第29話 今度は、こちらが聞く番だ
蔵前屋までは遠くない。
恒一郎と榊が店へ着いたときも、表では奉公人が忙しく荷を運び、客らしい商人が番頭と話していた。
普段と変わらない。
少なくとも、表向きは。
「主人に話がある」
榊が役人として名を告げると、番頭の顔がわずかに強張った。
それでも追い返されることはなく、二人は店の奥座敷へ通された。
ほどなくして障子が開く。
「これはこれは」
宗兵衛は前と変わらない柔らかな笑みを浮かべていた。
上等だが派手すぎない着物も、静かな物腰も変わらない。
「志堂様の方からお越しいただけるとは」
「邪魔するぞ」
「どうぞ。榊様までご一緒とは、何やら物々しいですな」
宗兵衛は二人を見比べ、それから恒一郎へ目を戻した。
「もしや、考えが変わりましたかな」
「何の話だ」
「以前のお話です。住まいも、報酬も、役所への口利きも。条件については、まだご相談できます」
恒一郎は腰を下ろした。
「今日は買われに来たんじゃない」
宗兵衛の笑みは崩れなかった。
「では、何をお望みで?」
「話を聞きに来た」
「私に?」
「ああ」
榊も隣へ座る。
宗兵衛は少しだけ目を細めたが、すぐに手を叩いた。
「まずは茶でも」
「いらん」
榊が断る。
「そうですか」
宗兵衛は気を悪くした様子もなく、自分だけ湯呑みに手を伸ばした。
恒一郎はその動きを見ながら口を開く。
「西河岸に、よく蔵前屋の荷を扱う荷問屋があるな」
「ええ。ございます」
宗兵衛は即座に認めた。
「それが何か?」
「ずいぶん付き合いが深いらしい」
「商いをしていれば、そのような店の一つや二つはできます。米も布も木材も、私一人で運ぶわけには参りませんからな」
宗兵衛は茶を一口飲む。
「その荷問屋の手代が、小蔵へ仕事を持ってきていた」
榊が言った。
「小蔵?」
「城下の外へ娘を回すために使っていた場所だ」
「なるほど」
宗兵衛はゆっくり頷いた。
「ですが、その手代が何をしていたかまで、私が知る立場ではありますまい」
「そうだな」
恒一郎があっさり言った。
宗兵衛の視線が向く。
「今の話だけなら」
「……ほう」
「娘に金を渡していた男がいる。そのうち確認できた二人は、同じ荷問屋へ出入りしていた」
宗兵衛は答えない。
恒一郎は懐から紙片を出した。
「西でも、これが出た」
畳の上へ置く。
日付。
数。
記号。
そして、『西回し 三』の文字。
隅には小さな印がある。
「この印も、同じ荷問屋のものとよく似てる」
「似ている」
宗兵衛が繰り返した。
「同じとは、まだおっしゃらないのですな」
「そこは調べればいい」
「それがよろしいでしょう」
宗兵衛は笑った。
「調べれば、商いの付き合いがあったことは分かるでしょうな。それ以上の何かが出れば、私も驚きます」
榊の眉がわずかに動く。
「小蔵の帳面もある」
「帳面?」
「娘をいつ、どこへ回したかが残ってた」
「それはその者たちの帳面でしょう」
「ああ」
「ならば、やはり私とは関わりのない話ですな」
宗兵衛はまだ余裕を失っていない。
その顔を見たまま、恒一郎は言った。
「お絹を見つけた」
宗兵衛の指が、湯呑みの縁で止まった。
ほんの一瞬だった。
「……お絹?」
「花街からいなくなった娘だ」
「ああ」
宗兵衛は再び湯呑みを持ち上げる。
「それは何よりでしたな」
「本人から話も聞いた」
「そうですか」
「金をもらって、自分で名前を書いた」
「それだけ聞けば、無理強いをされたようには思えませんが」
宗兵衛は静かに続けた。
