第35話 灯りの向こうにいるもの
倒れた灯籠台の片付けが終わる頃には、日もだいぶ傾いていた。
藤吉は境内に残っていた男たちへ声をかけ、祭りの準備を切り上げさせる。
「今日はここまでにしましょう。続きは明日に」
昼間の事故を見た後では、反対する者もいなかった。
道具をまとめ、材木を端へ寄せ、一人、また一人と鳥居の向こうへ消えていく。
小夜は最後まで境内を回り、灯籠台や縄を確かめていた。
「そっちはもう見たぞ」
「でも、念のためです」
小夜は木組みに手をかけ、もう一度押してみる。
「全部見て回るつもりか?」
「全部は無理です。なので、見られるところだけです」
「ならいい」
小夜が少し意外そうに振り返る。
「止めないんですね」
「無理だと言えるならな」
「志堂さんも、ずっと見てますけど」
「俺はそのために残った」
「それなら、私も同じです」
どうやら負けず嫌いでもあるらしい。
恒一郎は返さず、昼間に灯籠台が倒れた場所へ目を向けた。
沈んだ土台の跡はそのまま残っている。
一角だけ柔らかくなった土。
地面に触れていた木へ残った水気。
そして、少し離れた場所にあった同じような湿り。
改めて見ても妙だった。
誰かが水を撒いたのなら、もっと痕跡が残る。
何かを運んだ形でもない。
足跡もない。
それでも、水だけがそこにあった。
答えが出ないまま、境内から人の声が消えていった。
◇ ◇ ◇
日が落ちると、水守神社は昼とは別の場所のようになった。
静かだった。
昼間は木槌の音や話し声、子供の声まで絶えなかった境内に、今は水の流れる音がよく聞こえる。
御池の水面が、残された灯りをゆらゆらと映していた。
祭り本番ほどではないが、境内にはいくつか灯籠が置かれている。
参道にも、御池のそばにも。
藤吉がそれらへ火を入れて回った。
「普段も、こんな時間までいるのか?」
恒一郎が尋ねると、小夜は御池の縁へ目を向けたまま答えた。
「祭り前ならあります。でも、今日は少し違いますね」
「怖いか?」
小夜がこちらを見る。
「……怖くないと言ったら、嘘になります」
少し考えてから続ける。
「でも、何が起きているか分からない方が嫌です」
「そうか」
「志堂さんは怖くないんですか?」
「何がいるかも分からないうちは、怖がりようがない」
「そういうものですか?」
「少なくとも俺はな」
小夜が何か言いたそうにした、その時だった。
「……あれ?」
小夜が御池の近くを見た。
恒一郎も視線を向ける。
一基の灯籠が、妙に暗い。
藤吉が眉を寄せた。
「風でしょうか」
近づこうとした藤吉へ、恒一郎は手を上げる。
「待ってくれ」
藤吉が足を止めた。
恒一郎は灯籠を見る。
灯芯には、きちんと火がある。
揺れてはいるが、消えかけているわけではない。
油が尽きた様子もない。
それなのに――暗い。
「火はついてるな」
「え?」
小夜が目を凝らす。
普通なら、灯籠の周囲へ柔らかな明かりが広がる。
だが、その一基だけ違った。
火のすぐそばまでは明るい。
そこから先が、妙に暗い。
まるで光が途中で途切れている。
「……本当だ」
小夜が小さく呟いた。
「火は燃えてるのに……」
小夜は横へ動き、隣の灯籠と見比べる。
「風なら、こっちも揺れるはずです」
隣の灯籠は変わらず周囲を照らしている。
藤吉もそちらを見る。
「油も灯芯も同じものです。今日入れたばかりですし……」
「触るな」
恒一郎が言った。
小夜が振り返る。
「何か分かったんですか?」
「いや」
恒一郎は暗くなった灯籠の周囲を見る。
「だから触らない方がいい」
何が起きているか分からない。
なら、余計なことをしない方がいい。
しばらく三人で見ていた。
やがて、最初の灯籠の明かりが少し戻った。
「……戻りました?」
「ああ」
その直後だった。
少し離れた御池沿いの灯籠が暗くなった。
三人とも、今度はすぐに気づいた。
小夜の顔から表情が消える。
「今度は、あっち……」
藤吉が息を呑んだ。
「あちらまで……」
「火が弱ったんじゃない」
恒一郎は二つの灯籠を見比べる。
「暗い方が移った」
言葉にすると、なおさら妙だった。
暗さが移る。
そんなものがあるはずはない。
だが、目の前ではそう見える。
恒一郎は御池の縁へ視線を走らせた。
水面。
石。
灯籠。
その間にある暗がり。
「……志堂さん」
小夜の声が低くなる。
「今、何か動きませんでした?」
「どこだ」
「あそこです。池の向こう」
小夜が指す。
黒い何かが、水面のそばを横切った気がした。
藤吉も目を細める。
「猫でしょうか」
恒一郎は答えなかった。
見えていた。
いや。
見えかけている。
水辺の影の中に、周囲とは違う何かがある。
黒い。
だが、ただの影ではない。
動いている。
「二人とも、そこにいろ」
恒一郎が言った。
「志堂さん?」
「近づくな」
小夜は一歩出かけた足を止めた。
「何か見えるんですか」
「まだ分からない」
恒一郎は目を離さない。
黒いものが御池沿いを進む。
四足。
大きさは犬ほど。
だが犬ではない。
輪郭が妙だった。
背や脚は確かにそこにあるのに、足先が地面へ溶けるように曖昧になる。
尾らしきものが長く伸びていた。
風もないのに、煙のように揺れている。
少なくとも、恒一郎の知るどんな獣とも違っていた。
「……何だ、あれは」
黒いものが、暗くなった灯籠のすぐそばを横切る。
その瞬間。
灯りが、さらに縮んだ。
火はまだある。
小さく揺れる炎だけが、灯籠の中に浮かんで見える。
なのに、その明るさが周囲へ届かない。
小夜が息を呑んだ。
「暗く……」
ふっと。
火が消えた。
境内の一角が、闇へ沈む。
その闇の中で、何かが止まった。
恒一郎には見えた。
四足の黒い輪郭。
水に濡れた影のような身体。
そして――。
二つの目だけが、淡く青白く光っている。
一瞬、こちらを見た。
小夜が小さく息を呑む。
「今……何か、光りませんでしたか?」
次の瞬間、黒いものは御池の奥へ駆けた――ように見えた。
水辺の影と重なり、輪郭が崩れる。
そして、そのまま暗がりへ溶けた。
残ったのは、消えた灯籠と、水の音だけだった。
藤吉がしばらく言葉を失っていた。
小夜も御池を見つめている。
「志堂さん」
「ああ」
「何がいたんですか?」
恒一郎は、黒いものが消えた暗がりから目を離さなかった。
「分からない」
人でもない。
見慣れた獣でもない。
それだけは分かる。
恒一郎は消えた灯籠を一度見てから、再び御池へ視線を戻した。
「ただ――何かいる」




