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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第二章 祭りの夜に、怪異を見る

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第31話 まずは、自分の家を持つ

 宗兵衛の一件が片づいてから、数日が過ぎた。


 久しぶりに、何事も起きていない朝だった。


 恒一郎が障子を開けると、廊下の向こうから千代が歩いてきた。


 目が合う。


 千代の足が止まった。


「……お、おはようございます」


「ああ。おはよう」


 恒一郎がいつも通り返すと、千代の視線がその肩越しへ滑った。


 開いた障子の向こうは、朱莉の部屋だ。


 この数日、朝にここから出てくるのも、これが初めてではない。


 千代が何とも言えない顔をする。その理由は、恒一郎にも分かっていた。


「もう朝餉か?」


「は、はい。もうすぐです」


 妙に姿勢を正して答えた、そのときだった。


「恒一郎」


 部屋の奥から朱莉の声がした。


「なんだ?」


「今夜は?」


「来るつもりだ」


「そう。ならいいわ」


 千代の肩がぴくりと動いた。


「……では、私は朝餉の支度を手伝ってきます」


 言うなり、いつもより少し早足で去っていく。


 その背中を見送り、後ろで朱莉が小さく笑った。


 朝餉のあと、恒一郎は出かける支度をした。


「今日は家を見に行くんだったわね」


「ああ」


 そろそろ、自分の住まいを持つつもりだった。


 いつまでも店に世話になり続ける気はない。


 朱莉は恒一郎の帯を直しながら、何でもないことのように言った。


「家を持ったら、こっちへ来る理由はなくなるわね」


「それは別だ」


 恒一郎が即答すると、朱莉の手が止まった。


 それから、ふっと笑う。


「なら、いいわ」


 朱莉は満足そうに帯を軽く叩き、手を離した。


 店を出ようとしたところで、おかみさんに呼び止められた。


「恒一郎。家を探してるんだって?」


「ああ」


「だったら、心当たりがあるよ」


 おかみさんは手にしていた帳面を閉じた。


「ここから歩いて行けるところに、貸家をいくつか持ってる知り合いがいるんだ」


「空いてる家があるのか?」


「一つね。あんた一人で住むには、ちょっと広いかもしれないけど」


「狭いよりはいい」


「そう言うと思ったよ」


 おかみさんが笑う。


「お志乃って女だ。金には細かいけど、話は早い。私から聞いたって言えば分かるよ」


「助かる」


「ただし、口も達者だからね」


「それは家と関係あるのか?」


「会えば分かるさ」


 なぜか、おかみさんは楽しそうだった。


 昼前。


 教えられた場所へ向かうと、花街の賑わいから少し離れただけで、町の空気はずいぶん違っていた。


 表通りから一本入った静かな町筋だ。


 商家と住まいが混じり、往来では子供たちが遊んでいる。


 教えられた家を訪ねると、ほどなくして一人の女が出てきた。


「志堂恒一郎ってのは、あんたかい?」


「ああ」


「聞いてるよ。お辰からね」


「お辰?」


 恒一郎が聞き返すと、女が眉を上げた。


「花街のおかみだよ」


「……あの人、お辰っていうのか」


「知らなかったのかい?」


「名前で呼ぶことがなかったからな」


 一瞬きょとんとしてから、女は声を立てて笑った。


「ずいぶん世話になってるって聞いたけどねえ」


「まあな」


「面白い男だね。私はお志乃」


 お志乃は改めて恒一郎を頭から足まで一度眺めた。


 三十代の後半ほどだろう。


 派手な装いではないが、着物はきちんと整えられ、髪にも乱れがない。


 戸を閉めると、そのまま迷いなく先に立った。


「先に言っとくけど、安くはしないよ」


「家を見てから決める」


「値切らないのかい?」


「値段に見合わなければ借りない。それだけだ」


 一瞬、お志乃が黙る。


 それから、口元を上げた。


「なるほど。お辰が面白い男だって言うわけだ」


「そんな話までしたのか」


「もっと色々聞いてるよ」


「聞かなくていいことまで聞いてそうだな」


「そこはお互い様さ。店子にする男なんだからね」


 お志乃はそう言って、近くの家へ恒一郎を案内した。


 表から見れば、決して大きな家ではない。


 ただ、長屋ではなく、隣家とは壁を隔てた独立した一軒家だった。


 戸を開けると小さな土間がある。


「前の人が出てから少し経ってるけど、掃除は入れてあるよ」


 お志乃の言葉を聞きながら、恒一郎は中へ入った。


 表には八畳ほどの座敷。


 奥には六畳ほどの部屋が一つ。


