↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第一章 花街で始める二度目の人生

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/54

第30話 今夜は、客じゃない

 花街へ戻るころには、空はすっかり暗くなっていた。


 恒一郎が店の暖簾をくぐると、奥へ盆を運んでいた千代が足を止める。


「あっ……恒一郎さん!」


 声につられるように、奥の障子が開いた。


 朱莉が出てくる。


 恒一郎の姿を見たまま、一瞬だけ動きを止めた。


「終わった?」


「ああ」


 それだけ聞くと、朱莉は小さく息を吐いた。


「……そう」


 口元にはいつもの落ち着いた笑みが戻ったが、張りつめていたものがほどけたことは、恒一郎にも分かった。


「怪我は?」


「ない」


「本当に?」


「見れば分かるだろ」


「あなたの場合、見えないところで何かしてそうなのよ」


 朱莉が恒一郎の腕や肩へ目を走らせる。


 恒一郎はされるままになっていた。


「大丈夫だ」


「……ならいいわ」


「おかえり」


 今度は千代が笑顔で言った。


「ああ。ただいま」


 その言葉を聞いて、朱莉の眉がほんの少し動いた。


 そこへ、奥からおかみさんが姿を見せる。


「帰ってきたと思ったら、ずいぶん普通の顔してるじゃないか」


「普通じゃ駄目なのか」


「こっちは朝から落ち着かなかったんだよ」


「悪かった」


「そうやって素直に謝られると、文句も言いにくいねえ」


 おかみさんは呆れたように言ったが、その顔には安堵が浮かんでいた。


「宗兵衛は?」


 朱莉が尋ねる。


「役所へ連れていかれた。店の帳面も押さえられてる」


「荷問屋は?」


「そっちも調べるそうだ」


「そう」


 朱莉はもう一度だけ息を吐いた。


 今度のそれは、先ほどより深かった。


「本当に、終わったのね」


「全部じゃない」


 恒一郎が答えると、朱莉が目を上げた。


「黒い染みのことも、娘たちを弱らせていたもののことも、まだ分からないことは残ってる」


「……そうね」


「それでも、少なくとも宗兵衛たちが、これ以上娘を連れ出すことはできない」


 それを聞いたおかみさんが腕を組む。


「それだけでも十分さ」


 奥の部屋から、小さな笑い声が聞こえた。


 恒一郎がそちらを見る。


「お梅か?」


「ああ。起きてるよ」


「見てくる」


 恒一郎が部屋を覗くと、お梅は布団の上に体を起こしていた。


 膳の上には、半分ほど減った粥の椀がある。


 傍らにはお絹が座っていた。


「あ」


 お梅が恒一郎に気づく。


「恒一郎さん」


「顔色、だいぶ戻ったな」


「はい。お医者様も、だいぶ良くなってるって」


「無理はするなよ」


「分かってます」


 そう返したお梅の横から、お絹が口を挟む。


「さっきまで、早く外に出たいって言ってたけどね」


「お絹ちゃん!」


 お梅が慌てる。


 その声にも、以前のような弱々しさはない。


「それだけ元気なら大丈夫そうだな」


「もう……」


 お梅が少し頬を膨らませる。


 その隣で、お絹が笑った。


 二人がこうして同じ部屋で笑っている。


 それだけで、恒一郎には十分だった。


「お菊も、もう熱はほとんどないわ」


 後ろから朱莉が言った。


「千鶴も?」


「大丈夫。今は別のところで休ませてる。しばらくは変な男が近づかないように見てもらってるわ」


「そうか」


「本当に、ありがとうございました」


 お梅が頭を下げる。


「俺一人でやったわけじゃない」


「でも、恒一郎さんがいなかったら――」


「そういう話は元気になってからにしろ。今は粥を食え」


「……はい」


 お梅が素直に椀を持ち直す。


 恒一郎が部屋を出ると、おかみさんが待っていた。


「役所からも話が来てるよ。蔵前屋はしばらく商いどころじゃないそうだ」


「榊から?」


「ああ。帳面も人も、片っ端から調べてるってさ。荷問屋の方もね」


「なら、そっちは任せる」


「また簡単に言うねえ」


「俺が役所の中を調べても仕方ないだろ」


「まあ、それもそうだけどさ」


 おかみさんが笑う。


「今日はもう休みな。さすがに疲れただろ」


「ああ」


 そう答えた恒一郎の横で、朱莉が何も言わずにこちらを見ていた。


 夜も更けたころ。


 恒一郎が自分の部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、後ろから声がした。


「恒一郎」


 振り返る。


 朱莉が立っていた。


 先ほどより化粧は薄く、髪も少しだけ緩くまとめ直されている。


 派手さが消えたわけではない。


 いつもの朱莉が、仕事を終えて肩の力を抜いているだけだった。


「どうした」


「少し、付き合わない?」


「酒か?」


「嫌?」


「いや」


「なら来て」


 朱莉はそれだけ言って、自分の部屋へ向かった。


 部屋には、小さな徳利と杯が二つ置かれていた。


