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人の尻拭いばかりしていた俺、江戸風異世界で「すべて」が見えるようになったので、二度目の人生は好きに生きる  作者: 若松あ太郎
第一章 花街で始める二度目の人生

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第21話 黒い糸を追わなかった

 細い黒い糸が、夜道の向こうへ伸びている。


 恒一郎は勝手口を出ると、その先を見据えた。


「朱莉」


「分かってる。追うんでしょ」


 返事は早かった。


 朱莉は千鶴の肩を抱きながら、夜道の西を見た。


「西河岸へ行くなら、表を追っちゃ駄目よ。荷車は大通りを回るしかないけど、人なら裏を抜けられる」


「道は?」


「二つ先の角を右。柳屋の脇を抜けて、細い橋を渡って。そのまま西へ」


「助かる」


「千鶴は任せて」


「ああ」


 恒一郎はすぐに走り出した。


 細い路地を抜け、暗い軒下を駆ける。


 朱莉に言われた通り柳屋の脇へ入ると、人ひとりがようやく通れるほどの道が続いていた。


 その先に、小さな橋がある。


 橋を渡り切ったところで、恒一郎は速度を落とした。


 少し先の大通りを、一台の荷車が西へ進んでいる。


 間違いない。


 黒い糸は、その荷車へ向かって伸びていた。


 恒一郎はすぐには近づかなかった。


 荷車との距離を保ったまま、並行する細道を進む。


 乗っている男は二人。


 一人が手綱を取り、もう一人は荷台の後ろに腰掛けている。


 後ろの男が何度も振り返る。


 荷台には布が掛けられ、中は見えない。


 ただの荷運びにしては、周囲を気にしすぎていた。


 やがて荷車が大通りを外れた。


 西河岸へ続く道ではない。


 恒一郎も足を変える。


 荷車が入ったのは、河岸より少し手前にある荷置き場だった。


 木箱や俵が積まれ、夜でも数人の男が動いている。


 だが、大声で指示を飛ばす者はいない。


 荷車が着くと、待っていた男がすぐ近づいた。


「遅かったな」


「宴の方で少しあった」


「見られてないだろうな」


「大丈夫だ」


 短いやり取りだった。


 荷台の後ろにいた男が懐へ手を入れる。


 薄い紙包みを取り出した。


 それを待っていた男へ渡す。


 黒い糸が動く。


 紙包みを受け取った男が歩き出すと、糸も一緒に西へ伸びていった。


 恒一郎は目を細めた。


 やはり、糸は男ではない。


 紙の方へつながっている。


 男は西河岸へ向かっていく。


 その背を見ていた恒一郎の視界の端で、荷車の覆いがめくられた。


 中から別の男が降りてくる。


 続いて二人がかりで誰かを抱えた。


 若い娘だった。


 両腕を支えられ、かろうじて立っている。


 顔は青白く、足元もおぼつかない。


「……歩けるか?」


 男が聞く。


 娘は返事をしなかった。


「面倒だな。そっちへ乗せろ」


 荷置き場の奥から、もう一台、小さな荷車が出てきた。


 男たちが娘をそちらへ移す。


 恒一郎の視線が、黒い糸と娘の間を往復した。


 糸は西へ。


 娘は別方向へ。


 小さな荷車が河岸とは反対へ向きを変える。


 荷台の上で、娘の指がわずかに動いた。


「暴れるな」


 男が低い声で言う。


「すぐ着く」


「……帰りたい……」


 かすかな声が漏れた。


 西河岸という行き先は、もう分かっている。


 だが、この荷車は今見失えば終わる。


 黒い糸は、西へ伸びている。


 それでも恒一郎は、反対へ走った。


 小さな荷車は人目の少ない道へ入った。


 速くはない。


 だが何度も角を曲がり、表通りを避けている。


 恒一郎は距離を保ったまま追った。


 黒い糸はもう見えない。


 代わりに見るのは、車輪の跡と男たちの動きだった。


 御者の男は角を曲がるたびに後ろを見る。


