第34話 そこには乗らないで
翌日、恒一郎は水路の多い町外れを抜け、水守神社へ向かった。
鳥居をくぐると、境内では水灯祭の準備が進んでいた。
木材や縄が運び込まれ、男たちが祭り用の灯籠台を組んでいる。大人の背丈ほどある頑丈な木組みで、上には一基ずつ灯籠が据えられていた。
巫女たちも祭具を抱えて行き来し、あちこちから木槌の音が響いている。
「志堂さん」
声をかけてきたのは、昨日訪ねてきた禰宜の藤吉だった。
「お待ちしておりました」
「ああ。ずいぶん忙しそうだな」
「祭りが近いものですから。ただ、例の件のせいで予定より手間取っております」
藤吉が困ったように境内へ目を向ける。
「まずは昨日壊れた場所を――」
「そこ、乗らないでください!」
若い女の声が響いた。
恒一郎と藤吉が振り向く。
祭り用の灯籠台のそばで、五、六歳ほどの男の子が積まれた材木へ足をかけていた。
そこへ白い小袖に緋袴姿の巫女が駆け寄る。
袖はたすき掛けにされ、低い位置で結ばれた黒髪が背で揺れた。
巫女は男の子の前へしゃがみ込む。
「そこは作業に使う材木です。危ないですから、遊ぶなら向こうへ行ってください」
「でも、灯籠見たかった」
「祭りの日なら、もっとたくさん見られます」
「ほんと?」
「本当です。だから今日は我慢してください」
そう言って笑うと、それまで不満そうだった男の子も素直に頷いた。
巫女はその子が離れていくまで見送ってから、灯籠台へ戻る。
木組みを押し、縄を確かめ、ぐらつきがないか見ていく。
「小夜」
藤吉が呼ぶ。
巫女が振り返った。
「はい」
「こちらが昨日話した志堂さんだ」
小夜は恒一郎を見た。
顔まわりに残した黒髪が、作業のせいか少し乱れている。
整った顔立ちだが、まず目につくのは真っ直ぐな目と眉だった。
「小夜です。こちらで巫女をしています」
「志堂恒一郎だ」
小夜が軽く頭を下げる。
「橘屋さんのお屋敷で、妙なことを見抜いた方だと聞いています」
「何でも見抜けるわけじゃない」
「……そうなんですね」
小夜の眉がわずかに上がった。
藤吉が咳払いをする。
「小夜。志堂さんに壊れた場所を見ていただく。お前も一緒に来てくれ」
「分かりました」
小夜はすぐに頷いた。
◇ ◇ ◇
最初に案内されたのは、境内の端に据えられた灯籠台だった。
「昨日の夕方、これが外れました」
台はすでに組み直されている。
恒一郎はしゃがみ込み、木組みや縄を順に見た。
腐りも大きな割れもない。
縄の締め方にも、目立った不備は見当たらなかった。
「職人には?」
「見てもらいました。不備はなかったと言われております」
「私も今朝、確認しました。今はぐらつきもありません」
恒一郎は土台の一角へ目をやった。
見た目には、もう乾いている。
だが、木の表面には、そこだけ一度水気を含んだ痕跡が残っていた。
「外れた時、ここは濡れてたのか?」
小夜が少し目を見開く。
「はい。外れた時は濡れていました」
「水を撒いた覚えは?」
「ありません」
「雨も降ってないな」
「はい」
藤吉が首を傾げる。
「御池が近いせいでしょうか」
恒一郎は台から御池の方を見た。
「それなら、ここだけ濡れるのは妙だな」
立ち上がる。
「次を見せてくれ」
二か所目は、切れた縄だった。
刃物で断った跡はない。繊維が弱って千切れている。
恒一郎は断面を指でなぞった。
「これ、切れた時は濡れてたか?」
「はい。触ったら水気がありました」
小夜が答える。
二つとも水気があったとなると、偶然では片づけにくい。
恒一郎は縄を藤吉へ返した。
「小夜ー」
別の女の声がした。
三十ほどの巫女が、祭具を抱えてこちらへ歩いてくる。
「これ、社務所までお願いできる?」
「はい、お紗江さん」
小夜が受け取ろうとした時だった。
「母上!」
境内の向こうから、幼い男の子が駆けてくる。
お紗江が振り返った。
「あら。迎えに来たの?」
「うん。父上が、そろそろ帰ってこいって」
「あら、もうそんな刻?」
お紗江は苦笑し、男の子の頭を撫でた。
