第33話 祭りの日は空けておいて
「もうすぐ水灯祭ね」
朱莉が茶を淹れながら言った。
長火鉢に掛けた鉄瓶から、細く湯気が上がっている。
昨日までなかった急須や湯呑みも、もうすっかり朱莉の手に馴染んでいた。本人は当然の顔で干菓子を一つ摘まんでいる。
「それ、俺のじゃないのか」
「あら。買ったのは私よ」
「ここは俺の家だぞ」
「じゃあ、家主としてお茶くらい出してくれる?」
恒一郎は朱莉の前に置かれた湯呑みを見た。
もう自分で淹れている。
「それで、水灯祭って何だ?」
「知らないの?」
「知らないから聞いてる」
「水守神社のお祭りよ。この辺じゃ、みんな楽しみにしてるわ」
朱莉は湯呑みを手にした。
「日が暮れると、神社や水辺にずっと灯りが並ぶの。露店も出るし、町中から人が来るわ」
「ずいぶん賑やかそうだな」
「賑やかよ。千代なんて、もう何を着ていくかで騒いでるもの」
「その日は休めるのか」
「祭りの日くらい、お辰も少しは融通を利かせるわよ」
「そうか」
「私も行くから」
恒一郎が湯呑みを置いた。
「誰と?」
「あなたと」
「もう決まってるのか」
「今決めたわ」
朱莉は何でもないことのように言った。
「水灯祭の日、空けておいて」
「俺の予定は聞かないのか」
「嫌なの?」
「嫌とは言ってない」
「なら決まりね」
朱莉が満足そうに茶をすすった。
「祭りの日は、少し早く来て」
「花街へ?」
「そう。そこから一緒に行きましょう」
「分かった」
「忘れないでよ」
「忘れない」
その返事に満足したのか、朱莉が二つ目の干菓子へ手を伸ばした。
そのとき、表から声がした。
「ごめんください」
恒一郎と朱莉が顔を見合わせる。
「お客さん?」
「そうみたいだな」
恒一郎が立ち上がり、戸を開けた。
四十を少し越えたくらいの男が立っていた。派手さのない身なりだが、きちんとした物腰をしている。
「志堂恒一郎様のお宅で間違いございませんか」
「そうだが」
「水守神社より参りました。藤吉と申します」
「神社から?」
背後で朱莉が小さく笑った。
「噂をすればね」
藤吉は何のことか分からないらしく、わずかに首を傾げた。
恒一郎は男を中へ通した。
まだ座布団もない座敷で、二人は向かい合って腰を下ろす。
朱莉が茶を出すと、藤吉は恐縮した様子で一礼してから湯呑みへ手を伸ばした。
「水守神社で禰宜を務めております。祭りの準備も取り仕切っておりまして、橘屋の伊兵衛様より志堂様のお話を伺いました」
「橘屋から?」
「はい。困ったことがあるなら、一度相談してみるとよいと」
「それで、何があった」
藤吉は湯呑みを置き、姿勢を正した。
「水灯祭の準備で、少々困ったことが続いております」
「困ったこと?」
「祭りに使う灯籠を据える台が外れたり、吊り縄が切れたりしておりまして」
「古くなってるんじゃないのか」
「私どもも、最初はそう思いました。職人にも見てもらい、傷んだ物は替え、緩んだところも直しております」
「それでも?」
「はい。直したばかりの台が傾いたり、別の場所では新しい縄が切れたりしております」
藤吉の表情がわずかに曇る。
「昨日は灯籠を運んでいた者が足を滑らせ、危うく水へ落ちかけました」
「怪我は?」
「擦り傷程度です。幸い、大事には至っておりません」
「誰かの悪戯は疑ったか」
「もちろんです。見張りも置きました。ですが、それらしい者は誰も」
「祭りの準備なら、人の出入りは多いんだろう」
「ええ。町の者も職人も出入りしますので、完全に締め出すわけにはいきません」
恒一郎は少し考えた。
誰かが人目を盗んで細工している可能性はある。
職人が気づいていない傷みや、作業のやり方そのものに問題があることも考えられた。
今の話だけでは、原因までは絞れない。
「実際に見ないことには分からないな」
藤吉がほっとしたように息をついた。
「では、一度お越しいただけますか」
「明日でいいなら行く」
「ありがとうございます」
「ただ、見れば何でも分かると思われても困るぞ」
「承知しております。まずは一度見ていただければ、それで」
藤吉は頭を下げた。
「御礼も神社からきちんとお支払いいたします」
「それならいい」
用件は決まった。
藤吉は残っていた茶を飲み干し、立ち上がった。
恒一郎が戸口まで送る。
外へ出た藤吉が、一歩進んだところで足を止めた。
「……ああ、そうでした」
「何だ?」
藤吉が振り返る。
「一つだけ、気になることがありまして」
「気になること?」
「こうしたことが起きるのは、なぜか日が落ちてからばかりなんです」
恒一郎は藤吉を見た。
「昼間には?」
「今のところ、一度もありません」
「分かった。明日、現場で見よう」
「よろしくお願いいたします」
藤吉が頭を下げ、帰っていった。
戸を閉めて座敷へ戻ると、朱莉は先ほどと変わらず茶を飲んでいた。
「祭りを見る前に、水守神社へ行くことになったわね」
「そうらしい」
「祭りの日までに、ちゃんと終わらせておいてね」
「まだ何が起きてるのかも分からないぞ」
「あなたなら見えるでしょう?」
「買いかぶるな」
「そうかしら」
朱莉はまるで心配していない顔で、残っていた干菓子を口へ運んだ。
恒一郎は湯呑みを手に取る。
さっきの藤吉の言葉が、少し引っかかっていた。
壊れるのは、日が落ちてからばかり。
明日は、水守神社へ行く。




