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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第二章 祭りの夜に、怪異を見る

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第38話 昔はそこに置かなかった

「……これも違います」


 小夜は開いていた帳面を閉じ、隣へ積んだ。


 朝から何冊目になるのか、恒一郎も途中で数えるのをやめている。


 水守神社の社務所、その奥にある小部屋。


 祭りに関する古い帳面が、二人の前にいくつも積まれていた。


「何冊目だ?」


「聞かないでください」


「分からなくなったか」


「分かっています。だから聞かないでください」


 小夜はそう言って、新しい帳面へ手を伸ばした。


 昨日、黒いものが人ではなく灯りを避けていることは分かった。


 ならば、去年までの祭りを調べる。


 そう決めて、朝から記録を漁っていたのだが――。


「油、二升。灯芯、四十本。壊れた灯籠二基を修繕……」


 小夜が読み上げる。


「その次は?」


「奉納した方のお名前です。それから、祭りの後に灯籠を三基新しくした、と」


「またそれか」


「はい」


 何を用意したか。誰が担当したか。


 そういう記録は細かく残っている。


 だが、肝心なことがない。


「やったことは残してる。理由を残してないな」


「神事の記録のはずなんですが……」


「毎年やる側には、書く必要がなかったんだろうな」


 当たり前のことほど、記録には残らない。


 恒一郎は別の帳面を開き、頁をめくっていった。


 やがて、指が止まる。


「小夜」


「はい?」


「これ、今より少なくないか」


 小夜が身を寄せる。


 恒一郎が示したのは、祭りで使った灯籠の数だった。


「……本当ですね」


「こっちは?」


 さらに数年分遡る。


 灯籠の数は、今年より明らかに少ない。


 小夜も別の帳面を引き寄せ、数字を追った。


「昔は、今ほど水路沿いに置いていなかったみたいです」


「御池側は?」


「少し待ってください」


 小夜は頁を繰る。


 やがて、端に小さく書かれた場所ごとの記録を見つけた。


「参道、拝殿前、神楽殿、水路……」


 指が止まった。


「御池は?」


「手前に二基、とあります」


「奥は?」


「書かれていません」


 恒一郎は眉を寄せた。


 別の年も見る。


 さらにその前年。


 どれも似ていた。


「昔は、今と置き方が違ったみたいだな」


「そうですね。でも……」


 小夜は帳面を見つめる。


「なぜ違ったのかは、やっぱり書いてありません」


「ああ」


 分かったのは形だけだ。


 理由がない。


 小夜はしばらく考えていたが、不意に顔を上げた。


「父なら、覚えているかもしれません」


「昔の祭りを?」


「はい。父もずっと神社の祭事を手伝っていますから。母も、若い頃から水灯祭には出ていたそうです」


「なら、話を聞かせてもらえるか」


「もちろんです。家はすぐそこです」


 小夜は帳面を閉じた。


    ◇ ◇ ◇


 小夜の家は、神社から歩いてすぐの場所にあった。


 大きな屋敷ではない。


 古いがよく手入れされた、落ち着いた家だった。


 小さな庭の端には、神社で使うらしい木箱や竹籠が整然と置かれている。


 小夜は戸を開けた。


「ただいま戻りました」


 奥から女の声がする。


「お帰り。今日は早いのね」


 姿を見せたのは、四十をいくらか過ぎた頃に見える女だった。


 小夜とよく似た目元をしている。


 恒一郎の姿に気づくと、少しだけ目を見開いた。


「そちらは?」


「昨日から調べものをしてくださっている、志堂恒一郎様です」


 小夜が紹介する。


「母の志津です」


「志堂恒一郎です。突然伺ってすみません」


「まあ。こちらこそ、娘がお世話になっているようで」


「今日は少し、昔の祭りについて伺いたくて」


 志津は一瞬だけ小夜を見て、それから柔らかく笑った。


「父上は?」


「裏にいるわよ。呼んできましょうか」


「お願いします」


 ほどなくして、父親も姿を見せた。


 五十前後だろうか。


 日に焼けた顔に、穏やかながらよく人を見る目をしている。


「父の清十郎です」


「志堂恒一郎です。清十郎殿、少し昔の水灯祭について伺いたいことがあります」


「祭りの?」


「はい」


 清十郎は不思議そうにしたものの、座るよう促した。


 小夜もその場へ座る。


「父上。昔の水灯祭では、御池の方にも今と同じくらい灯籠を置いていましたか?」


 清十郎はすぐには答えなかった。


 記憶を探るように目を細める。


「いや。今ほど多くはなかったな」


「やっぱり……」


 小夜が恒一郎を見る。


 志津も口を挟んだ。


「御池の奥には置かなかったでしょう?」


 清十郎は少し考え、頷いた。


「……そうだったな」


「あなた、若い頃に間違えて運ぼうとして止められたじゃありませんか」


「そんなこともあったか」


「ありました」


 志津が即答する。


 小夜がわずかに笑った。


「父上にも、そういうことがあったんですね」


「昔の話だ」


 清十郎は咳払いした。


 恒一郎は話を戻す。


「それは、昔からですか?」


「ああ。少なくとも、俺が若い頃にはそうだった」


「理由は?」


 清十郎は首を振った。


「知らん」