 土間の奥には竈があり、その脇には大きな水瓶が置かれていた。


 さらに裏手には縁側が続き、その向こうには小さな庭がある。


 庭と呼ぶには少々狭い。


 だが、縁側へ腰を下ろして茶を飲むくらいなら十分だった。


「どうだい?」


「悪くない」


「一人で住むには、少し広いよ」


 恒一郎は表の座敷へ戻った。


 人が何人か来ても窮屈ではない。


 人を通す部屋としても、使い勝手がよさそうだ。


「この部屋は便利そうだな」


「寝間にするには広いだろう?」


「寝るのは奥でいい。こっちは人を通せる」


 お志乃の眉が上がる。


「へえ。誰を呼ぶつもりだい?」


「まだ決めてない」


「女じゃないのかい?」


「なぜそうなる」


「一人暮らしの男が、人を呼ぶって言うからさ」


 お志乃は肩をすくめた。


「まあ、誰を呼ぼうが家賃さえちゃんと入れてくれりゃ、私は何も言わないけどね」


「そこは問題ない」


「そういうことにしとくよ」


 おかみさんが言っていた意味が、少し分かった。


 恒一郎は座敷の柱や床を見て回った。


 戸も何度か開け閉めする。


 大きく傷んでいる様子はない。


 ただ、土間へ戻ったところで、水瓶の前に足を止めた。


「水はどうする?」


「裏手の共同井戸だよ」


 お志乃はすぐに答えた。


「朝は人が集まるけどね。自分で汲むのが面倒なら、水屋から買ってもいい」


「水屋?」


「水を売って回る者さ。知らないのかい?」


「ああ。その辺りの勝手は、まだよく分からない」


 恒一郎は素直に答えた。


 お志乃は少し意外そうに目を丸くしたあと、笑った。


「花街じゃ、自分で井戸から水を汲むことなんてなかっただろうからね」


「まあな」


「薪を買う店も近い。暮らしてて分からないことがあれば聞きな」


「助かる」


「その代わり、聞いたからって家賃はまけないよ」


「頼んでない」


「なら結構」


 お志乃は満足そうに頷いた。


「ずいぶん細かく見るねえ」


 恒一郎が柱の傷みを確かめていると、お志乃が腕を組んだ。


「住んでから困るよりいい」


「今にも傾くような家を貸したりしないよ」


「それでも見るくらいはする」


「用心深い男だねえ」


 お志乃は恒一郎をじっと見てから、ふっと笑った。


「気に入った」


「家が?」


「あんたが」


 さらりと言ってから、すぐに続ける。


「こういう店子なら、家賃を滞めて夜逃げもしなさそうだ」


「そっちか」


「他に何があるんだい?」


 口元だけを見ると、からかわれている気もする。


 恒一郎は追及しなかった。


 家賃を聞けば、確かに安くはなかった。


 ただ、宗兵衛の一件で役所から受け取った礼もあり、今の恒一郎なら無理なく払える額だった。


「借りる」


 恒一郎が言うと、お志乃が目を瞬いた。


「もう決めるのかい?」


「ああ」


「もう少し悩んだらどうだい。私が言うのもなんだけど」


「条件に問題はない。それに場所もいい」


 花街まで歩いて行ける。


 一人で暮らすには十分な広さもある。


 表の座敷も、人を通すには都合がいい。


「なら、こっちとしても文句はないよ」


 お志乃はにやりと笑った。


「ただし、家賃はきっちり払ってもらうからね」


「分かってる」


「女を何人連れ込んでも増しにはしないよ」


「だから、なぜそっちへ話を持っていく」


「おや。女じゃないとは一度も言わなかったじゃないか」


 恒一郎は返す言葉をやめた。


 どう言っても、お志乃の方が面白がるだけだと分かったからだ。


 話を済ませ、お志乃が帰ったあと。


 恒一郎は一人、座敷の真ん中に立った。


 何も置かれていない部屋は、思った以上に広く感じる。


 縁側の向こうでは、小さな庭に日の光が落ちていた。


 誰にここへ住めと言われたわけでもない。


 どこに住むかも、どう暮らすかも、自分で決めた。


 ここが、これからの恒一郎の家になる。


 しばらく座敷を眺めてから、恒一郎は家を出て、花街へ戻った。


「決めてきた?」


 夕刻、朱莉は恒一郎の顔を見るなり聞いた。


「ああ」


「どんな家?」


「小さいが、一人で住むには十分だ。表に広めの座敷もある」


「そう」


 朱莉は少し考えてから言った。


「じゃあ、今度見に行くわ」


「まだ何もないぞ」


「だからよ」


「何を見に来るんだ?」


 朱莉は唇の端を上げた。


「私が泊まれるところがあるか、見ておかないと」


 恒一郎は少しだけ黙った。


「寝間ならある」


「そう」


 朱莉は満足そうに笑った。


「なら、まずは合格ね」

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