第36話 そっちじゃない
昨夜消えた灯籠は、朝になっても壊れてはいなかった。
恒一郎はしゃがみ込み、中を覗いた。
灯芯は残っている。油も空ではない。
風で消えたのなら、それだけの話だ。
だが昨夜は、火が消える前から光の届く範囲だけが縮んでいた。
「やはり、油切れではないですね」
隣にいた小夜が言った。
「ああ」
「では、昨日見たものが……?」
「まだ分からない」
恒一郎が立ち上がる。
藤吉も腕を組み、御池の方を見た。
「私は猫かと思ったんですがねえ」
「猫にしては大きかったです」
小夜がすぐに返した。
「それに……目も光っていました」
「小夜にも見えたのか?」
「はっきりではありません。でも、光ったのは……」
そこで小夜は口を閉じた。
昨夜のことを思い出したのだろう。
それでも御池から目は逸らさなかった。
恒一郎は灯籠の脇へ視線を落とす。
湿った土がある。
昨夜、あれを見た辺りだった。
朝露というには、そこだけ濡れ方が妙だ。
少し先の木杭も、根元だけ水を含んだように色が濃い。
「藤吉」
「はい」
「昨日、この辺りに水を撒いたか?」
「いえ。御池のそばですから多少湿ってはいますが、わざわざ撒いてはいません」
恒一郎はしゃがみ、指先で土に触れた。
ぬかるむほどではない。
だが、周囲より明らかに湿っている。
「昨日、あれを見た辺りと重なるな」
小夜も足元を見た。
「では、あれが関係しているんでしょうか」
「そこまではまだ言えない」
「……そうですね」
小夜は素直に頷いた。
御池の周りに注意しながら、祭りの準備はそのまま続けられた。
境内には朝から人が出入りし、灯籠や飾りの準備が進んでいく。
日が高くなる頃には、子供たちの姿も増えていた。
「そちらへ入ってはいけませんよ!」
小夜の声が飛ぶ。
資材の脇を抜けようとしていた子供が、びくりとして立ち止まった。
「でも、近道だよ」
「近くても駄目です。板も縄も置いてありますから」
「はーい」
不満そうに返事をしながらも、子供は素直に引き返す。
小夜はそれを見届けてから、小さく息を吐いた。
「よく見てるな」
恒一郎が言うと、小夜が振り返った。
「見ていないと、何をするか分かりませんから」
「昨日も子供を追いかけてたな」
「昨日の子とは違います」
「そうか」
「そうです」
少しだけむっとした顔をしてから、小夜はまた仕事へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎた頃だった。
御池から流れ出す細い水路の脇で、子供たちが数人遊んでいた。
水路沿いには、灯籠台に使う長い板が何枚も立て掛けてあった。
倒れないよう、木杭に縄で括って仮置きしてあった。
「あっ」
子供の一人が声を上げた。
手にしていた小さな木札が転がり、水路の方へ落ちた。
祭りで使うものらしく、赤い紐が結ばれている。
「待って!」
少年が追いかける。
「そっちは――」
小夜が声を上げた時には、少年は板のそばまで入り込んでいた。
少年が屈み込む。
その時だった。
水路脇の木陰で、何かが動いた。
小夜の顔色が変わる。
「……昨日の」
黒いものが、影から滑り出した。
四足。
犬ほどの大きさ。
濡れた墨が獣の形になったようで、足先や尾の輪郭だけが煙のように揺らいでいる。
「なんだ、あれ!」
誰かが叫んだ。
黒いものが走った。
少年の方へ。
「危ない!」
小夜が駆け出した。
「小夜!」
恒一郎が呼ぶ。
小夜は一瞬だけこちらを見た。
その顔は強張っていた。
それでも足は止まらない。
「子供がいます!」
そのまま少年へ向かう。
周囲では、大人たちも黒い獣へ気づき始めていた。
「犬か!?」
「坊主、逃げろ!」
違う。
恒一郎は黒いものを見た。
少年へ向かっているように見える。
だが、その目は少年を追っていない。
その先にあるのは水路だ。
身体もわずかに斜めを向いている。
恒一郎の視線が、その進路へ移った。
木杭。
板を括っている縄。
朝に見たものと同じように、毛羽立っている部分がある。
そのまま黒いものが抜ければ――。
「小夜、右へ!」
小夜が即座に進路を変えた。
「その子をこっちへ!」
少年はまだ木札へ手を伸ばしている。
「こっちです!」
小夜が少年の腕を掴み、自分の側へ引き寄せた。
黒いものが迫る。
少年がようやくそれに気づいた。
「ひっ……!」
黒い影が地面を滑る。
小夜が少年を庇うように身を捻った。
その手前で、黒いものの身体がわずかに曲がった。
次の瞬間。
黒いものが木杭の脇を抜ける。
縄が切れた。
「小夜、伏せろ!」
小夜が少年を胸元へ抱え込み、そのまま身を低くする。
立て掛けてあった板が大きく傾いた。
恒一郎は駆け込み、倒れかけた板へ肩を当てる。
そのまま人のいない側へ押しやり、倒れる向きを変えた。
「今だ、出ろ!」
「はい!」
小夜が少年を連れて脇へ抜ける。
板が地面へ落ち、激しい音を立てた。
その間に、黒いものは水路の方へ走っていた。
足先が水辺の影と重なる。
一瞬だけ、目の位置に淡く青白いものが浮かんだ。
次にはもう、どこにいるのか分からなかった。
「大丈夫ですか!」
小夜が少年を下ろし、肩や腕を確かめている。
少年は顔を真っ青にしていたが、怪我はなかった。
「どこか痛いところは?」
少年が首を横に振る。
「本当に?」
「……うん」
「よかった」
小夜が大きく息を吐いた。
そこへ藤吉たちも駆けてきた。
「小夜! 怪我は?」
「ありません。この子も大丈夫です」
周囲からも安堵の声が漏れる。
一方で、別の声も上がった。
「今の、あの子に飛びかかったぞ」
「やっぱり獣じゃないのか?」
「いや、あんな獣、見たことないぞ」
小夜が水路の方を見た。
その肩には、まだわずかに力が入っていた。
「怖かったか」
恒一郎が尋ねると、小夜は少し黙った。
「……はい」
誤魔化さなかった。
「昨日のものだと思ったら、足が止まりそうになりました」
「止まらなかったな」
「子供がいましたから」
「なら十分だ」
小夜は一瞬、恒一郎を見た。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「恒一郎様は、そればかりですね」
「そうか?」
「そうです」
小夜は少年へ向き直った。
「もう水路のそばへ勝手に入ってはいけませんよ」
「……はい」
恒一郎は、切れた縄の方へ歩いた。
手に取る。
濡れている。
朝に見た時より、湿り気が増している。
「恒一郎様」
小夜が後ろから声を掛けた。
「あれは……あの子を襲おうとしたんでしょうか」
恒一郎は答えず、水路を見る。
黒いものが現れた場所。
少年がいた場所。
そして、消えていった場所。
確かに、少年へ向かって走ったようには見えた。
だが、あの動きが引っかかる。
「……妙だな」
「何がですか?」
恒一郎は、水路の奥へ目を凝らした。
「あいつがあの子を狙ってたなら――」
少し間を置く。
「今の動きは、少しおかしい」