 答えはあっさりしていた。


「置くなと言われていただけですか」


「そうだな。昔からそうするものだと」


 志津も頷く。


「私たちが若い頃には、もう理由まで知っている人はいなかったと思います。御池の奥は暗くしておくものだ、とだけ」


「暗く……」


 小夜が呟いた。


 恒一郎も黙って考える。


 黒いものは灯りを避ける。


 去年まで異変はなかった。


 昔は御池の奥を暗くしていた。


 そして今年は――。


「小夜」


「はい」


「今年、そこには?」


 小夜の顔から笑みが消えた。


「……置きます」


 清十郎が娘を見る。


「御池の奥にもか?」


「はい。今年はあそこまで灯籠を増やしています」


「去年は?」


 恒一郎が聞く。


「置いていません」


「今年だけか」


「はい」


 小夜は立ち上がりかけた。


「私、御池をもう一度見てきます」


「何を見る?」


 恒一郎の声に、小夜が止まる。


「昔、灯籠を置かなかった場所がどこなのかです。父上の話と今年の配置を比べれば、何か分かるかもしれません」


「それは見た方がいいな」


「では――」


「俺も行く」


 小夜は少し目を瞬いた。


「でも、記録もまだ残っています」


「戻ってから見ればいい」


「私だけで確認してきます。その間に恒一郎様は――」


「分かれてやる必要があるか?」


 小夜が口を閉じた。


「……急ぐことではありませんね」


「ああ。一緒に見よう。記録は戻ってからでいい」


「でも――」


「御池はお前の方が詳しい。俺は違うところを見るかもしれない」


 小夜は少し考え、頷いた。


「……分かりました」


「なら、それでいい」


 二人のやり取りを、清十郎は黙って見ていた。


 志津は口元に小さく笑みを浮かべている。


「小夜」


「何ですか、母上」


「珍しいわね。あなたが誰かと一緒に見に行くなんて」


「……母上」


「何もおかしなことは言っていませんよ」


「言い方があります」


 小夜の声が少しだけ低くなる。


 恒一郎は立ち上がった。


「それでは、ありがとうございました」


「ああ」


 清十郎も立つ。


 戸口まで来たところで、不意に呼び止められた。


「志堂殿」


「はい」


 振り返る。


 清十郎はしばらく恒一郎を見た。


「小夜が世話になっている」


 恒一郎は小夜を一度見た。


「俺も助けてもらっています」


 清十郎の目がわずかに細くなる。


「……そうか」


 それ以上は何も言わなかった。


    ◇ ◇ ◇


 神社へ戻る道で、小夜がぽつりと言った。


「私、やっぱりすぐ自分でやろうとしてしまいますね」


「そうだな」


「……そこは少しくらい否定してください」


「事実だからな」


 小夜が不満そうに恒一郎を見る。


「恒一郎様は、時々ひどいです」


「でも、今日は人に聞いた」


「父と母ですけど」


「人は人だ」


「それはそうですが……」


「俺にも頼った」


 小夜が一瞬、言葉を止めた。


「……頼ったことになりますか?」


「一緒に調べてる時点でな」


「では」


 小夜は少しだけ考えてから言った。


「もう少し頼ることにします」


「ほどほどにな」


「そこは、頼っていいと言うところでは?」


「全部持ってこられても困る」


「そんなことはしません」


「ならいい」


 小夜は一度むっとしたものの、すぐに小さく笑った。


「本当に、恒一郎様はそういう方ですね」


「どういう意味だ?」


「教えません」


 そう言って、少しだけ歩く速度を上げる。


 恒一郎もその横へ並んだ。


    ◇ ◇ ◇


 御池の奥は、昼でも少し薄暗かった。


 木々の枝が水面へ張り出し、その下に濃い影を落としている。


 小夜は父から聞いた場所を確かめるように、水際を歩いた。


「たぶん……この辺りです」


 指さした先には、今年新しく据える予定の灯籠台があった。


 まだ灯籠そのものは載せられていない。


 だが、祭りの日にはここにも火が入る。


 恒一郎は周囲を見る。


 黒いものが水辺へ消えた場所。


 湿った痕跡が残っていた場所。


 そして新しく灯りを置こうとしている場所。


 離れていない。


「昔は、ここには置かなかった」


 小夜が言う。


「ああ」


「去年までも、ここは暗いままでした」


「今年は置く」


「はい」


 小夜は灯籠台を見つめた。


「それで、あれが出てきた……」


「可能性は高くなったな」


 だが、恒一郎はすぐには結論づけなかった。


「理由がない」


「理由?」


「どうして昔の人間は、ここを暗くしてた?」


 小夜も黙った。


 清十郎も志津も知らなかった。


 記録にも残っていない。


 ただ、そうしていた。


 それだけだ。


「もっと古いものなら……」


 小夜が呟く。


「あるのか?」


「今朝見ていた帳面とは別に、もっと古い記録があります。宮司様が管理している祭事帳です」


「どんなものだ?」


「私も中までは見たことがありません。昔の神事や由来を書いたものだと聞いています」


 恒一郎は御池を見る。


 水面の奥には、昼でも濃い影が残っていた。


「なら、次はそれだな」


「はい」


 今年になって何が変わったのかは、見えてきた。


 だが、昔の人間がなぜここだけを暗く残したのか。


 そこだけが、まだ抜けていた。

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