第32話 盗まれたとは限らない
朝。
借りたばかりの家の座敷で、朱莉が辺りを見回していた。
花街で客を迎えるときの華やかな装いではない。落ち着いた色の着物に、髪も簡素にまとめている。飾りもほとんどなかった。
「暮らせはするけど、まだずいぶん殺風景ね」
「昨日借りたばかりだからな」
「寝間は?」
「奥だ」
朱莉は立ち上がると、遠慮なく奥を覗きに行った。
「お布団はあるのね」
「寝るところまでなかったら、家を借りた意味がないだろう」
「そう。じゃあ、困らないわね」
戻ってきた朱莉は、どこか満足そうに座った。
そのとき、戸を叩く音がした。
「朝から誰かしら」
「さあな」
恒一郎が表へ出ると、身なりのいい五十前後の男が立っていた。
「志堂恒一郎さんのお宅はこちらでしょうか」
「そうだが」
男はほっとしたように頭を下げた。
「私は橘屋という呉服商の主人で、伊兵衛と申します。お辰さんに、こちらの場所を教えていただきまして」
「またお辰か」
「はい?」
「いや、何でもない。入ってくれ」
恒一郎は伊兵衛を座敷へ通した。
伊兵衛はそのまま畳へ腰を下ろす。
朱莉が顔を上げた。
「あら、橘屋さん。こんにちは」
「これは朱莉さん。まさかこちらにいらっしゃるとは」
「ちょっと家を見に来ただけよ」
朱莉はそう言って立ち上がった。
「お茶、出すわね」
「まだ茶はないぞ」
朱莉の足が止まった。
「……お茶もないの?」
「昨日借りたばかりだからな」
「本当に寝るだけの家ね」
「布団はある」
「それはさっき見たわ」
朱莉は呆れたように息をつき、座り直した。
長火鉢と鉄瓶はあるが、茶を出せるようなものはまだ何もない。
恒一郎は伊兵衛へ向き直った。
「悪いな。まだ何も出せない」
「いえいえ、お構いなく」
「それで、用件は?」
「実は……盗人を見つけていただきたいのです」
伊兵衛の顔が引き締まった。
「店の蔵から、反物が何本かなくなっておりまして」
「盗まれたと決まっているのか?」
「……どういうことでしょう」
「物が足りないのと、盗まれたのは別だろう」
伊兵衛は言葉に詰まった。
「最初は二本だと思っていたのですが、改めて調べると、足りないのは三本でした」
「同じ反物?」
「似たものもありますが、すべて同じではありません」
「蔵に入るのは?」
「私と番頭、それから手代が三人。荷が入る日は下働きの者も入ります」
「帳面をつけるのは誰だ」
「主には番頭です。ただ、忙しいときは手代にも任せています」
「反物を動かすのは?」
「それも番頭か手代が」
「分かった」
恒一郎は少し考えた。
「見てみよう」
伊兵衛の表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
「その前に、礼はいくらだ?」
伊兵衛が少し驚いた顔をした。
だが、すぐにうなずく。
「解決いただけましたら、二分でいかがでしょう」
二分。
この家のひと月分の家賃に近い額だった。
「それなら引き受ける」
「はい」
朱莉が横で小さく笑った。
「ちゃんとしてるじゃない」
「何がだ」
「別に」
伊兵衛が立ち上がる。
「では、さっそく店へ」
恒一郎も腰を上げた。
朱莉を見る。
「どうする?」
「私はもう少しここにいるわ」
「何もないぞ」
「知ってる」
朱莉は涼しい顔をしている。
「戻ってくる?」
「仕事が終わればな」
「そう。じゃあ待ってる」
恒一郎は一瞬だけ朱莉を見た。
「好きにしてろ」
「そうする」
伊兵衛は、何も言わず目を逸らした。
◇ ◇ ◇
橘屋は花街から少し離れた大通り沿いにあった。
間口の広い店で、奥には蔵が二つ並んでいる。
恒一郎が案内されると、店の者たちはちらちらと互いの顔を窺っていた。
伊兵衛が番頭たちを集めようとする。
「いや、先に蔵を見せてくれ」
「人を調べなくてよろしいのですか?」
「まだ盗人がいると決まってない」
蔵の中には、反物を包んだ荷が棚ごとに並べられていた。
一見すれば整っている。
だが、恒一郎の目には細かな違いがいくつも浮かんだ。
棚板の一部に、他より新しい擦れ。
包みの角についた、ごく薄い湿り跡。
同じ場所へ置き直したような布のずれ。
そして、一番奥の棚だけ荷の並び方が妙に不揃いだった。
恒一郎は近づき、棚を見た。
「この辺り、最近動かしたか?」
伊兵衛が首を傾げる。
「さあ……」
後ろにいた番頭が答えた。
「五日ほど前に、奥の壁が少し湿っておりましたので、いくつか荷を移しました」
「どこへ?」
「あちらの棚へ」
「帳面には?」
番頭の顔が曇る。
「……移したことまでは、書いておりません」
「なぜ」
「品そのものが増減したわけではございませんので」
恒一郎は移した先の棚へ向かった。
同じ商い先から届いた荷が、似た札ごとまとめて積まれている。
見た目だけでは、どれもほとんど同じだった。
恒一郎はそのうち二つに手を伸ばす。
「これと、これ。開けてくれ」
番頭が包みを解く。
中から出てきたのは、伊兵衛が足りないと言っていた銘柄の反物だった。
「……あった」
伊兵衛が目を見開く。
「こちらもです」