 荷台の男も、何度も周囲へ目を走らせている。


 見られて困る荷なのは間違いない。


 やがて荷車が止まった。


 町外れに近い、小さな蔵の前だった。


 看板はない。


 灯りも最低限。


 男が戸を叩く。


 二度。


 間を置いて一度。


 中から戸が開いた。


「早かったな」


「西へ回す前に一晩置く」


「そっちは?」


「紙は河岸だ」


 恒一郎の視線が鋭くなる。


 紙は河岸。


 娘はこちら。


 わざわざ分けて運んでいる。


 男たちが娘を荷台から下ろした。


 足が地面についた途端、娘の膝が崩れる。


「おい」


 男が腕を掴んだ。


 娘が小さく呻く。


「立て」


 蔵の戸がさらに開く。


 娘を中へ引き入れようとしたところで、恒一郎が物陰から出た。


「その辺にしておけ」


 三人の男が一斉に振り返った。


「誰だ」


「その娘を置いていけ」


 一人の肩がわずかに沈む。


 刀へ手を伸ばす動きが見えた。


 だが、恒一郎が間合いを詰めた方が早い。


 手首を押さえ、そのまま腕を返す。


「ぐっ……!」


 刀は鞘から半分も抜けず、地面へ落ちた。


 二人目が殴りかかる。


 足の運びも、狙いも先に見えていた。


 恒一郎は一歩外し、その足を払う。


 男は勢いのまま地面へ倒れ込んだ。


「てめえ!」


 三人目が蔵の中へ駆け込もうとする。


「止まれ」


 男の身体がぴたりと固まった。


「な……なんだ、これ」


 口だけが動く。


 最初の男の顔が引きつった。


「お前……宴にいた――」


「よく見てたな」


 恒一郎は落ちた刀を蹴って遠ざけた。


「その割に、俺の前で抜こうとしたのは感心しない」


「何者だ」


「今は、その娘を連れて帰る男でいい」


 恒一郎は娘の前にしゃがんだ。


「聞こえるか」


 娘がゆっくり顔を上げる。


「……はい」


「立てる?」


 娘は一度だけ足に力を入れた。


 すぐによろめく。


 恒一郎が腕を支えた。


「無理しなくていい」


「私……帰れるんですか」


「帰れる。まずここを出よう」


 娘の肩から、わずかに力が抜けた。


 恒一郎は蔵へ目を向ける。


 戸は半分開いている。


 中には木箱や縄、荷札が並んでいた。


 人を長く置いておくような場所には見えない。


 娘を壁際へ座らせ、恒一郎は男たちを見る。


「変な真似をしたら、次はもう少し痛いぞ」


 誰も動かなかった。


 恒一郎は蔵の中へ入る。


 棚の端に、小さな控え帳が置かれていた。


 開く。


 日付。


 荷の名。


 数。


 受け渡し先らしき書き込み。


 米。


 布。


 木材。


 そんな記録の中に、人の名らしきものがいくつか混じっている。


 恒一郎の指が止まった。


 お絹。


 見覚えのある名だった。


 もう一度確かめる。


 間違いない。


 その横には、今夜の日付に記されたものと同じ印がある。


 さらに、


『西河岸』


 その隣に、


『白波宿』


 と書かれていた。


 恒一郎には覚えのない地名だった。


「白波宿……?」


 壁際の娘が顔を上げた。


「……その名前、聞きました」


 恒一郎が振り返る。


「どこか知ってる?」


「西の門を出た先にある宿場です。私も行ったことはないけど……遠くはないって聞いたことがあります」


「さっきの男たちが?」


 娘は小さく頷いた。


「西河岸のあと、白波宿へ送るって……それだけ」


「分かった。もういい」


 恒一郎は再び帳面へ目を落とした。


 お絹。


 西河岸。


 白波宿。


 どこで誰に渡されたのか。


 そこからさらに先があるのか。


 まだ分からない。


 だが、お絹が城下の外へ運ばれた可能性は高い。


 恒一郎は控え帳を閉じた。


「次は、白波宿か」

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