昔からの配置なのだろうと思っていた」
決まりだけが残り、その理由はいつの間にか失われていた。
「でも」
小夜が頁を見つめた。
「なぜ、暗い場所を残す必要があったんでしょう」
「それを探してるところだ」
恒一郎が答える。
小夜はもう一度、古い文字を追い始めた。
数頁めくる。
祭りの供物。
水路の清め。
灯籠を置く順番。
そして、小夜の手が止まった。
「……これは」
「何だ?」
小夜は少し顔を近づけた。
「灯……喰らい」
恒一郎が聞き返す。
「灯喰らい?」
「はい」
小夜が文字を指でなぞる。
「灯喰らい《ひぐらい》、とあります」
宮司も身を寄せた。
「その名なら、見た覚えがある」
「ご存じなんですか?」
「いや。名だけだ。昔の怪異の一つだと思っていた」
小夜が続きを読む。
「『水影に棲む灯喰らいを追うべからず』」
その下には、さらに短い記述があった。
「『灯の届かぬ所を残し、水影へ返す』……」
恒一郎の目が細くなる。
「他には?」
「少し待ってください」
小夜がさらに先を見る。
「あ……ここに」
「『灯近くなれば火弱り、なお追えば消ゆ』」
三人の間に、しばらく声がなかった。
最初に口を開いたのは恒一郎だった。
「灯りの近くで、火が弱る」
小夜がすぐに頷く。
「夜に見たのと同じです」
「灯芯は燃えてた。それなのに、光の届く範囲だけ狭くなった」
「はい」
「それから、人を避けたんじゃない」
小夜の表情が変わる。
「灯りを避けていました」
「ああ」
「逃げる先は、いつも水辺でした」
御池へ逃げたことも、水路沿いを通ったことも、そのあとに湿りが残ったことも、古い記録と繋がっていく。
小夜は祭事帳から顔を上げた。
「もしかして……」
「何だ?」
「あそこは、人が近づかないよう暗くしていたんじゃなくて」
小夜が一度、言葉を切る。
「あれがいるために、暗くしていたんでしょうか」
恒一郎はすぐには答えなかった。
祭事帳を見る。
小夜を見る。
これまで灯喰らいが動いた場所を思い返す。
「その可能性が高い」
小夜はもう一度、記録へ目を落とした。
「『水影へ返す』……」
「追い払え、じゃない」
「はい」
さらに前後を探していくと、水灯祭そのものについて書かれた古い記述が見つかった。
小夜が読む。
「『人の岸に灯を並べ、水影の奥を照らすべからず』」
宮司が小さく息を吐いた。
「そういう意味だったのか」
小夜はしばらく考えたあと、御池の方角を見る。
「人のいる側に灯りを置いて……水の奥は暗いままにする」
恒一郎が頷く。
「境を作ってたんだろうな」
「境……」
「人の場所と、向こうの場所を分ける」
小夜が祭事帳を見つめる。
「追い払うためではなく?」
「逆だ」
恒一郎は御池の配置を思い浮かべた。
「人の場所には灯りを置く。向こうの場所は残す。全部を照らす祭りじゃなかったんだろうな」
小夜の表情がわずかに強張った。
「今年は……御池の奥にも置きます」
「ああ」
「水路沿いにも、去年より増やしています」
「去年までは?」
「御池の奥には置いていません」
答えてから、小夜が黙った。
それから、ゆっくり言う。
「最後に残っていた暗い場所まで、なくそうとしている……」
「なくそうとしたわけじゃない」
恒一郎が言った。
「意味を知らなかっただけだ」
小夜が恒一郎を見る。
「……はい」
「ただ、結果として追い出してるのはこっちだな」
灯喰らいは人を追っていなかった。
灯りから逃げていた。
逃げた先で縄を弱らせ、土を湿らせ、灯籠台の近くを通った。
事故は起きた。
だが、人を傷つけるためではない。
「なら」
小夜が顔を上げる。
「御池の奥を、昔のように戻せばいいんですね」
「方向はそれでいい」
「では、今年置く予定の灯籠を――」
「ただ、今あいつがどこを居場所にしてるかまでは、この記録じゃ分からない」
小夜が口を閉じる。
「昔より、今の方がずっと明るい。水路沿いにも灯籠が増えてる」
「……では、御池の奥だけ暗く戻しても足りないかもしれませんね」
「ああ」
恒一郎は頷いた。
「それに、祭りの日は今よりずっと多くの灯りが点く。今と同じ動きをするとは限らない」
小夜の表情が引き締まる。
「なら、今の配置と、あれが動いた場所をもう一度見比べましょう」
「それがいい」
宮司も頷く。
「必要なら、今年の配置は改めよう。昔の作法に理由があったと分かった以上、このまま進めるわけにもいかん」
小夜が恒一郎を見る。
「では、御池と水路沿いを見に行きましょう。恒一郎様も、一緒に」
「ああ」
小夜が少しだけ笑った。
「……今度は、先に言えました」
「何が?」
「一緒に行くって、です」
「進歩したな」
「……言い方が少し気になります」
宮司がそんな二人を見て、わずかに目を細めた。
小夜が祭事帳を閉じかけたところで、宮司が別の古い控えを手に取る。
「そういえば」
恒一郎が顔を上げた。
「何です?」
「この辺りの古い記録なら、以前にも役所の方が見ていった」
「役所?」
「ああ。杉浦殿だ」
恒一郎の目がわずかに細くなる。
「杉浦が?」
「灯喰らいだけを調べていたわけではない。古い怪異や祭事の記録をいくつか見ておられた」
「いつ頃です?」
「少し前になる。何を探していたのかまでは聞かなかったが」
恒一郎は、その古い控えへ一度だけ目を向けた。
蔵前屋の一件で見た黒い糸や染みとは、どう見ても性質が違う。
だが、杉浦がこうした古い怪異まで調べていたことは覚えておいた方がいい。
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
今、追うべきことは別にある。
昔の人間は、灯喰らいを追い払わなかった。
人の場所には灯りを置き、水辺の奥には暗がりを残した。
今年、それを知らずに最後の暗がりまで照らそうとしている。
原因は、ほぼ見えた。
なら、やることも見えている。
まずは、今の配置で灯喰らいがどこへ逃げているのかを確かめる。
その上で、祭りの灯りをどこまで戻すか決めればいい。