それから小夜へ祭具を渡す。
「悪いけど、残りお願いね。この子と帰るから」
「大丈夫です」
「またそうやって何でも引き受ける」
「これくらいなら平気です」
「その台詞、あんまり信用できないのよねえ」
「お紗江さん」
小夜が少し眉を寄せる。
お紗江は楽しそうに笑った。
「じゃあ、頼んだわよ」
息子の手を引いて去っていく。
小夜は何事もなかったように祭具を抱え直した。
「次はどこですか?」
藤吉へ向けた声は、もう仕事のものに戻っていた。
◇ ◇ ◇
壊れた場所も、壊れ方もそれぞれ違う。
ただ、不自然な水気だけが妙に引っかかった。
少し先では、男たちが別の灯籠台を据え終え、余った木材や縄を脇へまとめている。
近所の子供たちが、その様子を離れたところから眺めていた。
そのうち一人が、積まれた木材の間へ入り込む。
「そこへ入らないでください!」
小夜がすぐに駆け出した。
資材のすぐ横には、据えたばかりの灯籠台が立っている。
その瞬間、恒一郎の目が灯籠台を捉えた。
土台の一角が沈む。
「小夜、右だ!」
小夜が反射的に身を振った。
直後、背の高い灯籠台が子供のいる側へ倒れ込む。
小夜は資材の間へ手を伸ばし、子供を抱き寄せた。
恒一郎も駆け込み、小夜の腕を掴んで引く。
ガタン、と重い音を立てて灯籠台が地面を打った。
境内が静まり返る。
幸い、まだ火は入っていない。
子供にも怪我はなかった。
「大丈夫ですか?」
小夜はすぐにしゃがみ、子供の手足を確かめる。
「どこか痛くない?」
「う、うん」
「本当に?」
「平気」
そこでようやく小夜が息を吐いた。
「よかった……」
子供が近くの大人に連れられて離れていく。
小夜は立ち上がると、倒れた台を見た。
それから恒一郎へ向き直る。
「……どうして分かったんですか?」
「傾いたのが見えた」
「私は、あの子しか見てなくて……」
「見てたから助かった」
「でも、台までは……」
「そこは俺が見た。お前は子供を見た。それでいい」
小夜が口を閉じる。
「怪我もなかった。それで十分だ」
「……それは、別の話です」
小夜は少しだけ視線を逸らした。
藤吉たちも倒れた台へ集まってくる。
「これは……」
藤吉の顔が青ざめる。
「今朝、据えたばかりです。職人も確認しております」
「私も見ました」
小夜がすぐに言う。
「ぐらつきはありませんでした」
恒一郎はしゃがんだ。
土台の一角だけが地面へ沈んでいる。
指先で触れると、土は柔らかく湿っていた。
その周りは乾いている。
「またか」
藤吉もしゃがみ込む。
「水をこぼしたのでしょうか」
「だとしても、ここだけなのは妙だな」
恒一郎は倒れた木組みを見る。
地面に触れていた部分にも水気が残っている。
藤吉の表情が固くなった。
「昨夜も見張りは置いております。怪しい者は見ていません」
恒一郎は立ち上がった。
人がやった可能性が消えたわけではない。
だが、やり方が妙だった。
「今夜も準備はするのか?」
「日が落ちるまでは続ける予定でした。ただ、今のようなことがまた起きるなら……」
「日が落ちてからも、私が残ります」
小夜が言った。
「小夜」
藤吉が眉をひそめる。
「今日も起きるのなら、見ておいた方がいいです。何も分からないまま祭りの日を迎えるわけにはいきません」
「しかし――」
「気をつけます」
藤吉が口を開きかける。
だが、小夜はもう倒れた台へ目を戻していた。
「なら、俺も残る」
小夜がこちらを見る。
「志堂さんも?」
「そのために来たんだろ」
一瞬、小夜は黙った。
それから小さく頷く。
「……お願いします」
恒一郎はもう一度、倒れた灯籠台へ目を向けた。
土台の一角だけが濡れている。
その少し先にも、周囲とは違う湿った土がある。
「何かありましたか?」
小夜が尋ねる。
「いや」
恒一郎は静かな御池を見る。
昼の光を反して、水面が揺れていた。
「今のところは、まだ分からない」
問題が起きるのは、日が落ちてからだという。
なら、見るべきはこれからだった。