番頭も声を上げた。
「湿気を避けて移したとき、似た荷と一緒に積んだんだろう」
伊兵衛が息を呑む。
「帳面に移した先が残ってない。これじゃ、元の棚ばかり探せば見落とす」
「では、盗人はいなかったと」
「いや。まだ一本足りない」
安堵しかけた空気が止まった。
恒一郎は蔵の中をもう一度見回した。
今度は棚ではなく、床際へ目を向ける。
荷造り用の布や縄がまとめて置かれている。
その中に、細い糸が一本混じっていた。
濃い藍色。
棚にある反物の一つと、よく似た藍だった。
さらに、蔵の出口近くの柱の低い位置に、ごく薄く藍色の繊維が引っかかっている。
その下には、乾いた泥の跡。
恒一郎はしゃがみ込み、指先で確かめた。
「この藍の反物、店の外へ出したことはあるか?」
番頭が首を振る。
「いいえ。行き先の決まった品で、まだ店からは出しておりません」
「七日ほど前、雨は降ったか?」
「ええ。昼前に少し」
恒一郎は立ち上がった。
「手代を呼んでくれ」
三人の手代が呼ばれた。
いずれも若い。
恒一郎は順に顔を見た。
「この藍の反物を運んだことがあるのは?」
二人が首を振る。
一人だけ、答えが遅れた。
「……あります」
二十歳そこそこの若者だった。
「いつ?」
「七日ほど前に」
「どこへ運んだ」
「蔵の奥から、表側へ」
「途中で何かあったか?」
「……いえ」
視線が落ちた。
恒一郎は少し間を置いた。
「荷を落としたか」
若者の肩が震えた。
「……」
「柱に擦った跡がある。その下には泥も残ってる」
伊兵衛が若者を見る。
「お前……」
恒一郎は続ける。
「盗ったんじゃないな」
若者が勢いよく顔を上げる。
「違います!」
「なら、駄目にして隠した」
若者の顔から血の気が引いた。
「……す、すみません」
膝が崩れる。
「運んでいるとき、手を滑らせて……柱にぶつけて、そのまま外へ落としてしまいました」
「それで?」
「端に泥がついて……旦那様に叱られるのが怖くて……」
「どこへやった」
「裏の物置へ……」
伊兵衛が怒鳴りかける。
恒一郎が先に言った。
「叱るのは好きにすればいい」
伊兵衛が止まる。
「ただ、こいつは盗人じゃない」
「ですが、隠したのですよ!」
「失敗を隠した。それは間違いない」
恒一郎は若者を見る。
「帳面もそのままにしたんだな」
「……はい」
「だから一本だけ、あることになったまま消えた」
伊兵衛は額に手を当てた。
「まったく……」
裏の物置を調べると、すぐに反物は見つかった。
端には泥汚れがついていた。
切り落とせば使えなくもないが、上等品として売るのは難しい。
伊兵衛は深くため息をついた。
「盗人騒ぎまでして、これとは……」
「今のうちに分かってよかったじゃないか」
「よかった?」
「このままなら、次に本当に何かなくなったときも分からない」
伊兵衛は蔵を見回し、苦い顔でうなずいた。
「……おっしゃる通りです」
「荷を動かしたら、その場で帳面にも残した方がいい」
「はい」
「誰が動かしたかも分かるようにしておけば、次はもっと早く気づける」
番頭が何度もうなずく。
「肝に銘じます」
伊兵衛は若い手代を睨んだ。
「お前の話は後だ」
「……はい」
恒一郎はそれ以上口を出さなかった。
店を出る前、伊兵衛は約束通り二分を差し出した。
「これでよろしいので?」
「約束はそれだろう」
「もっとお渡ししてもよいくらいですが」
「次に頼むことがあれば、そのとき払ってくれ」
伊兵衛は笑った。
「では、またお願いすることになるかもしれません」
「内容による」
「はは。お辰さんから聞いた通りのお方だ」
「何を聞いたんだ」
「それは内緒にしておきましょう」
伊兵衛はさらに言った。
「困っている知り合いがおりましたら、志堂さんを紹介してもよろしいですか?」
恒一郎は少し考えた。
「話を聞くくらいならな」
「承知しました」
伊兵衛は満足そうに頭を下げた。
◇ ◇ ◇
家の前まで戻ると、足音に気づいたのか、戸が開いて朱莉が顔を出した。
「終わった?」
「ああ」
朱莉は恒一郎の顔を見る。
「その顔なら、ちゃんと片づいたみたいね」
「まあな」
座敷に入ると、朝にはなかったものがいくつか増えていた。
急須に湯呑み、茶の包み。それから、もう一つ小さな包み。
長火鉢には鉄瓶が掛かり、湯気を立てている。
「……増えてるな」
「最低限よ」
「買ってきたのか?」
「お茶くらい飲めないと困るでしょう」
「助かる」
「そう言うと思った」
朱莉は湯を急須へ注いだ。
「で?」
「何がだ」
「ちゃんとお金は取った?」
恒一郎は懐から受け取った金を出し、畳の上へ置いた。
「取った」
朱莉が満足そうにうなずく。
「なら上出来」
「誰目線だ」
「せっかく家まで持ったのに、ただ働きじゃ格好つかないでしょう」
「それはそうだな」
朱莉は茶を差し出し、それからもう一つの包みを開いた。
中には干菓子が入っていた。
「茶だけじゃなかったのか」
「ついでよ」
恒一郎は一つ手に取った。
朝より少しだけ、暮らしている家らしくなっていた。
悪くない。
恒一郎は茶をすすった。




