第20話 糸がつながっていたのは
宗兵衛の部下が廊下の奥へ消える。
恒一郎はすぐにその後を追った。
「朱莉」
「何?」
「あの娘を見ててくれ」
先ほどの給仕の娘を目で示す。
「名前と、どこの店の娘か分かれば頼む」
「あなたは?」
「紙の方を見る」
朱莉は男の消えた廊下へ一度目を向けた。
「分かった」
「無理はするな。宴席にいてくれ」
「それ、あなたが言う?」
「俺は無理してない」
「はいはい」
朱莉は呆れたように笑うと、何事もなかったような顔で宴席へ戻っていった。
恒一郎は廊下を進む。
宴席から離れるにつれ、三味線と笑い声が遠ざかっていく。代わりに聞こえてくるのは、食器を運ぶ音や、裏方の慌ただしい足音だった。
宗兵衛の部下は、勝手口手前の小部屋へ入った。
恒一郎は廊下の角で足を止める。
中には男がもう一人いた。
「西へ出す分は?」
「ほとんど積んであります」
「なら、これはあとで一緒に持っていけ」
宗兵衛の部下が、懐から薄い紙包みを取り出した。
棚の上へ置く。
恒一郎の目が細くなった。
黒い糸は、男についていかなかった。
宗兵衛の部下が小部屋を出ていっても、糸は棚へ伸びたままだ。
ほどなく、残った男が紙包みを手に取る。
黒い糸も動いた。
「……そっちか」
恒一郎の視線が、男ではなく紙包みへ向く。
男が勝手口へ出た。
恒一郎も少し間を置いて後を追う。
裏手には荷車が二台並んでいた。
酒樽、木箱、空になった食材の籠。宴の裏で見かけても不自然ではない荷が積まれている。
紙包みを持った男は、荷車のそばにいた別の男へ声を掛けた。
「今夜の便はこれで全部か?」
「こっちはな。先の一台はもう積み終わってる」
「河岸には?」
「刻限には着く」
恒一郎は黙って聞いていた。
西。
河岸。
今夜の便。
先ほど別室で聞いた言葉がつながっていく。
『西の荷ですが』
『今夜のうちに出せるそうです』
ただの商品なら、それで終わる。
だが、男の懐には給仕の娘から伸びた黒い糸の先がある。
「あの娘のこと、分かったわ」
背後から小さな声がした。
振り返ると、朱莉が廊下の陰に立っている。
「宴席にいろって言っただろ」
「だから、分かったことだけ伝えに来たの」
朱莉は声を落とした。
「あの娘、千鶴。松葉屋から手伝いに来てる子よ」
「千鶴か」
「それと、少し前に知らない男から金をもらったらしいわ」
恒一郎の視線が紙包みへ戻る。
「名前は?」
「書いたそうよ。受け取った印に」
「誰から聞いた?」
「一緒に来てる娘よ。前に千鶴本人から聞いたんですって」
お梅も、お菊も、お絹も、金を渡されて自分の名前を書いていた。
「……同じなの?」
「かなり近い」
朱莉も宴席の方を見る。
「連れて帰った方がいい?」
「まだだ」
「何を待つの?」
「どこへ連れていくつもりなのか見たい」
朱莉の目が細くなる。
「危なくなる前には止めるのね?」
「ああ」
数秒、朱莉は恒一郎の顔を見た。
「じゃあ、私は千鶴を見てる」
「頼む」
「今度こそ、ちゃんと戻ってきなさいよ」
「善処する」
「そこは『分かった』でいいの」
朱莉は息を吐き、宴席へ戻っていった。
恒一郎も別の廊下から中へ戻る。
しばらくして、紙包みを持った男が宴席の端へ姿を現した。
酒を運んでいた千鶴へ近づく。
「おい」
千鶴が振り返った。
「あ……この前の」
「前に話した頼み事の件だ」
「今ですか?」
「少しでいい。手を貸してくれ」
千鶴は困ったように宴席を見る。
「まだお仕事が……」
「すぐ済む」
強い言い方ではなかった。
脅している様子もない。