「金が必要だったのでしょう。だから受け取った。そして自ら名を書いた」
「そのあと具合が悪くなった」
「病にかかることくらい、誰にでもあります」
「男から頼み事があると言われて、店を出た」
「自分の足で?」
「ああ」
「ならば」
宗兵衛の笑みが少しだけ深くなる。
「攫われた、と呼ぶのはいささか乱暴ではありませんかな」
恒一郎は宗兵衛を見た。
「帰りたかったそうだ」
笑みが止まる。
「嫌だったことも覚えてる」
宗兵衛は何も言わない。
「身体が重くて、頭もぼんやりしてた。店に戻らないといけないのは分かってた。でも、何をすればいいか考えてるうちに遠くまで来た」
恒一郎は淡々と続けた。
「あれを、自分で選んだとは言わないだろ」
しばらく、座敷に声がなかった。
宗兵衛は湯呑みを置いた。
「志堂様」
「ん?」
「世の中には、金がなければ生きていけぬ者が大勢おります」
「そうだな」
「困っているからこそ金を受け取る。こちらは金を出し、その代わりに働いてもらう。商いとは、そうしたものです」
宗兵衛は穏やかな声のままだった。
「誰もただでは米を売りません。布も、家も、人の手間も同じです」
「それもそうだな」
宗兵衛がわずかに笑う。
「でしたら――」
「でも」
恒一郎が遮った。
「金を受け取ったら、その先まで全部お前のものになるわけじゃない」
宗兵衛の目から、笑みだけが少し薄れた。
「本人が嫌だと言ってるなら、そこで終わりだ」
「それでは商いになりませんな」
「人を荷物にしないと成り立たないなら、そんな商いはいらないだろ」
「ずいぶん簡単におっしゃる」
「簡単な話だからな」
宗兵衛は恒一郎をしばらく見た。
「人は欲しいもので動く」
以前と同じ言葉だった。
「腹が減れば飯を求める。金がなければ金を求める。立場が欲しければ権を求める。それだけのことでしょう」
「そうだろうな」
恒一郎は否定しなかった。
「だったら、金を出せば人が動くこともある」
「ええ」
「だが、動いたからって、そいつの意思まで買ったことにはならない」
宗兵衛は口を閉じた。
恒一郎は続ける。
「朱莉だってそうだろ」
宗兵衛の目がわずかに細くなる。
「何度金を積んでも、お前を選ばなかった」
「朱莉は、少々特別な方ですからな」
「俺も断ったな」
「……そうでしたな」
「特別だからじゃない」
恒一郎は宗兵衛から目を逸らさない。
「金が欲しくて動くことと、金を出した相手に何をされてもいいと思うことは別だ」
宗兵衛の笑みが薄くなる。
「言葉は便利ですな」
「金もな」
恒一郎はそれ以上続けなかった。
榊が腰を上げる。
「宗兵衛」
「はい」
「蔵前屋の帳面を改める」
宗兵衛の視線が榊へ移った。
「それはまた、ずいぶん急なお話で」
「急じゃない。こっちは何日も娘を追ってる」
「ですが、まだ蔵前屋が関わった証はないのでしょう」
「だから調べる」
榊は言い切った。
「店の帳面、荷の出入り、荷問屋との取引。関わった番頭も手代も確認する」
「榊様」
宗兵衛の声は穏やかなままだった。
「そのお立場で、蔵前屋の商いをすべて止めるおつもりですかな」
榊は宗兵衛を見返した。
「娘を回してた連中とつながってる以上、調べない理由にはならん」
「蔵前屋が止まれば、困る者は少なくありませんぞ」
「だから今ここで、押さえる理由を増やすな」
宗兵衛は答えなかった。
その視線が、わずかに横へ流れる。
恒一郎には、その動きが見えた。
障子の向こう。
廊下にいた男の足が動く。
反対側でも衣擦れがした。
榊が振り返るより早く、障子が開いた。
二人。
