第37話 あいつが避けているもの
「今のは、何だったんだ……?」
倒れた板の向こうで、誰かが呟いた。
周囲には祭りの準備をしていた者たちが集まっている。
「犬じゃねえよな」
「黒い獣に見えたぞ」
「坊主を襲おうとしてたんじゃないのか?」
ざわめきが広がる。
助け出された少年は、少し離れたところで大人に囲まれていた。怪我はない。
小夜も無事だ。
恒一郎は切れた縄を手にしたまま、水路へ目を向けていた。
黒いものは、もう見えない。
「恒一郎様」
小夜が隣へ来る。
「先ほど、動きがおかしいと仰っていましたよね」
「ああ」
「あれが、あの子を狙っていたなら……ですか?」
恒一郎は切れた縄を地面へ置いた。
「あのまま真っすぐ行けば、あの子にぶつかってた」
「はい」
「だが、手前で曲がった」
小夜が水路の方を見る。
黒いものが消えた辺りだ。
「木杭の脇を抜けて、そのまま水路へ……」
「ああ」
昨夜もそうだった。
暗くなった灯籠のそばに現れたあと、黒いものは御池の奥へ消えた。
今日も最後は水辺だ。
「そういえば……」
小夜が少し考えてから口を開いた。
「昨夜も、私たちの方へ向かってきたわけではありませんでした」
「そうだな」
「今日も、あの子に飛びかかったわけでは……」
「近くを通っただけだ」
それでも結果として縄は切れ、板が倒れた。
危険がなかったわけではない。
だが、人を傷つけようとして起きたことなのかは別だ。
「もう一つ、気になることがある」
恒一郎が言うと、小夜がこちらを見る。
「灯りですか?」
「よく分かったな」
「昨夜から、そればかり見ていますから」
「なら、もう少し付き合ってくれ」
「もちろんです」
小夜は迷わず頷いた。
◇ ◇ ◇
倒れた板を片づけ、周囲には水路へ近づかないよう伝えた。
その後も祭りの準備は続いた。
やがて一日の作業が一段落し、境内から人が減る頃には、日は西へ傾いていた。
御池の周りにも少しずつ影が伸びている。
恒一郎は藤吉を呼んだ。
「まだ据えてない灯籠があったな」
「ありますが……使うんですか?」
「一つ借りたい」
藤吉は少し不安そうに水路を見た。
「また出てきますかね」
「出てくれば分かることがある」
「出てこなければ?」
「今日は分からない」
恒一郎が答えると、藤吉は一瞬黙ったあと、
「そりゃそうですね」
と頷いた。
灯籠を一基、水路のそばへ運ぶ。
周囲には人を近づけない。
残ったのは恒一郎、小夜、藤吉の三人だけだった。
灯籠に火を入れる。
傾いた日の光が残る中でも、水路脇の木陰には灯籠の明かりが届いた。
「小夜」
「はい」
「昨夜と同じように、灯りを見ててくれ。火じゃない。その周りだ」
「分かりました」
小夜は灯籠から少し離れ、安全な位置へ立つ。
藤吉も反対側へ下がった。
恒一郎は水路を見る。
しばらく何も起きない。
水が流れる音だけが続いた。
「……来ませんね」
藤吉が小声で言う。
その直後だった。
「待ってください」
小夜が灯籠を見つめる。
「少し……暗くなってませんか?」
火は燃えている。
だが、灯籠の周りに広がっていた明るさが、先ほどより狭い。
恒一郎も水際へ目を凝らした。
木の根元の影が揺れた。
黒い輪郭が、ゆっくりと水辺から浮かび上がった。
四足。
濡れた墨を獣の形へまとめたような姿。
長い尾が、煙のように揺れている。
「います」
小夜が声を潜めた。
「ああ」
黒い輪郭が水際を進んだ。
やがて灯籠の明かりが届く境目まで来ると、足を止める。
淡い青白い目が、一瞬こちらを掠めた。
だが、黒いものはこちらへは来ない。
身体の向きを変え、灯りの届かない木陰へ回ろうとする。
「藤吉」
「はい」