「用意がいいな」


「あなたが帰ってこなかったら、一人で飲むつもりだったのよ」


「それは悪かった」


「また謝るの?」


 朱莉が杯に酒を注ぐ。


「心配させたならな」


 恒一郎も向かいに座った。


 朱莉は自分の杯を持ったまま、しばらく恒一郎を見ている。


「ちゃんと帰ってきたわね」


「ああ」


「それだけ?」


「約束したからな」


 朱莉の目が少し細くなる。


「白波宿まで勝手に行った男が、よく言うわ」


「勝手に行ったつもりはない」


「誰に許可を取ったのよ」


「取る必要があるのか?」


「ないけど」


「ならいいだろ」


「良くないわよ」


 朱莉がそう言って、杯を口につけた。


 それから、少しだけ笑う。


「あなたと話してると、たまに腹が立つわ」


「昔からよく言われる」


「でしょうね」


「納得するのか」


「するわよ」


 朱莉がもう一口だけ酒を飲む。


 少しの沈黙が落ちた。


 外から、遠く三味線の音が聞こえてくる。


「ねえ」


「ん?」


「本当に、帰ってこないかと思ったのよ」


 朱莉の声は、先ほどまでより少しだけ低かった。


 恒一郎は杯を置く。


「悪かった」


「そこは謝るのね」


「心配させたからな」


「そういうところよ」


「何がだ」


「ずるいところ」


 朱莉はそう言いながら、困ったように笑った。


「宗兵衛に言ったんですって?」


「何を」


「何度金を積んでも、私がお前を選ばなかったって」


「榊から聞いたのか」


「噂になるのは早いのよ、この町は」


「余計なところまで広まってるな」


「余計?」


 朱莉の視線が鋭くなる。


「そういう意味じゃない」


「ならいいわ」


 恒一郎は一度、杯へ目を落とした。


「間違ったことは言ってないだろ」


「……そうね」


 朱莉は杯を置いた。


 今度は酒を注がない。


「恒一郎」


「ん?」


「今夜は、客として来たの?」


 恒一郎が朱莉を見る。


 朱莉は笑っていなかった。


 試すようでもない。


 ただ、答えを待っている。


「違う」


 恒一郎は答えた。


「客として来たんじゃない」


「そう」


 朱莉が小さく頷く。


 そして恒一郎のすぐ隣へ移った。


「なら、いいわ」


「何がだ」


「分からない?」


 恒一郎は答えず、朱莉を見る。


「……本当に、腹の立つ男ね」


 朱莉の指が恒一郎の袖をつかんだ。


 そのまま少し体を寄せる。


 恒一郎が動くより先に、朱莉の唇が触れた。


 短い口づけだった。


 離れたあとも、朱莉は逃げない。


 恒一郎をまっすぐ見ている。


「朱莉」


「何?」


 恒一郎はしばらくその顔を見た。


「……いや」


「今さら何か聞くつもりなら、怒るわよ」


「聞かない」


「そうして」


 今度は恒一郎が朱莉の腰を引き寄せた。


 朱莉の目が一瞬だけ見開かれる。


 すぐに、その腕が恒一郎の背へ回った。


 二度目の口づけは、先ほどより長かった。


 障子の外では、店の灯りが一つ、また一つと落ちていった。


 その夜、恒一郎が自分の部屋へ戻ることはなかった。


 朝。


 恒一郎が目を開けると、すぐ近くに朱莉がいた。


 すでに起きていたらしい。


 横になったまま、こちらを見ている。


「おはよう」


「ああ」


「ずいぶん普通の顔してるのね」


「どんな顔をすればいいんだ」


「もう少し困るとか、照れるとか」


「朱莉は困ってるのか?」


「まさか」


 返事は早かった。


 朱莉が口元を緩める。


「私がそんな顔して見える?」


「見えないな」


「でしょう?」


 恒一郎も体を起こした。


 朱莉はその横で、乱れていた髪へ手をやる。


「後悔してるか?」


「してないわよ」


「ならいい」


「あなたは?」


「してない」


「……そう」


 朱莉は少しだけ目を伏せた。


 その表情は、昨夜より柔らかい。


 廊下の向こうから、千代の声が聞こえた。


「朱莉さーん! おかみさんが呼んでます!」


 朱莉が顔をしかめる。


「朝から元気ね、あの子」


「行かなくていいのか」


「行くわよ」


 朱莉は立ち上がり、身支度を始める。


 恒一郎も自分の着物を整えた。


 部屋を出ようとした朱莉が、ふと振り返る。


「ねえ」


「ん?」


「今夜も帰ってくる?」


 恒一郎は眉を上げた。


「ここにいるんだから、帰るも何もないだろ」


 朱莉が目を細める。


「そういう意味じゃないのよ」


「分かってる」


「だったら最初からそう言いなさい」


 朱莉は呆れたように笑った。


 恒一郎もわずかに口元を緩める。


「今夜もいる」


 朱莉は一瞬だけ黙った。


 それから、いつもの調子で答えた。


「……そう。なら、いいわ」


 そう言って、朱莉は廊下へ出ていった。


 恒一郎もその後を追う。


 店にはもう、朝の気配が戻り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。