さらに後ろに一人。
一人が榊へ詰め寄る。
もう一人は、畳の上に置かれていた紙へ手を伸ばした。
「止まれ」
三人の身体が、その場で固まった。
伸ばしかけた腕も、踏み込んだ足も動かない。
「な……」
男の一人が声を漏らす。
宗兵衛の笑みが初めて消えた。
恒一郎は男たちへ目を向けず、そのまま宗兵衛を見た。
「話を続けよう」
宗兵衛はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……何とも、妙な技をお持ちですな」
「便利ではある」
「それを使えば、ずいぶん好き勝手できそうだ」
「そういう使い方は好きじゃない」
「私には、違いがよく分かりません」
「そうだろうな」
榊が戸口へ声を飛ばす。
「入れ!」
表で待たせていた役人が数人、座敷へ入ってくる。
「こいつらを押さえろ。店の者は外へ出すな。帳面から先に確保しろ」
「はっ」
男たちは動けないまま取り押さえられた。
宗兵衛はそれを見ていた。
「ずいぶん用意がよろしい」
「空振りなら、俺が怒られるだけだ」
榊は答えた。
「だが、今のを見たら話は変わる」
「身を守ろうとしただけ、と申しても?」
「役人の前で証拠に手を出そうとした奴がいる」
榊はにらむ。
「言い訳は役所で聞く」
宗兵衛は肩を落とさなかった。
ただ、先ほどまでの柔らかな笑みは戻らない。
恒一郎が口を開く。
「一つだけ聞く」
宗兵衛が目を向ける。
「お前が、娘を弱らせる何かを使ったとは思ってない」
宗兵衛の眉がわずかに動いた。
「だが、具合が悪くなった娘なら連れ出しやすい。それを利用してたんじゃないのか」
「何のことでしょう」
「なら、それでもいい」
恒一郎は宗兵衛を見たまま続けた。
「やり方を知らなくても、使い道は知ってたんだろ」
宗兵衛は恒一郎を見返したまま、答えなかった。
榊が部下へ顎をしゃくる。
「主人も連れていく」
「榊様」
「続きは役所で聞く」
「私一人を捕らえれば済む話ではありますまい」
「だから全部調べるんだよ」
榊は障子の外へ目を向けた。
「荷問屋にも人を回す。蔵前屋と取引していた先もだ」
宗兵衛はゆっくりと立ち上がった。
「商いは、信用で成り立っております」
「知ってる」
「このように騒ぎを起こされては、たとえ後で何も出なかったとしても――」
「何も出なかったら謝る」
榊が答える。
「出なかったらな」
宗兵衛はそれ以上言わなかった。
役人が左右につく。
座敷を出る直前、宗兵衛は足を止めた。
「志堂様」
「何だ」
「これで何かが変わると、本気でお思いですか」
恒一郎は少しだけ首を傾けた。
「別に」
宗兵衛の目が細くなる。
「お前がこれ以上、あの娘たちを売れなくなれば十分だ」
宗兵衛は何も返さなかった。
そのまま役人に挟まれて廊下を歩いていく。
店の中では、すでに別の役人たちが帳面を集め始めていた。
番頭が何かを訴え、奉公人たちが戸惑った顔で足を止めている。
昨日までと同じように商いを続けることは、もうできない。
恒一郎はしばらくその様子を見ていた。
「志堂」
榊に呼ばれて振り返る。
「後はこっちでやる」
「そうか」
「荷問屋も、帳面も、人も全部見る。杉浦には……必要なところまで固めてから上げる」
「ああ」
「お前はどうする」
恒一郎は店の外へ出た。
通りの向こうには、城下の屋根が続いている。
「帰る」
「どこへだ」
恒一郎は花街の方角へ目を向けた。
「花街へ」
今度こそ、終わらせてきて。
朱莉の声が、恒一郎の頭に浮かぶ。
恒一郎はそのまま歩き出した。