「灯籠をこっちへ寄せてくれ」
「え?」
「少しだけでいい」
藤吉が灯籠へ手を伸ばす。
「小夜はそのまま見てろ」
「はい」
灯籠が一間ほど横へ動いた。
明るくなる場所が変わる。
すると黒いものも止まった。
次いで、灯籠から遠ざかるように進路を変える。
そのまま灯りを避けるように、暗い方へ回り込んだ。
水路と木陰が重なる場所へ、するりと身体を滑り込ませた。
「……消えました」
小夜が呟く。
「いや」
恒一郎には、まだ見えていた。
黒い輪郭が水際を走り、さらに暗い方へ移っていく。
やがて足先が影へ溶け、尾も見えなくなった。
今度こそ、その姿は見えなくなった。
恒一郎は灯籠を見る。
火はまだ燃えていた。
狭くなっていた明るさも、少しずつ元へ戻っていく。
「どうでした?」
小夜が尋ねる。
恒一郎は黒いものが消えた木陰を見る。
「あいつは人を狙ってない」
小夜が目を瞬いた。
「やはり、そうなんですか?」
「ああ。俺たちがどこにいるかじゃない」
恒一郎は灯籠へ視線を移す。
「灯りがどこにあるかで動いてる」
小夜も灯籠を見る。
「灯りを……避けている?」
「そう見える」
昨夜も、今日も。
黒いものが向かった先には水辺の暗がりがあった。
そして今は、灯籠を動かした途端に進路を変えた。
「では、私たちを襲うつもりはないんでしょうか」
「少なくとも、そう見える」
小夜の表情が少し緩む。
だが、恒一郎は続けた。
「ただし、安全ってわけじゃない」
小夜が恒一郎を見る。
「あいつがいた場所には湿りが残る。縄も、通ったあとで切れた」
恒一郎は先ほど切れた縄へ目を向ける。
「昨日の灯籠台も、無関係とは言い切れない」
「人を襲わなくても、事故は起きる……」
「ああ」
小夜はまだ、水路から目を離さなかった。
「敵ではない。でも、このままにもできませんね」
「そういうことだ」
藤吉が頭を掻いた。
「退治すりゃ済むって話でもなさそうですね」
「そもそも退治できるものかも分からない」
「それもそうですか」
藤吉が苦笑する。
小夜はまだ何か考えていた。
やがて、小さく首を傾げる。
「でも……おかしいです」
「何がだ?」
「私は小さい頃から、この神社にいます」
小夜は御池の方を見る。
「水灯祭も毎年見ています。でも、こんなことは今まで一度もありませんでした」
恒一郎が小夜を見る。
「去年も?」
「はい」
「一昨年も?」
「ありません」
祭りは毎年ある。
御池も、水路も、昔からここにある。
黒いものがいつからいたのかは分からない。
だが、少なくとも小夜は、去年まで同じような異変を見たことがない。
「今年、去年までと違うことはあるか?」
「違うこと……」
小夜が考え込む。
少しして、境内に並ぶ灯籠へ目を向けた。
「灯籠は増えています」
「どれくらい?」
「祭りを少し大きくすることになって、御池の方にも例年より多く置く予定です。水路沿いにも」
恒一郎も境内を見る。
まだ準備途中だが、灯籠を置く場所はあちこちに増えている。
「それ以外は?」
「大きく変えたものは……すぐには思いつきません」
「なら、今のやり方だけ見てても足りないな」
「どういうことですか?」
「去年までどうしてたかを見る」
小夜が少し考え、頷いた。
「昔の水灯祭ですね」
「ああ」
「神社に古い記録があります。祭りのことがどこまで残っているかは分かりませんが」
「十分だ」
恒一郎は御池の奥へ目を向ける。
黒いものは、人を狙っているわけではない。
明るい場所を避けている。
ならば次に見るべきなのは、あれそのものではない。
「昔の祭りを調べよう」
今年になって、何が変わったのか。
答えは、今ではなく過去にあるのかもしれなかった。