千鶴は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「分かりました」
恒一郎は動かなかった。
少し離れたところでは、朱莉が他の客と話しながら千鶴を見ている。
視線が一度だけ合う。
朱莉は何も言わなかった。
男が歩き出す。
千鶴もついていく。
黒い糸は千鶴から伸び、男の懐へ続いていた。
自分の足で歩いている。
普通に会話もしている。
お絹も、男と一緒に自分の足で歩いていた。
呼ばれても返事をしなかったという点までは違う。
それでも、目の前で起きていることは、あの証言によく似ていた。
男は千鶴を勝手口まで連れていく。
そこには先ほどの荷車があった。
「この娘か?」
荷車のそばにいた男が訊く。
「ああ」
千鶴が首を傾げる。
「荷車?」
「河岸までだ」
紙包みを持った男が答えた。
「え?」
「向こうへ着けば、あとは別の奴が案内する」
千鶴の顔から笑みが消える。
「ちょっと待ってください。頼み事って、そんな話――」
「いいから来い」
男が千鶴の腕を掴んだ。
「離してください」
千鶴が腕を引く。
恒一郎は廊下から出た。
「そこまでだ」
男たちが振り返る。
紙包みを持った男の顔が強張った。
「……お前」
「嫌がってるだろ。離せ」
「関係ねえ。引っ込んでろ」
男が千鶴を強く引く。
恒一郎は短く告げた。
「止まれ」
男の身体が止まった。
もう一人も、荷車へ手を伸ばしかけた姿勢のまま固まる。
「な……っ」
声だけは出る。
千鶴は腕を掴まれたまま目を見開いていた。
「千鶴」
朱莉の声が飛ぶ。
「こっちへ」
「朱莉さん……?」
恒一郎が男の指を千鶴の腕から外す。
千鶴は朱莉のところへ駆け寄った。
「大丈夫?」
「はい……でも、何が……」
「説明はあと。今は私のそばにいなさい」
「……はい」
朱莉は千鶴の肩を抱く。
恒一郎は止まった男の懐へ手を入れた。
「てめえ、勝手に――」
「文句はあとで聞く」
「……っ」
紙包みを取り出す。
開くと、折り畳まれた紙が数枚入っていた。
一枚ずつ確認する。
そのうちの一枚に、黒い染みがある。
書かれていた名前は――千鶴。
黒い糸は、その紙へ伸びていた。
「やっぱり、これか」
朱莉が近寄る。
「千鶴の名前?」
「ああ」
「それが、あの子と……?」
「何かでつながってる」
仕組みまでは、まだ分からない。
だが、糸の先にあったのは人ではない。
この紙だ。
恒一郎は残りの紙にも目を通した。
黒い染みのあるものが混じっている。
しかし、そこから伸びる糸は見えない。
「その荷、どこへ持っていく?」
恒一郎が訊く。
男は口を閉ざした。
「言うと思うかよ」
「別に、お前が言わなくてもいい」
恒一郎は荷車へ目を向ける。
木箱の横に、細長い木札が括りつけられていた。
墨で短く書かれている。
『西河岸』
その下には、今夜の刻限が記されていた。
恒一郎が札を見ると、男の顔色が変わる。
「西河岸か」
「……」
「分かりやすくて助かる」
もう一人の男が舌打ちした。
「今さら分かったって遅えよ」
恒一郎がそちらを見る。
「何が?」
男は口の端を吊り上げた。
「先の荷は、とっくに出てる」
朱莉の表情が変わる。
「先の荷?」
恒一郎は勝手口の外へ出た。
夜道の先。
遠くに、小さな灯りが揺れている。
荷車らしい。
ゆっくりと町の西へ遠ざかっていく。
恒一郎は目を凝らした。
今止めた荷車からは、黒い糸は伸びていない。
だが。
暗い夜道の向こうへ、細い黒い糸が一本伸びていた。
「恒一郎?」
朱莉の声がする。
恒一郎は遠ざかる灯りを見たまま答えた。
「先に出た方だ」




